第34話 古城の騎士 その3


(承前)


 とにかく不調の原因がわからない。


 何人もの医師や薬師、さらには魔法士まで頼って娘の回復を図ったが、結果ははかばかしくなかった。誰もが口を揃えて体には異常がないと言う。なのに娘の体力は日ごとに落ち、今ではこうして床につく時間の方が長くなった。まさかこのまま、とよくない想像ばかりが浮かび、ジーナの心労も重なっている。


 無双の剣を持ちながらおのれの無力を噛みしめる日々が無念であった。人前で気丈に振る舞う妻が不憫で胸が痛む。今の彼は千人の敵を斬り伏せる力より一人の娘を救う力が欲しいのだ。


 かつて微笑ましく映った第二王女の無邪気さも今は見るのがつらい。わが娘もああであってほしいと常々願っていたのに。


 一縷の望みを託し、つてを頼って三日前に招いたのが先ほどの老人であった。


 この国に七人しかいないとされる一級魔法士である。老人は「おまかせください」と笑顔で胸を張った。娘の眠る寝台ごと包み込むような魔法陣の輝きはダンテス夫妻にとって文字どおり希望の光であった。


 そして確かに効果はあった。


 娘の青ざめた頬にほんのりと赤みが差し、わずかに睫毛が震えて目を開ける。傍らの両親に気がつくと「おはよう」と笑みがもれた。久しぶりに見る陰りのない笑顔にダンテス夫妻は大きなため息をもらした。まさに愁眉を開いた思いである。


 あどけない声が涙ぐむ母の姿に「どうしたの、お母さま」と言う。その愛おしさに伯爵の胸は震えた。天から光明が差し、暗雲を払った瞬間を彼は確かに実感したのである。


 だが翌日、夫妻は深い失望に見舞われた。レニの復調は一夜限りのともしびに過ぎなかったのである。


 まだ軽いものしか出せなかったが、朝食も昼食もレニは喜んで食べた。美味しいと笑みを浮かべるその顔に夫妻は心からの安堵を覚えた。一級魔法士の老人は余裕の笑顔で「もう大丈夫でしょう」と胸を張った。


 ところが、午後の陽が傾く頃になると、レニの表情が陰り始めた。くたびれた、眠いと言って横になるとまるで意識を失うようにすとんと眠りに落ちたのである。頬の赤みが引き、昨日までの青ざめた顔色に戻ってしまう。経過を見るためにまだ城に残っていた魔法士の老人は厳しい表情で再び、魔法陣の輝きを呼び出した。だが——。


 昨日は確かに効果があったのに、二度目の奇跡は訪れなかった。


 老人の魔法陣は霊力のないダンテス夫妻にさえ力感が伝わってくるほど強力なものだった。なのに寝台に眠る幼い少女には届かない。なんの効力もないただの幻影と化していたのだ。


「馬鹿な、ありえん……」


 一級魔法士ともなれば霊力、技術、知識、そして経験のすべてにおいて下級魔法士たちの比ではない。地方領主に匹敵する権威と敬意を授かる身分である。それだけの実力があるのだ。


 老人は一級魔法士の誇りにかけ。全力を尽くした。知りうる限りの術を動員し、秘伝とされている希少な薬草をも惜しまなかった。光の魔法陣に太陽や木々、涼風といった最も人の生命力に馴染む属性を加えて少女を照らした。複数存在する治癒魔法を組み合わせて魔法陣を練った。たとえ切断された四肢さえその場で再生するほどの強力な術である。


 だがそれらはいずれも砂に染み込む雨粒のように手応えがなく、力を発揮することはなかった。一時的に効果があったように思える時もあったが長続きしない。魔法を極めた老人にしてもこんな事態は初めてであった。


「こんなはずはない、いったいなにが邪魔しておるというのだ」


 それから一昼夜、老人はありとあらゆる方法を試み——そして敗北を知った。


「伯爵どの、まことに申し訳ござらん。知る限りの手を尽くしましたが」


「老師どの、これはいったいいかなる病なのでしょう」


「なにかがこの子の命の源泉を蝕んでおる。そこまではわかる。だがその『なにか』がわからぬ。魔法が届かぬ深いところに原因があるのやもしれんが、この老いぼれの目には映らぬことが口惜しい」


「では娘は……」


「最初に試した治癒の魔法は一時的に効果が見えた。ということは回復の可能性はあるということ。そのための手段を探ることさえできれば」


 それを見抜けないおのれの未熟を老人はしきりに悔やんだ。


 伯爵は唇を噛み締め、老魔法士に問うた。


「では我々はいかにすべきでありましょう」


「わしには見抜けぬ真の原因を見通す者がおれば」


「しかし、一級魔法士の老師に見えぬものを見抜く者など」


 すると老人は少し口ごもった後、こう続けた。


「伯爵どの、わしら古参の魔法士の間には根拠も定かならぬいくつかの口伝がある。その中に、この世には一級魔法士を凌ぐ霊力を持つ者が存在すると。すなわち『超級魔法士』とでもいおうか」


「超級……魔法士?」


「全世界で合わせても数名しかおらんという話だが根拠はない。ただ——」


 老人はそこで言葉を区切り、ぽそりとつぶやいた。


「わし個人はこのファーラムの第一王女、クーリア姫こそはその一人ではあるまいか、そう思っている」


 ダンテス夫妻は目をみはり、絶句した。


「姫さまが……」


「根拠はない、だがわしの魔法士としての勘がな」


 それ以上は不敬であると思ったのか老人は口を閉ざしたが、その言わんとすることは夫妻にも正確に伝わった。すなわち、四大騎士の頼みとあれば姫さまにご出馬願うこともあながち非礼とはいえぬであろうと。


 そうして老人は城を去ったのであった。


 彼の残した言葉が耳から離れない。伯爵は唇を噛み、懸命に自制する妻の内心の声を聞いていた。


 ——姫さまにお越しいただくことはできませんか。


 言葉にするまでもない。思いは同じだ。目の当たりにする機会はなかったが、わずか十歳にして一級魔法士に匹敵する霊力を示したとされるクーリア姫。もし老人の勘が正しければ原因不明の娘の病に光明を期待できるおそらく最後の希望であろう。


 だが、いかに高名な騎士であろうと個人の事情で国の第一王女に助力を願い出るなどということはできない。彼の中には騎士として、貴族として、そしてなにより忠誠を捧げた国王の臣下としてそのようなわがままは許されないという固い規律がある。だがそれでも——。


「すまぬ、今しばらく耐えてくれ。必ずなんとかする」


 今はそう言ってそっと妻の肩を抱くのが精一杯だった。


     ***


 その夜、老魔法士と入れ替わりに伯爵の城を訪れた人物がいた。ジーナの父であり伯爵にとっては義父にあたるギリク・エレオン子爵である。


 エレオン家は爵位こそ低いもののそれなりに長い歴史を持つ旧家で、現当主の代になってからも地道に家を盛り立ててきた。ギリクは一見風采の上がらない初老の下級貴族にすぎないが、その実、交渉ごとを得意とする粘り腰の性格で一目置かれていた。


 一人娘がダンテス家に輿入れしたため直系の後継者を失うことになったが、名門貴族の遠戚に入ることでそれ以上の価値を得た。かの名高い騎士シュトルム・ダンテス二世の義父という立場はエレオンの名を大いに高めてくれる。それを下心と非難する者はいない。この程度の打算は貴族階級なら茶飯事であり、ダンテス側も承知のことだからだ。


 シュトルムとジーナの間に娘が生まれたことでダンテスとエレオンのつながりはより濃いものとなった。それは確かだが、愛らしい孫娘の存在はギリクにとってもそうした打算抜きで大きな喜びであった。


 そのレニが原因不明の病に伏している。


 普段はあまり表情を表に出さないギリクにとってもこれは大きな心痛となった。わがことのように八方手を尽くし、あの一級魔法士の老人に依頼できたのも彼の尽力によるところが大きい。今もこうして三日にあげず城に通ってくるのである。


 そのギリク・エレオンはひと目で事態がはかばかしくないことを悟った。娘夫婦の沈痛な表情は顛末を語るまでもないと告げていたからだ。


「そうか……」


 それだけつぶやくと長椅子に沈み込む。執事たちも下がらせた客間でダンテス夫妻とギリクの三人だけが肩を落としていた。


 この城にはダンテスの弟夫婦や従兄弟たちとその家族、そしてシュトルムの父母も同居しているのだが、誰もが当主の心中を慮って席を外している。国の英雄となった息子に早々と爵位を譲った前当主夫妻は気をもむばかりで息子に助力するすべを持たない。それを悔いてか手を尽くして動いてくれるギリクに頭を下げるだけだった。


「一級魔法士でも力及ばぬとは……」


 義父どの、と伯爵は顔を上げた。妙な呼称だが貴族階級では爵位の上下はそのまま身分の上下を意味する。下位の者を父上と呼べないのはシュトルムの規律に対する頑なさであったろうか。


「すみません、これほど手を尽くしてくださっているというのに」


「なにを言われる、伯爵どのが詫びる必要など」


「ですが」


 他国にまで勇名轟く騎士の目に、今は痛みと懊悩の光がある。妻にはああ言ったものの、事態はほとんど手詰まりに近い。彼の強固な克己の心もともすればくずおれそうに揺らいでいた。


 一時は光明が見えかけただけに失望の痛手は大きく、さしもの彼も途方に暮れていたのだ。


「そう力を落とされるな、必ず手はあるはずだ。伯爵どのが弱気になられては皆も心細い。貴殿は一門を照らす光なのだから」


「義父どの……」


「あの魔法士はなんと言われた? たとえ不首尾に終わったといえども一級魔法士、手がかりのひとつなりとも」


 ギリクがそう問うと若き伯爵家の当主は一度口ごもり、傍の妻と顔を見合わせた。普段の彼であれば決して他言することはなかったであろう。だが、娘の未来に対する不安と恐怖がその戒めを緩めた。


「実は……ひとつだけ、それらしき助言をいただきました。皆まで言葉にされたわけではありませんが」


 そうして伯爵は根拠も定かでないひとつの可能性について語ったのである。


「姫さまが……」


 子爵はおおいに驚き、低く唸った。


「まさかそのようなことが」


「私たちも信じられぬ思いでした。ですがたとえ儚い望みであろうと可能性があるのであれば。正直、どうしたものかと」


 広い室内を沈黙が支配していた。言葉にならないのである。ジーナは決して取り乱すことはないが心は懸命に「あの子を助けて!」と叫んでおり、男たちにはその声が耳元で聞こえる思いであった。


 そうして重苦しい時間がどれほど曲がれたろう。やがてギリクがきしるような声で口を開いた。


「伯爵どの、もし、もしもの話だが」


「はい」


「姫さまが目の前におわしたら貴殿には非礼を承知で娘をお救いくださいと願い出ることができるか。むろんお咎めも覚悟の上でだ」


「それは……」


「普段の伯爵どのであればおのれの矜持が決して言わせぬであろう。だがもし姫さまがこの城で貴殿の前に立ったとしたら」


 ジーナが思わず目をみはり、伯爵は絶句した。クーリア姫をここに、自分の目の前に呼ぶことが叶うなら。それは彼自身が願い、そして不可能だと断じたことだった。だが、もし叶うものなら……。


「もし、それが叶うとしたら私の意地も矜持も娘のために捨てましょう。たとえ陛下からお咎めを受けることになっても」


「ならば賭けてみよう、貴殿の強運に」


「どういうことでしょう、そんなことが本当にできると?」


「要は姫さまをこの城にお招きする名分が立てばよいのであろう?」


「はい、ですがその算段が」


 日頃は風采の上がらぬ子爵が鋭い眼光とともにこう言い切った。


「策がある。ダンテス家の先祖に感謝なされよ」

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