第30話 賢者と愚者、かく語りき その3
(承前)
「この下手くそ!」
「なに」
「未熟者!」
「おぬし、いったいなにを」
「なにを、じゃないでしょ! あんな粗雑な魔法陣を弄ぶのが研究? もう少しで死ぬところだったんだよ、わかってる?」
葵がこれほど強い口調でものを言うところを初めて見たアルは絶句していた。さっきの空き地からずっと彼女が不機嫌そうに見えたのは間違いではなかったのだ。だが理由がわからない。初対面の年長者に礼を失するような少女ではないはずなのになぜ?
驚いたのはアルカンも同じだ。よもやこの神殿随一の学徒を叱りつける人間がいようとは。しかもそれが年若い娘なのだ。快活だが先ほどまで充分に礼儀正しく穏やかに彼と接していたのになぜ、ととまどった。
ところが叱責された当の老人は不満げではあったものの、激することはなかった。
「わかっておる……」
「本当に?」
「だからあの場所を選んだ。あそこなら誰にも迷惑はかけん」
「誰にも邪魔されん、の間違いでしょ。あなた全然わかってないよ」
葵は全く容赦がない。老人はそこで伏せがちだった顔を上げた。
「きつい娘じゃな、なにが不満だ」
「あなたが魔法を舐めてるから。迷惑はかけんですって? 雷を呼ぶのと雷を操るのは別物だよ。意図しないところに落雷したらどうするの、神殿を直撃してたかもしれないし、現にあなたの真上に落ちてきたじゃない。あなたは黒焦げになっても本望でしょうけど、みっともない焼死体の後始末をするアルカンさんの身にもなって。一番の研究者を失う神殿の損失は考えたの?」
一気にまくし立てた葵の剣幕に全員が呆気にとられ言葉もなかった。この少女が本気で怒っていることを三者三様ながら全員が痛感していた。
「未熟か……確かにな。言われずとも承知しておる。それでも確かめずにはおれんのだ」
「確かめる? なにを?」
「真の魔法に至る道じゃ」
老博士の言葉に葵の瞳がきらめいた。
「あの危なっかしい魔法陣で?」
「道は閉ざされているわけではない。だが
「あなたが人跡稀な荒野にたった一人で住んでいるならね。人の世で暮らしながらそれを言うのは思慮が足りないよ。皆があなたのことを尊敬し大事に思っているのにあなたはその人たちのことを少しでも考えた?」
いつの間にか葵の声は穏やかな口調に戻っていた。
「ならば……どうせよと言うんじゃ」
「古い魔法は正体不明で威力も大きいよ。挑むならそれ相応の準備をしなきゃ。魔法陣の組み立ては正しいか、顕現咒の文法に誤りはないか、発動後の制御は考慮したか、ルフトの流れは正常か、全部検討しないと。想定外の反応を引き起こすことだってあるでしょ」
老人は葵の言葉に目をみはった。それはまるで経験豊かな大魔法士の台詞ではないかと驚嘆していた。
「……おぬしは、もしや」
「未知の魔法を一人でいじろうとするからあんな杜撰なものが出てくるんだよ。はた迷惑だからやめて」
口調こそおだやかになったが言ってることは手厳しい。思い当たる節があるのか老人はすっかり肩を落としてしまった。
「はた迷惑か、返す言葉もないの。わしの魔法陣はそれほどに稚拙だったか」
「実験は誰か腕のいい魔法士と組んでやった方がいいと思う。あなたでは魔法陣を保持しきれない。それは自分でもわかるでしょ」
老人は再び大きなため息をもらした。こうまではっきり「落第」を言い渡されては自分をごまかすこともできない。
「ではおぬしならどうだ、先ほど雷はわしの頭上に落ちた。あれをはねのけたのはおぬしであろう。わしには及びもつかぬ術じゃ」
すでの目の前の少女がただならぬ存在だと悟っているのか、老人の口調はにわかに熱を帯びた。
「あたしはここの魔法は初心者だからお役には立てないよ、さっきはたまたまうまくいっただけ」
「たまたまで雷に飛び込むのか? 失敗したらどうする」
「そのときは焼死体が二つになっただけ。とにかく魔法はもっと慎重に扱って」
先日の二重魔法陣の軽率な実験を棚に上げて葵はそう言い渡した。
「やむを得ん、誓約しよう。その代わり試したいことができたら相談に乗ってもらいたい。未熟者が馬鹿をしでかさんようにな」
「考えとく」
すっかり落胆しているかに見えた老人が意外に粘る。そして即答しない葵のしたたかさ。アルにはどちらも「勉強になるなあ」と思わせる応酬であった。老人はまたとない優秀な魔法士と知遇を得、葵は神殿一の研究者に貸しを作ったのだ。意見を戦わせるというのはこういうしぶとさがあって初めて対等であり得るのだ。今のアルにはまだまだ及ばぬ境地だと感じる。
そしてこの若さで神殿の老博士にひけをとらない如月葵の知的な胆力に改めて感嘆する。
そうして老博士と如月葵の応酬は第二幕へと移った。
あとで説明すると言われていたが、葵と老博士のやりとりでアルにはおおよその事情が飲み込めた。
つまり、あの時老人——ココ先生は雷を呼ぶ魔法を実験していたが、それは不完全なもので雷は彼自身の上に落ちてきた。葵はなんらかの魔法でそれを防ぎ、その無謀な試みを叱責した。結果、彼は自らの不明を恥じ、以後は杜撰な実験を慎むと明言した——ということらしい。
言葉にすれば簡単だが、目の当たりにした光景は衝撃的だった。
葵たちのいう魔法とアルの知る魔法はどうやら別種のものであるらしいのだ。危険で荒々しく、一歩間違えれば命に関わる。ここへきていつぞやの書物の記述がにわかに実感できた気がした。
——魔法はいまだに神秘の扉を隠し持ち、神々の火はその向こうで常に降り落ちる時を待っている。扉に手をかけんとする者は常に心せよ。慈悲と災い、天はそのどちらをも与える用意があると——
葵や老博士はその扉の向こうの話をしているのだ。
扉の向こう側……今日アルが垣間見たものはその一端であった。黒騎士とその連れの魔法士の娘についてはすでに様々な噂が流れている。大半は面白おかしく誇張された無責任な逸話ばかりだが、二人の実像を知る者は少ない。実際に四大騎士の一人を退けた恭一の剣はともかく、葵の魔法についてはキサラギ館に住むアルたちでさえ知らない。彼女は一度としてそれらしい真似をしたことがなかったからだ。
降り落ちる稲妻を跳ね返す魔法だって?
いったいどうやったらそんなことが可能になるんだろう。あの時、金色の魔法陣らしい円環がちらりと見えた気がしたが、直後の閃光と轟音でそれ以上のことは覚えていない。葵の足元を囲むように雑草が円形に焼け焦げていたのはその名残であろうか。
わからない。これは書物ではうかがい知ることのできない世界なのだ。三十年も研究を重ねた人間にも触れ得ないなにか、そして特別な才ある者のみに許された道。如月葵はそこに手が届く人間なのだ。そうとしか思えない。
キサラギ館の二人と関わることになった自分ももしかすると稀有な運命に招かれたのかもしれない。以前ならきっと尻込みしていた。だが今は違う。正体不明のわくわくする感じ、前へ、と促す声を心の内に感じるのだ。
書物の山に隠れるようにして日常の煩わしさから逃げてきた少年は、今、否応なく世界に向き合わされようとしているのだった。
***
リオを別室で休ませ、葵とアルは老博士の居室へ移動した。
元々は魔法とその歴史的意義について彼と突っ込んだ話をするのが葵の目的だった。思わぬ事故はあったが本題はこれからだ。
「ココ先生、そもそも学者さんであるあなたが自分で危険な実験をしてまで古い魔法を探求しようと思ったのはなぜ?」
結局挨拶らしい挨拶は交わさぬまま、葵は本題に入った。老博士はひとつ大きく息をもらすと少し遠い目になった。
「少々古い話になるが……本来は史学的な興味から、と申しておこうか。この世界の歴史と文明について古の文献をひもとく、ま、若い学徒としてはありふれた道じゃな。この神殿に席を得たばかりのわしは我こそ未来の大学者たらんと自惚れつつ、日々を過ごしていた。学びの道は奥深く、当然、その中の一要素として魔法も対象とした。近代文明に大きな影響を与えたことは疑いようもない事実じゃからな」
老博士は運ばせた茶を一口含んで続けた。
「知ってのとおり、本来、魔法も魔法陣も厳重に秘匿された秘儀であった。ゆえに伝えられる資料にも真実のすべてが記されておるわけではない。謎について書かれたものはそれ自体が謎となる。そして謎というのは人を惹きつけるもの、深みにはまれば容易には抜け出せん」
「では先生も?」
「予感はあったよ、学問を志す者には生得的にそうした気質があるからの」
しかし、と老博士は続けた。口元に浮かぶのは苦笑と見えなくもない。
「古文書から怪しげな口伝に至るまで、探れば探るほど魔法は謎そのものだった。魔法士たちがおそらく数千年にわたって積み上げてきた知恵と技術の体系には感嘆するほかない。天から知恵の実を掠め取ったと言われても不思議ではないほどにな。なぜ人の身にそのようなことが可能だったのか、魔法とはいったいなんなのか、考え出せばもう泥沼じゃ」
「今の魔法は『考えなくてもいい』魔法だけどね」
「しかりじゃな。魔法陣の公開に百年余を要したのもその調整に慎重になったからであろう」
「安全な魔法と危ない魔法の切り分けで揉めた、と思っていたけどその本質は考えなくていい魔法の選別だったと?」
「おそらく。人を虜にする謎とそうでない謎、後者を選り分けてカプリアに刻むことで人々を深淵から遠ざける。それが当時の激論の本質であったとわしは思う」
アルは内心の驚きに打たれていた。それは葵の誘導でアルが推測した答えに近い。そう考えると老博士の思考の筋道がうっすらと予感できる気がする。
「では非公開とした謎の本質はなにか? 当然そこに興味が湧く。これはもう学者の業のようなものじゃからな、そこで立ち止まるようでは怠惰の誹りは免れん」
「危険性だけではない、そうお考えになった」
「むしろ、その危険性はなにゆえか、と問うべきであろうな。おぬしならどう考える」
ここで葵は初めて沈黙した。高速に思考している様子がアルにはわかる。如月葵はアルには及びもつかないほど多様な筋道から論理を組み立てる。彼がなにより学びたいと思っている彼女の特質だ。
「……危険なのは魔法という技術が未完成だから」
やがて葵はそう語り出した。その声を聞いたアルはなぜかどきりとした。葵の声音に得体の知れぬ衝撃を感じたのである。彼女の日常を知るアルだからこそ感じたなにか。だが少年の小さな困惑をよそに少女は語り始めた。
「秘めた力が大きいのに、その本質を知らないまま人は魔法を知ってしまった。御する術なく無数の過ちと犠牲の果てに学んだのは自分たちが愚かであるという事実」
「人は愚か……それは心得ておるつもりじゃ。では魔法の本質とはなんだ」
「……魔法はある一点から発し、拡大と変容をくり返しながら、いずれまたその一点に向かうよう定められている。それは表裏二つの真実を持ち、人が愚行の末にたどり着いた答えは表の儀、すなわち魔法とは自然を操るものなり。ゆえに賢者は畏れ、愚者には扱いかねる」
この人は! いつにない葵の語り口にアルは驚き、背中がおののくのを感じた。自分がとんでもないことを聞いている気がして息が詰まった。少女の声に違和感を覚えた彼の予感は的中しようとしている!
「……ではもうひとつの、裏の真実とはなんじゃ」
問いかける老博士の声もかすれていた。目の前の少女が尋常ならざることを口にしていると悟ったのだ。長年の研究でも見えてこなかったなにかが、今、少女の口に宿ろうとしていた。
「自然を操る力、すなわち魔法は最終的にどこへ向かうのか……それは世界」
「世界……」
「世界そのものの在りように触れる力……それが叶ったとき……魔法は真に完成し、人は世界そのものを……操ることをなしうる……」
「待て! おぬしは!」
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