第29話 賢者と愚者、かく語りき その2



 神殿の裏手はフィントの実がなる林になっていた。


 フィントというのは林檎に似た薄緑色の果実で、初めて食べたときは「林檎かな」「梨だろう」と恭一と意見が分かれた。糖度が高く、癖のない甘さで「これは向こうでも欲しいね」という点で意見の一致をみた。


「元は野生だったのですが、せっかく神殿の側に生えているのだからと二百年ほど前からは私たちが栽培することになりました。立場上、果実酒など作るわけにはまいりませんが、街の商人がよい値で引き取ってくれます」


「あれはたぶんジャムにすると美味しいと思いますよ」


「ジャム、と言いますと?」


「こちらにはありませんか? おおざっぱにいうと果実に砂糖を加えて煮詰めたものです。パンに塗って食べると美味しいですよ、保存もききますから小綺麗な瓶にでも詰めて売ったらここの名物になるかも」


「ほう、それは興味深いですな、詳しくお聞きしたい」


「あたしもフィントで作ったことはないのでうまくできたら実物を届けましょう」


「楽しみにしております」


 栽培しているといっても自然の林に多少手を加えた程度のようで、林の中に小道が整備されているのはそのためだろう。他の木が寿命で朽ちるとその跡にフィントの木を植えることで少しずつフィントの林に近づけたのだという。


「神殿は気の長い人間ばかりですからな」


 そう言ってアルカンが笑ったあたりで林は途切れ、上りのゆるやかな傾斜の草地に出た。午後の陽射しは強いが、吹き渡る風が気持ちいい。


「先生はおそらくこの向こうにおられると思います。お気に入りの場所なので」


「きっと景色がよいのでしょうね」


「いえ、なにもありません。ただの空き地です」


「なのにお気に入り?」


「それがいいとおっしゃるんですよ、余計なものがない、すなわち思考を妨げる雑音がないと」


 葵はアルと顔を見合わせて軽く肩をすくめた。これはもしかするとたいそう偏屈なおじいさんかもしれないぞ、とお互いの顔が言っていた。


 と、そこで葵の足が止まった。立ち止まったままあらぬ方を見ている。


「アオイ?」


 なにか言いかけたアルを片手で軽く制してゆっくり周囲を見回す。そうして独り言のようにもらした。


「ルフトの流れが変。不規則だし不安定」


 他の三人は怪訝な顔だったが、葵はかまわず周囲の気配を探った。自然状態でルフトが不規則な流れを示すことはまずない。あるとすれば人が動かしている場合だ。魔法士がなんらかの魔法を使えば必ずルフトに変動が生ずる。しかしその場合にも一定の秩序らしきものは感じられる。術者が優秀であればあるほど制御も巧みだからだ。


 だが、葵が今感じているのはもっと混沌とした乱れだ。川の流れに岩や石を投げ込んで乱れを生み出している——言葉にすればそんな印象だ。乱された流れが復元しようとしてぶつかり合い、かえって不安定になっているのではないか。


 これが誰かの魔法の兆候だとするならずいぶん雑なやり方だと思った。それとも意図的にルフトを振り回しているのだろうか。そこまで考えてはっとした。それらしい予感はなかったが、もしまた「先回りされていたら?」という危惧が頭の隅をかすめたのだ。葵が神殿でなんらかの示唆を得ることを嫌って何者かが仕掛けてきたとしたら?


 葵は目の前のゆるい傾斜を駆け上がった。なにが起きているにせよ見過ごせないと気が急いた。ぐずぐずしてはいられない。


 いきなり走り出した葵をアルとリオが慌てて追いかけ、アルカンがあとに続いた。理由はわからないが葵の表情にはなにごとか切迫したものが浮かんでいた。ただごとではないと感じたのだ。


 そこはアルカンが語ったようにただの空き地だった。


 短い雑草がわずかに地面を覆い、背の高い木々もほとんど見当たらない。農地でもなくどこかの屋敷の敷地でもない。わずかな起伏が視線のずっと先まで続いていた。


 そこに一人の小柄な老人の姿があった。彼らの位置からは横顔しか見えないが、長い白髪と白い髭、アルカンと同じゆったりとした胴衣をまとい、左手には肩の高さまである長い杖を持っている。


 ココ先生ことコアラ・コップス博士と思しきその老人の目は頭上に向けられていた。そう、そこに浮かび上がった青白い光の円環にだ。


 三重の円と幾何学的な図形が組み合わされたもの——魔法陣である。


 だが、その円弧は一定せず、ともすれば揺らぎそうになっていた。


 危ない、と葵は直感した。


 あの魔法陣の危うさは歴然としていた。系統は水、文様からすると一般的な雨乞いの魔法陣に近い。だが図形の所々に明らかな欠損が生じている。このままでは雨を呼ぶことはできない。なのに周囲のルフトは不安定なままの魔法陣に呼び寄せられている。力感だけは増大しているのに雨乞いとしては発動しない。ではいったい?


 葵は目を凝らした。奇妙だ、と感じるのは雨乞いの魔法陣なのに「水滴」を示す図形が抜け落ちている点だ。いや、意図的に省かれているといってもいい。雨乞いから雨を除くという矛盾した組み方になっているのである。


 雨のない雨乞い? どういうこと?


 不可解で混乱しそうになったが、頭の片隅をなにかがかすめた。雨から水を除いたらなにが残る? 葵がカーストン事件で局所的な集中豪雨を呼んだ時、実際には風、黒雲、雨、雷鳴といった現象が生じた。そこから本体である雨を取り除いたら?


 黒雲や風は単なる過程にすぎない。残るのは……。


 雷。


 まさかあの老人は雷を呼ぼうとしているのか!


 現在の魔法にその術はない。雷などに利用価値はないからだ。生活を便利にする道具として体系化された魔法に雷を必要とする局面など存在しない。


 そう考えるわずかな間にも魔法陣に集積されたルフトは圧力を増していた。葵にはあの魔法陣が不完全な出来だということは明白だった。制御が稚拙でイメージが固定化できていない。機能したとしても落雷すれば術者自身が危険だ。


 間に合え! と内心で叫びながら葵は走った。走りながらあの時ガーラの胸当てから見よう見まねで作った火の粉よけの魔法陣を念じた。無意識に右手を振ったのは周囲のルフトを一気に引き寄せようとイメージしたからだ。


 老人の傍らに駆け込むと頭上の魔法陣を押しのけるように両手を差し上げ、自らの魔法陣を広げた。黄金の軌跡が輝くのと稲妻の閃光が降り落ちるのが同時だった。


「うわっ」


 凄まじい閃光と轟音、そして衝撃にアルたちは転倒し、そろって尻餅をついた。誰であれ、これほど間近に落雷を経験した者は稀だろう。めまいと耳鳴りでしばらくは自分が座り込んでいることにも気がつかなかったほどだ。


 頭を振りながらようやく目を開けたアルは呆然としたまま周囲を見回し、少し先に立つ少女の姿に思わず声が出た。


「アオイ!」


「アルくん、大丈夫だった?」


 にっと笑った葵の足元にはあの老人が座り込み、こちらも呆然としているようだった。立ち上がろうとするそぶりを見せるものの足腰が立たない様子だ。腰が抜けた、というわけだ。


「みんな、手伝って。この人を」


 神殿まで、という声にアルとリオはようやく立ち上がり、アルカンに手を貸して立たせると葵のもとに走り寄った。三人ともまだ足下がやや覚束ない様子なのはそれだけ落雷の衝撃が強烈だったとうことだ。


「先生、ご無事ですか」


 アルカンが青ざめた顔で問うと老人はなにごとか低く呻いたが、まともに言葉が出てこない。こちらも相当な衝撃を受けているようだ。


「リオさん、この人を神殿まで運んであげて、アルカンさん、先にって人を呼んできてください。それから休息のための寝台の用意を」


 否やはなかった。非常時に的確な指示を出してくれる人間はそれが若年の少女であっても上位者なのだ。アルカンは慌てて神殿にとって返し、リオはそのたくましい両肩で老人を背負って歩き出した。


「アルくん、耳はもう大丈夫?」


「はい、なんとか」


「ごめんね、警告する余裕がなかったの」


「いえ、でもいったいなにがあったのですか? 雷が落ちたと思いましたが」


「向こうで説明するよ、あの先生にもいろいろ聞きたいし」


 アルは老人の杖を拾って歩き出したが、ちらりと後ろを振り返って首を傾げた。葵が立っていた場所の周囲を取り巻くように草が焼け焦げていた。


 いったいあの時なにが起きたのだろう。


 そこから神殿に戻るまで葵は一言も口にせず、アルにはなぜか彼女が怒っているような気がしていた。


     ***


 老人は意識こそはっきりしているものの、やはり足腰が心許なく、寝台に横になったまま差し出された水を少しずつ口にしていた。


「先生、どこかお怪我はありませんか」


 アルカンが不安げに尋ねるが、特に外傷らしきものは見当たらない。それでも呼吸は浅く、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。落雷の衝撃もさることながら、彼はもっと別のなにかで消耗している様子だった。


 そこは神殿の「医務室」に相当する部屋で、横になった老人のほかにアルカン、葵、アルの三人が椅子に腰を下ろしていた。リオは人払いのため室外に立っている。


 誰もが言葉少なで、なによりこの場の空気は最初からおかしかった。


 アルカンがうろたえているのは不自然ではないが、葵は黙したままじっと老人を見つめ、対する博士はなぜか葵の顔を直視できず目を伏せている。こちらも言葉に窮しているようだ。アルは事情が分からずただ葵と老人を交互に見つめているだけだった。


 ややあって老人は大きくため息をもらした。


「アルカンどの、すまんが起こしてくれ」


「よろしいのですか? まだお加減が」


「かまわん、このままでは客人と話もできんじゃろ」


 まだ心配顔のアルカンだったが老人の言葉に従い、そっとその背を支えた。上体を起こした老人は水をもう一杯所望したいと言って一口含むとしばらく目を閉じていた。軽く頭を振って小さく「よし」とつぶやくと今度こそ上体に力が入って葵たちに向き直る。どうやらなにかの踏ん切りがついたようだ。


「名乗る必要があるかな?」


「いえ、それには及びません。お初にお目にかかります、コアラ・コップス博士。あたしは葵、アオイ・キサラギと申します」


「ふむ、その名は聞いておるよ。黒騎士の連れの娘とはおぬしのことじゃな」


「ええ、少々事情を抱えておりまして博士のお話をうかがいたく。ですが……」

 

葵はなぜかそこで言葉を濁した。アルにはなんとなくわかる。この少女にしては珍しく言葉を選び損ねたらしいと。態度を決めかねている、とでもいうようにまた黙り込んでしまった。老人にもそれは伝わったようだ。


「その顔だといささか文句がありそうじゃな、かまわん、言うてみい」


 すると葵は一拍の間をおいて「それでは」といきなり言い放ったのである。


「下手くそ!」

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