第24話 旧世界の影 その1



 葵と恭一が国王から屋敷を賜ってまだひと月もたっていないのだが、彼らの住まいはいつの間にか「キサラギ館」と呼ばれるようになっていた。


 もちろん葵の姓から取られた名だが、葵自身は「黒騎士館」の方がかっこいいと主張したものだ。恭一が「怖すぎないか?」とやんわり反対したのでこうなったらしい。


 全体は煉瓦造りの二階建ての母屋とその左奥に別棟の物置と厩舎、芝生の広い前庭という構成だ。敷地は飾りのついた鉄柵と目隠し代わりの低い緑で囲まれており、正面には幅広の門扉、裏は小作りなアーチで外へと抜けられる。侍女や使用人たちが一部屋ずつ使ってもまだ余るほどの部屋数は元が伯爵家の別邸だと聞けば納得だろう。


 王宮周辺のなだらかな丘陵の途中に位置し、正門からまっすぐ下れば近衛隊の施設脇を通って繁華な中心街へ一直線、庭から見上げれば王宮の優美な丸屋根に手が届きそうな近さである。国王の肝煎りとはいえ恐ろしいほどの好立地だ。


 おかげで来客も多い。


 今、庭に引き出したテーブルについているのは恭一とエリーザである。


 侍女のベリンダが運んできた冷たい飲み物を手にくつろいだ様子で、赤毛の従騎士の笑顔がこぼれる。


 彼らが目を向けたその先ではこの国の第二王女ルシアナが葵と庭を駆け回っていた。七歳の王女は遊びたい盛りだ。目を輝かせ、歓声を上げながら走り回っている。


 葵たちがここに居を構えるようになってからしばしば見られる光景だった。


 王宮正門からここまで子供の足でもほんの数分なので、ルシアナは侍女と従騎士を引き連れて遊びにくるのである。近いといっても城外であるから当然護衛はつく。エリーザはむろんのこと、周囲に目立たぬように散った護衛は彼女にも自分たちが何人で囲まれているのかわからないほどだ。


「いいんじゃないか、目立つこともあんたの仕事だろう」


「それは心得てます。近衛から選ばれたあの者たちも優秀ですから心配はしてないつもり、ただ……」


「妹姫が元気すぎる、か」


 恭一が軽く揶揄すると女従騎士も吹き出した。


「ほんとに。弟たちを思い出します。似たような年頃ですから」


 エリーザには幼い弟妹がいる。九歳になる弟と八歳の妹はルシアナと同じくやんちゃの盛りで、たまに帰省すると姉を挟んで騒々しいことこの上ないという。歳が離れているので姉というよりもう一人の母親のように感じているのかもしれない。


「甘えてくれるのは嬉しいんですけどね」


 走り回っていた二人は今度は芝生に座り込んで「お手玉」で遊び始めた。元は葵が侍女に頼んで作ってもらったものだが、これはこちらにはない遊びだったらしく、たちまちルシアナのお気に入りとなった。侍女たちによると幼い姫は夢中になって練習しているそうで、今では三つの玉を操れる。器用に五つの玉を操る葵を見るその目は輝いていた。


 おやすみ おはよう こんにちは

 わたしは ルシアナ にのひめですよ

 おひさま だいすき ことりも だいすき

 だけど いちばん すきなのは

 きれいで やさしい おねえさま


 ルシアナは葵が即興で作ったお手玉歌が大好きで、今では侍女たちやクーリアまでが(恥ずかしいと笑っていたが)覚えてしまったという。


 六玉むつだまに挑戦して成功した葵は七つ玉に挑んで失敗し、全部の玉が足元に散らばって二人で笑い転げていた。幼い姫の幸せそうな笑顔にお付きの侍女たちも目を細めて笑っている。


「アオイさまはすごいな、あんな笑顔を引き出せるなんて」


「葵は一人っ子だから妹ができた気分なのかもな」


「リーンがこっそり教えてくれました。わたくしをルシアナ姫の従騎士として推挙してくださったのもアオイさまだと。感謝してます」


「なら、しっかり守ってやれよ、あの笑顔」


「ええ、誓って」


     ***


 そして夕刻——。


 昼間、幼い姫が駆け回っていた前庭で三人の男が対峙していた。一人は恭一、他の二人は使用人のリオとクルトである。


 恭一はいつもの黒い剣を持ち、対する二人は刃を持たない稽古用の剣を構えている。両名ともに真剣な表情で少しずつ間合を測っていた。


 若いリオ・ウーマノフは二十五歳、年長のクルト・ジャンセンは三十歳になる。すでに軍を退いた身だが、兵として実戦に赴いた経験を持ち、アロンゾの推薦によりキサラギ館で働くことになった。剣が使えるので護衛の役割も兼ねた使用人としてだ。


 普段は気のいい二人だが、今は現役時代のように鋭い目で踏み込む隙をうかがっていた。


 と、リオが先に動いた。鍛練を感じさせる激しい打ち込みだ。準騎士隊の若者たちとは明らかに違う実戦的な動きと剣さばきは現役騎士にも引けを取らない。二合、三合と打ち合ったところでクルトが突っ込んだ。下から斬り上げる変則的な動きは見慣れない者には対応しきれないだろう。


 だが恭一はその両者を片手であしらっていた。スピードもフットワークも段違いなので上下同時の攻撃にも難なく対応できる。


 動きは最小限でありながら両者の剣を寄せ付けない。二人の連携は巧みだが、恭一の目には明瞭なタイムラグが見える。地面すれすれから突き上がってくるクルトの剣を打ち下ろし、そのままリオの剣を薙ぐ。それが一動作なので相手に二の太刀を許さない。

 

リオとクルトは同時に剣を取り落として場の緊張が解けた。だが「もう一本!」とクルトが素早く剣を拾い、飛び込んでいくとリオも続いた。そこからしばらく激しい剣戟の音が響き、やがてリオもクルトも息を切らしてその場に座り込んだ。ぜいぜいと激しく呼吸を繰り返し、額の汗を拭う。


「今日はここまでにしようか」

 恭一は平然とした顔で告げ、途中から彼らの近くで稽古の様子を見ていたアルに「待たせたか?」と聞いた。


「いえ。みなさん、そろそろ夕食の時間ですからとアオイさまが」


「ん、もうそんな時間か。すぐ行く」


 座り込んでいた二人も「おっと、いけねえ」と慌てて立ち上がると恭一に一礼して母屋の方へ走っていく。ここでは食事は全員揃ってが原則なのだ。使用人たちはなるべく一人に仕事が集中しないよう自主的に家事を分担し、この原則を尊重していた。護衛兼任の二人は空いた時間があると恭一に稽古をつけてもらっているのである。


 ともにアロンゾの推薦だけあってよい素質を持ち、恭一の指導でみるみる腕を上げていた。すでにいつ現役に復帰してもやっていける実力なのだが「このお屋敷から離れたくない」と言って家事に勤しんでいる。


 楽しげにうなずき合って走っていく二人の背中をアルは無言で見送っていた。傍の恭一も少年の目に気づいたようだ。


「どうした」


「いえ、ちょっと羨ましいなと思って」


 恭一の無言で尋ねる目にアルはやや沈んだ顔で答えた。


「私は乱暴なことは見るのも苦手で剣も弓もからっきしでした。それを恥じたことはありませんが、あの穏やかな父でさえじれったく思っていることは薄々感じていました。クルトさんたちを見ていると自分の無力が少し悔しいというか、こんな気分は初めてです」


「剣を取るばかりが力ではないだろう」


「それはわかっているつもりです。けれど……」


「君はすでに人にない力を持っていると思うがな」


 意味がわからず、アルは長身の若者の顔を見上げた。


「戦いには様々な形があり、必要とされる力もまちまちだ。俺のいたところには『知は力なり』という箴言があった」


「知は……力なり?」


 恭一は手にした黒い剣を持ち上げて「例えば」と続けた。


「武闘の場ではこれが力だ。騎士や兵たちはこれを頼みにぶつかり合う。だが後方支援の一隊にはいかに補給を絶やさず効率よく物資を送り届けるかの算段が求められる。さらに彼らを指揮する指導者たちに要求されるのは戦局を読む洞察力であり、大局を見る判断力だ。剣や弓の出番はそれらの一部でしかない」


 アルは真剣な表情で恭一の言葉を聞いていた。彼も葵もアルの知らない智慧の持ち主であり、学院では学べない話の宝庫なのだ。今は午前中だけ学院に顔を出しているが、正直なところここでの経験の方がずっと刺激的だと感じる。彼がこれまで知らなかった学びがここにはあるのだ。


「智慧や知識は時として一国を救う力にもなりうる。いずれ君には君にふさわしい戦場が見えてくるはずだ。智慧の戦いにおいて君は同輩たちの先頭に立っているんだ、臆せず学べばいい」


「キョウイチさま……」


「俺は剣、葵は魔法、ならば君は知を磨け。そうすれば俺たちはいいチームになれる」


「チーム?」


「ひとつの意志でまとまった小集団、というほどの意味だ」


 少年は感動していた。これほど頼もしい激励は初めてだった。座学だけが取り柄のひ弱な三男坊と陰口を叩かれてもあえて見ないふりをしてきた。自分をごまかしている後ろめたさが悔しかった。だが、お前の道はそれでよいと言ってくれる人がいた。今、目の前に。


「行こうか。遅れると葵に叱られるぞ」


 恭一は屈託ない笑顔でアルを促した。無類の剣を操る両肩はたくましい。だが、それ以上に頼もしい硬質な精神にアルは憧れる。


「はい!」


 応えた少年の声はこの上もなく晴れやかであった。


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