第31話 賢者と愚者、かく語りき その4


(承前)


「待て! おぬしは!」


 老博士が堪りかねて叫んだ。愕然として顔色が変わっていた。彼は知的問答のつもりで葵に問いを投げた。歯ごたえのある話し相手と認め、興が乗ったのであろう。だが、葵は異様な集中から思いもかけぬ答えを引き出そうとしていた。言葉が途切れがちになるほど極度の精神集中で顔つきまでが変わっている。


 明らかに先ほどまでの声音ではない。瞳は深く輝き、室内の空気が一変した。目の前の少女は、老博士の微弱な霊力でさえそれとわかるほど大量のルフトをまとっているのだ。


 その言葉が彼女の論理の帰結なのか、それとも不可視の深淵からもたらされた天啓なのかは不明だ。ただ、この少女の内に浮かび上がろうとしているなにかが老博士に本能的な畏れを呼び起こした。


 この先を聞くことに恐怖を感じたのだ。


「魔法は世界の創造と破壊……そのどちらをも可能とする。ゆえに神々は……」


 そこでふっつりと声が途切れ、葵は目を閉じて沈黙した。眠っているわけではないが、椅子に腰掛けた姿勢のまま身じろぎもしない。老博士は絶句し、瞬きを繰り返していた。


「あの、アオイ?」


 アルが息苦しさに耐えかねたように声をかけると少女はふいに目を開け、彼の方に首だけを回した。


「大丈夫、ちゃんと起きてるから」


 それがいつもの声だったので少年は心底ほっとした。張り詰めた緊張感に圧迫を感じていたのだ。


 葵はまだ少し考え深げだったが、老博士にこう続けた。


「ええと、今のは保留にしといてくれる?」


「……おぬし、いったい何者じゃ」


「ミア・カルナック」


「なんじゃと!」


「冗談だよ、気にしないで。それより先生の話は? あれじゃまだ半分でしょ」


「半分とは?」


 またこれだ。はぐらかしながら逆に問いかけて話の主導権を手放さない。このちょっとずるい論法が葵は実に巧みでアルを呆れさせる。こうした図太さも彼にとっては大いに学びたい強さだった。


「先生が学問としての魔法の歴史から逸脱してまで危ない研究に踏み込んだ本当の理由」


「それはすでに話したであろう」


「そうかな、一番のお友だちと袂を分かったのはなぜ? 先生が魔法の研究に打ち込み出したのはそれからじゃないの」


 さっと老博士の顔が険しさを増した。声が厳しくなったのがアルにもわかる。


「……なんじゃと」


「深く語り合った仲、ともに扉を開こうと研鑽を積んだはずなのに」


「……まさか、おぬしには」


 葵は答えず老博士の目をひたと見据えていた。短いが無言の応酬があり、老博士はなにかを了解したようだった。


「……なるほど、そうであったか。オケイアを見る者、おぬしの知恵の源泉はそれか、どうりでな」


「あたしはそんな大それた人間じゃないよ、でも聞こえる声は大事にする」


「ずるいな、それではわしに勝ち目はない」


 厳しかった老博士の表情がふっとゆるんだ。嘆息とともにもらした苦笑いにはうっすらとした後悔や諦めの色が滲んでいた。


「——仲のよい同輩でな、名をヤグート・ギザといった。歳も近いしわしは史学、奴は魔法、専攻する分野も近く、幾度も語り明かした。特にカプリアの発見で魔法が一般に開放されて以降、歴史と文明と魔法は切っても切れぬ関係にあり、様々な話題で議論したものじゃ」


 だが、いつの頃からか二人の間には微妙な齟齬が生まれ始めた。歴史を学ぶコアラ・コップスはその成果をもって現代、そして未来を見定めようと志した。よりよい明日を求めて学ぶことが彼の信条だったからだ。


 だが友人は明日ではなく昨日に惹かれるようになった。魔法という底知れぬ歴史を経てきた文化に分け入ったせいだろうか。古いものの中に真実があると主張して研究に打ち込んだ。


 神殿は王立図書館を凌ぐ文献の宝庫であり、ヤグートは日毎にその深層にのめり込んでいった。地方の伝承を訪ね歩き、時には古文書のたった一行の記述を確かめるために国境を越える旅に出たこともあった。


「——あれにはれっきとした霊力があったのでな、自らの手で魔法に触れることで真実に近づこうとしたのじゃろう」


 そうして十年が瞬く間に過ぎた。


 ある日、旅から戻った友人の顔を見てコアラ・コップスは衝撃を受けた。


 痩せさらばえ肉の落ちた体は重病人のそれだった。丈高く怜悧な秀才の面影はどこにもなかった。それでいて落ち窪んだ眼窩の奥に執念の火が灯っていた。今にも折れそうなのに触れれば火傷しそうな鋭さを感じた。議論で対立することはあってもそんな目で人を見る男ではなかったはずなのに。


「——むろん問うたよ、なにがあったのかと」


 だが、旧友の問いに男はこう答えて笑ったのだ。


「見えたぞ、真実に至る道がな」


 それは幽鬼を思わせる悲惨な笑いであったという。コアラ・コップスはすでに埋めがたいほどの溝が両者の間にできてしまったことを痛感した。少しずつ変わっていく友人のことが気にはなっていた。なのになにもしなかった自分の怠惰にほぞを噛んだ。男がなにを見、なにを経てこうなってしまったのかはわからない。魔法の真実を求めた結果がこれなのか、それとも旅路の果てに男を変えるようななにかがあったのか。


 わからない。わからないが、男は熱に浮かされたように古い友人の手を掴んだ。


「ココよ、おまえは言ったな、学ぶことの意義はよりよい明日のためにあると。それがおまえの行く道ならそれもよかろう。だが覚えておけ、おまえが是とする今の人の世はいずれ腐って滅ぶ。試練がなく、厳しさもない。競うことを忘れ、前へと向かう覇気もない。わかるか? 今の世には進歩の源となる力が抜け落ちているのだ。古人いにしえびとはぬるい魔法を解き放つことでおまえたちを長い惰眠に落としたのだ。前へ進もうとする世界を押しとどめ、人がゆるやかに滅ぶことを願ってな」


「なにを言う、人はちゃんと前へ向かっているではないか。確かに魔法は万能ではないが、暮らしを豊かに、便利にしている。傷や病で伏しても治癒の術はある。戦も犯罪も絶えてはおらんが人は賢くなっている。ゆるやかではあっても克服の努力は少しずつ報われている」


「ならば生きながらえてその目で確かめることだ。平和は滅びの友だということを」


「それが魔法を追い続けたおまえの答えか」


 コアラ・コップスは歯をくいしばるようにして踏みとどまった。引いてはならぬ、気圧されてはならぬ、古い友であればこそ。


「ふふ、気になるか? ならばおまえも来い。魔法のなんたるかを知って大いなる皮肉の罠を笑うがいい」


「神殿の博士が神を呪うか」


 それが男と交わした最後の言葉だった。翌朝、男の姿はなく、以来一度もまみえることはなかった。噂を耳にすることもなく、ヤグート・ギザは消息を絶った。


「その人の言葉が先生の本当の動機?」


「おぬしに嘘はつけんのだろう? 認めよう。決して節を曲げたわけではないが、正直、わしは魔法のなんたるかを知らなんだ。奴と同じ道はゆけぬ、だが奴を変えたものの正体を知りたいと思った。わし自身が深みにはまりかけておる今、ここでおぬしに出会ったことはわしにとっては僥倖であるのかもしれん」


 老博士はそう言葉を結んで語り終えた。おそらく誰にも明かしたことのない彼の本心であったろう。葵はもっと学術上の話を聞くつもりで来たはずだが、充分な収穫を得たという顔だった。彼女の不可解な言葉はもしかすると神託や天啓の類であったのかもしれないが、今はまだアルにも整理がつかない。彼女が話してくれるかどうかもわからないが、今日この場に立ち会えたことは得難い経験だった。


 陽はそろそろ西に傾きつつあり、葵は老博士に礼を述べて辞することになった。


「また来ます」


「うむ、いつなりと」


 短く言い交わしただけだったが老賢者の表情は穏やかであった。


 老博士は一人考えに沈んでいた。あれからアルカンに「心配かけた」と一言詫び、夕食もそこそこに自室にこもっているのだった。心にあるのはむろん今日の印象的な客人についてである。


 噂は聞いていた。神殿という俗世とはろくに関わりのない施設にいてさえ聞こえてくるのは様々に誇張された年若い魔法士の噂である。その大半は人々が面白がって口にするでたらめな逸話ばかりだが、あの聡明なクーリア王女が認めたという一点において、たわごとと退けるわけにはいかない。噂はともかく、彼もその名に興味はあった。


 だが、実際に対面した少女の印象は驚くべきものであった。


 なんという不思議な娘であったろう。


 いまだに交わした言葉の数々が心を騒がせる。ものを考えるということを習慣とする彼から見てもあの若さであの思考力は驚嘆に値する。加えてあの閃き。それが不可視の示唆によるものだとするならもはや常人とは視点が違う。あの娘には人や社会、果てはこの世界がどう見えているのだろうか。


 保留とことわったあの時の言葉、あれはなにを意味するのだ? まるで託宣を下す巫女のように少女の口に宿ったのは紛れもない言霊であった。もしかするとあれこそは真理の扉が開いた一瞬ではなかったか。


 ——魔法の本質とは自然を操る力であり、それは最終的に世界そのものを操る力へと向かう。そこに至って魔法は真に完成し、人はこの世界を操ることさえなしうる。創造と破壊のいずれであろうと——


 そう語られた時、背筋が震えた。人が聞いてはならぬ世界の秘密を聞いてしまったような気がしたのだ。そして激しいもどかしさも。


 ゆえに神々は——。


 途切れた言葉のその先が今になって気になる。あの娘はあの時なにを言おうとしていたのだろう。神々だと? なんのことだ?


 汝は何者かという彼の問いかけにあの娘はこう答えた。ミア・カルナックと。


 冗談だと打ち消したその言葉は古代語で矛盾した者を意味する。だが同時に矛盾を統合する者というもうひとつの意味も持つ。謎めいたあの娘には似合いとも思えるが、そう口にした真意はわからない。


 わからない。わからない。わからないことだらけだ。あの娘の正体も、今この時に自分があの娘と出会った意味も。ただ、ひとつの予感が胸中でまたたいていた。


 動く。


 人も国も、そしてこの世も大きく動く時がやってくる。あの男が惰眠と称した穏やかな日々は大きな変動の時を迎えようとしている。


 あの娘はそれを告げるためにやってきたのだ

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