第25話 旧世界の影 その2



 キサラギ館の書斎は大貴族の図書室並みの蔵書を有している。希覯本のたぐいも少なくない。なにしろ第一王女自らの指示である。関係者が蔵書充実に奔走したことは容易に想像できる。


 今その書斎にアル少年の落ち着いた声が流れていた。


 ——定説ではカプリア石とルフトの関係が発見されて優に五百年の歳月が流れたとされる。だが、近年の研究でこの説は次第に論拠を失いつつある。この大発見はさらに時を遡るのではないかと。


 ——歴史は常に正史と偽史の相克であり、両者は往々にしてその立場を変える。偽とされるものの中に真実がひそんでいた事例は枚挙にいとまがない。魔法と魔法陣、ルフトとカプリアをめぐる様々な言説はいまだ不明な点を多々抱えており、繰り返し問い直すことなしに真実に至る道はない。


 ——かつて百年を超える営々たる努力によって一部の魔法が人々の手に解放され、世界は新たな時代を迎えた。暮らしは豊かに、便利に、そして快適になった。神々の力を掠め取った者には神罰が下る。古の警句はそう伝えてきたが、人々の頭上に神の火が降ることはなかった。魔法は人間の正当な所有物となったのである。だが、本当にそうであろうか。


 ——魔法の解放という歴史的事件が憂慮すべき分断を生んだとする声もある。


 ——魔法士たちが魔法と魔法陣の公開に難色を示し、だが結果的にそれに応じたという紆余曲折には彼らの長年の悩みが大きく関わっていたと思われる。


 ——一方に秘伝であるがゆえの厳重な秘匿性、他方、伝統と秘儀を正しく伝承しなければならないという使命感、この相反する命題が彼らの生には常につきまとう。すなわち「隠されたもの〈オケイア〉」と「顕れるもの〈リアライト〉」の相克である。


 ——魔法が秘匿されていた時代、それは現在では信じがたいほど大きな力を示したとされる。その真偽は今となっては当の魔法士たちにも明らかではない。だがそうした真の魔法は秘匿されたまま歴史の闇に眠っているとされる。


 ——伝えるべきでないと判断された魔法は魔法士自身の手によって葬られた。ただし、完全に消去されたわけではない。奥義に至るささやかな手がかりを魔法陣の形で眠らせ、後代の才ある魔法士が先達の意思を遡ることなしうるなら必ずこれへたどり着くであろうと願って。


 ——こうした論考が果たしてどの程度歴史の真実に迫っているかは更なる研究と地道な発掘作業を待たねば解答しえない。魔法はいまだに神秘の扉を隠し持ち、神々の火はその向こうで常に降り落ちる時を待っている。


 ——扉に手をかけんとする者は常に心せよ。慈悲と災い、天はそのどちらをも与える用意があると。


「ざっとこんなところです」


 読み終えたアルが本を置き、聞き入っていた葵はしばらく無言で考え込んでいた。その目に時折閃きすぎる光を感じる。葵がこういう目をしている時、彼女が全力で思考していることをアルは知っていた。


 キサラギ館でのアルの最も重要な仕事は葵や恭一とともに書斎にこもり、彼らが興味を抱いた主題に沿って本を選び、朗読する作業である。


 葵たちはすでにこの地の文字を覚え、本を読むことも手紙を書くこともできるようになってきたが、まだ当分は辞書が手放せない段階である。この世界の書物は一部の知識階級向けの貴重品で内容も硬い。すらすらと読み解くのはまだ無理なのでアルの助力が必要なのだ。


 彼らの知識欲は旺盛で、おかげでアルはこれまで触れなかった分野の書物まで熟読する癖がついてしまった。二人とも鋭い質問をぶつけてくるのでただの朗読ではたちまち答えに窮してしまう。アル自身にとっても手の抜けない学習の時間であった。


 今日も夕食後にこうして書斎で過ごしている。葵が希望したのは魔法に関して歴史的に俯瞰した書物だった。魔法はアルの専門外だが、本を選ぶ目には自信がある。手に取った一冊を先ほどから朗読している最中であった。


 如月葵は彼の知る他のどんな女性とも違っていた。大胆な発想、鋭い理解、そして矛盾のない論理。誰にも似ていない。強いて挙げれば恭一に近い。剣と魔法、手にした力は別でも二人の呼吸は驚くほどかみ合っている。


 異世界から来たという噂はさすがにどうかと思ったが、ひょっとしたら? と思わせるほど不思議な二人なのだ。噂は気にするなと言われてはいるが……。


「つまり——」


 葵が唐突に沈黙を破り、アルの漂いかけていた心がはっと緊張した。


「魔法と魔法陣に関しては定説はあてにならない。魔法には公開されていない側面があり、その手がかりは魔法陣の中にある。そういう理解でいいかな」


「はい、文意はそれで間違いありませんね。内容の真偽については魔法は専門外》なので私にはなんとも」


「この著者はどういう人? 信頼できる?」


「と、思います。神殿の学者さんから歴史学の教授になった方ですから」


「存命?」


「いえ、もう二十年近く前に」


「そうか、残念。直接話を聞いてみたかったけど」


 葵はまた考える目になってしばらく沈黙した。やがて独り言のように「神殿か」とつぶやき、アルにこう尋ねた。


「ということは、神殿にはそういう学問を研究している人たちがいるってこと?」


「はい、あそこは古い文献に関しては王立図書館以上に充実していると聞きます。世事に煩わされずに済む環境でもありますから」


「となると、やっぱり一度は行ってみるかな」


 口にした時にはもうその気になっていたらしく、クーリアに口利きしてもらおう、などと勝手に決めているのだった。


 そう言えば、とアルは先ほどの本のページをぱらぱらとめくった。


「魔法士、学者、職人が魔法陣の公開で揉めていた時、神殿が関係者の間に立って調停した、と書かれていますね。最初期の十個ほどの魔法陣はそのおかげで公開にこぎつけたと」


「うーん、それ、なんか変」


「はい?」


「神殿や神官ってなるべく俗世と関わりたくないんじゃない? 百年もこじれてきた面倒ごとに首を突っ込むかな? 現に王さまは祭祀には関わらないってクーリアに聞いたよ。魔法陣の公開はどちらかといえば行政上の問題でしょ。政教分離が尊重されてるなら、神殿があえて調停に乗り出してくるなんてにわかには信じられないな」


「なるほど、理屈は確かに」


 もしこれが事実だとすると、と葵は少し面白そうな目でアルにこう問いかけた。


「神殿が面倒な調停を引き受けた理由はなんだと思う?」


「理由ですか、さあ?」


「アルくん、こういうとこだよ、ものを考えるということは」


 あ、試されているなと閃いたが、書物に書かれていない答えを探すという思考に彼は慣れていなかった。


「人間関係の基本はいつの時代も大して変わらないよ。この場合は利害関係や思想的理由を疑ってみようか」


「神殿が調停に乗り出すに足るなんらかの大きな利点があったと?」


「それから?」


「面倒を押してでも調停を引き受ける思想的な、例えば神殿の存在理由に関わるような事情があった」


「ほかには?」


 アルはしばらく考えて「調停しないとなんらかの危機的状況が引き起こされるおそれを感じた、とか?」と答えた。


「うん、じゃあその中のどれが怪しいと思う?」


 アルはまた考え込んだ。今度の沈黙は長かったが葵は焦れずに待ってくれた。


「近いとすれば最後のやつだと思います」


「根拠は?」


「歴史上の大きな事件に鑑みるとわが国の宗教に大きな腐敗や堕落は見られませんから利害関係というのは考えにくいと思います。そうした場合は王宮が乗り出して是正に動くでしょうから。また魔法士は神殿と対立する存在ではありませんでしたから、少なくともこの件で神殿が思想的な権威を望む理由も考えにくいです」


 考えながら言葉を選んでいる少年は「対して」と続けた。


「秘匿された真の魔法という記述が正しいなら魔法陣の公開に当たって揉めたのはそこじゃないかと考えられます。その交渉が行き詰まっていたとすると明確な基準を決めてやらないと安全な魔法も危険な魔法も区別なくばら撒かれるおそれがあったのでは?」


「お、いい線まできたぞ。あたしもそんなとこだろうと思う。となると古い魔法の真実に近づくにはやっぱり神殿を抜きには考えられないよ。一度は調べてみないとね」


 アルはほっとして小さな吐息をもらした。葵も恭一も思考するという作業に関して一切の妥協がない。頭を使うとはこういうことなのだと思い知らされる。学問の中に閉じこもっていては真の学びにはほど遠い。人と会い、街を歩き、自力で考えることなしには見えないことばかりだ。


 アルは今、自分が猛烈に鍛えられつつあることを感じていた。


     ***


 第七十四代ファーラム国王ワルトナ・ゴドウィン・アリステア二世は遅い夕食の席についていた。


 一国の王ともなれば政務の繁忙さは並大抵ではない。誠実な王であればあるほど仕事に追いまくられることになる。側近や有能な補佐を多く抱えてはいても、あらゆる問題に最終的な決断を下すのは彼の責務だ。夕食とは名ばかりの夜更けの食事になることもしばしばである。


 国王夫妻専用の食堂は豪華だが、二年前から妃の姿はない。王妃の席はこれからも空席のままだろう。そこに一抹の寂しさは禁じ得ない。


 大勢の侍女や給仕の者に囲まれてはいても彼は常に一人である。目の前の一皿がたとえ最高の料理人の手になるものであっても時に砂を噛む味気なさを覚えてしまう。厳重な毒味を経て冷めた食事ではなおさらだ。皮肉にも、庶民が等しく享受している温かな食事は、王家の人間には叶わぬ贅沢なのである。


 だが、そんなことは取るに足らない些事であり、彼も不満を抱いたことなどなかった——妃が健在であったあの頃には。


 ところが、最近の国王はこのひとときが大きな楽しみに変わった。


 冷めきった料理をその場で温め直す(しかも味を落とさずにだ!)という画期的な魔法が導入されたのである。


 厨房は歓喜して腕を振るい、国王はできたてそのものの料理に舌鼓を打つ。自分は今までこの味を知らなかったのかと思うと悔しさを覚えるほどだ。


 温かい料理は大いに人の心を力づける。妃の欠けたこの席で孤独を噛みしめる時間がささやかな気力を呼び起こす慰めへと変わったのである。かくも食べ物の力は偉大なのか——国王は心からそう実感した。


 そしてこの画期的な魔法を工夫したのもあの娘なのだ。


 黒騎士の連れとして現れた魔法士の娘。快活で物怖じせず、若年ながら思慮深い一面も併せ持つ不思議な少女である。本来なら彼も正体の知れぬ者を王家に、ましてや王女たちに近づけさせるほど甘い人間ではない。だが黒騎士にもあの娘にもなぜか疑念や警戒とは別種の感情を覚えた。


 よくぞ来てくれた。


 まだ誰にも明かしたことはないが、あえて言葉にすればそうなる。あの二人は信じるに足る。そう心が囁くのだ。なぜそう感じるのか、彼にもその明確な根拠はない。強いて言うならおのれ自身の人を見る目だろうか。王侯貴族が闊歩する王宮は様々な思惑が交錯する場であり、数十年にわたってそうした人々を見続けてきた彼には彼なりの判断がある。


 濁りのない目を感ずるか。


 王宮ではなかなか望み得ないその美質をあの二人には感じたのだ。


 周囲からは善人すぎると言われることもある現国王だが、それだけで務まるほど為政者の椅子は軽くはない。時には非情な采配を振るい、清濁併せ呑む器量も要求される。彼も決してその覚悟を忘れたわけではないし、おいそれと人を信じるわけにはいかないと心がけてもいる。だがそれでも——。


 そして王女たちのこともある。


 第一王女クーリアはこのわずかな間に見違えるほど成長した。どこか無理をしているような緊張が解け、落ち着いた知性の成熟を感じるようになった。時に国王の傍らで助言を口にするのも第一王女の務めなのだが、そこに確かな賢者の声音を感じるのである。十五歳の少女とは思えぬ風格に居並ぶ側近たちも目をみはる。


 一方、第二王女ルシアナの笑顔は一段と明るくなった。母を亡くして以来、姉にすがりつくようにして過ごしていたルシアナは今、心から幸せそうに笑い、侍女や従騎士を振り回すほど元気に駆け回っている。父王である彼を見上げる空色の瞳はなんと輝きに満ちていることか。


 姉の叡智と妹の笑顔、ともにあの娘が引き寄せたことは今や疑うべくもない。やはり城のひとつでもくれてやるべきではないかと思う。


 国内に不穏な兆しが見え隠れしている状況は楽観できないが、いずれ落ち着いたらそれもよかろう。そう独りごちる国王であった。

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