第23話 第二部 プロローグ

今回より「晴れ、ときどき冒険」の物語は第二部「光と影の円舞曲」編に突入します。どうぞよろしく。


     ************


 エルンスト・ウルマン子爵の屋敷は首都オルコット南部の繁華な市街にある。


 閑静な住居を好む貴族階級にしては珍しく、中央通りに屋敷を構える子爵はいささか変わった人となりで知られていた。


 倹約家であり、争いを好まず、かつ合理的。


 このいたって健全な信条が他の貴族の人々の目にはたいそう奇異に映るらしい。浪費家の目立つ貴族にあって倹約などという概念は揶揄の対象でしかないのだ。


 だがその子爵が低い爵位をものともせず繁華街の一等地に屋敷を持つに至った事実は彼のまっとうな経済観念の賜物だ。商人たちとの縁を着実に築き上げ、気がつけば首都富裕層の一角を占めるまでになっていた。


 身の丈にあった暮らしができればそれでいい。それが子爵の生き方だったが、富や名声といったものは往々にしてそうした欲のない人物に降ってくるものだ。普通に人づきあいをしているだけなのにいつの間にか財をなし、王宮では馬鹿げた権力争いから一歩身を引く態度が奥ゆかしい、高潔だ、などと言われてしまう。


 要するに「無欲の勝利」を絵に描いたような人物なのである。


 子爵の「身のほどを知る」人生はほぼ大過なく平和な日々であったが、そんな彼にとって目下の唯一の悩みが三男のラインであった。


 文句なしの秀才で将来を嘱望されたまではよかった。王宮付属の高等学院で若年ながら首席の座を譲ったことがない。教師たちも「末は本学院の学院長間違いなし」と期待している。なのに——。


 ラインには人の前に立とうという積極性がまるで見られなかった。


 剣も振るえず弓もだめ、社交性のかけらもなく読書に明け暮れる。たまの舞踏会ともなれば壁際の彫刻同然だった。それがいけないというのではないが、子爵にしては珍しく不甲斐なさに気を揉んだ。息子の気弱な目がじれったい。元々おとなしい子ではあったが、さすがに十五になってあれでは、と心配になった。


 おとなしいのはけっこう、だが覇気がないのは問題だ。爵位は兄たちのどちらかが継ぐにしろ、ラインも貴族として人の後ろに隠れる人間であっては困るのだ。

 

 だから「あの話」を聞いてとっさに「うちの息子を」と手を挙げたのである。


 クーリア姫の危機を救った旅の騎士と魔法士らしい連れの娘。国王はその功績に屋敷を与え、王女は彼らにこの国の文物を教える教養ある侍女を求めているという。ならば、と思ったのだ。侍女ではないが、同世代随一の秀才ならきっと王女の要望に添えるだろう、わが息子ライン・アルト・ウルマンをぜひそのお役に!


 屋敷の主人は若いが真っ向勝負で四大騎士の一人を退けたほどの人物だ、世間知らずの三男にはいささか厳しい経験になるだろう。それでもいい、あの子には世間の風を知ってもっとたくましくなってほしいのだ。


 子爵の熱意は見事に通じた。


 ラインは先日からその「お屋敷」に住み込みで勤めている。最悪、泣いて逃げ戻ってくるかもと思ったが、まだ続いているところをみるとあの子なりに頑張っているのだろうと胸を撫で下ろした。


 午後のひととき、そんな想いに浸っている子爵であった。


 と、そこで穏やかなノックの音が聞こえ、執事が顔をのぞかせた。


「旦那さま、ライン坊ちゃんがお見えです」


「なに、まさか」


 最悪の事態が頭をよぎる。やはり無理であったかと小さな嘆息がもれた。よく頑張ったな、優しく迎えてやろう、そう思った。だが——。


「父上!」


 これまで一度も聞いたことのない三男の溌剌とした声に驚いた。


「あ、あ、よく帰ってきたね、アル」


 元気か、と心にもないことを口にしてから「しまった」と思った。この子は傷ついて戻ってきたのだ、もっと優しい言葉で……。


 ところが、返ってきたのは「はい!」という気力に満ちた声と「父上、感謝いたします!」という予想もしない答えだった。


「アル、おまえ……」


「私をあのお屋敷に推挙してくださったのは父上であると聞きました。ありがとうございます、心より感謝いたします!」


 ここに至って子爵もようやく気がついた。息子は空元気でなく本当に嬉しそうな目をしているのだ。これはまさか、と執事と顔を見合わせ、慎重に言葉を選んだ。


「そ、そうか。で、どうだね、お屋敷のほうは」


「楽しいです! すごく」


「楽しい?」


「はい、もう毎日が楽しくて楽しくて。アオイさまもキョウイチさまもとても熱心に私の話を聞いてくださいます。お二人ともすごく頭がよくて私の知らない知識をいろいろ教えていただいてます。学院では学べない貴重な話もたくさんうかがってます」


「そ、それはよかった。慣れぬ勤めでつらいことはないか」


「全然! あのお屋敷では誰もが分けへだてなく話をし、仕事をします。私は蔵書の管理とお二人の学習のお手伝いですが、手が空いてる時は買い物に出たり、お客さまの相手をすることもあります。毎日が驚きで楽しいですよ」


 子爵と執事は呆気にとられて少年の言葉を聞いていた。この子がこんなに生き生きと話すところを見たことがないのでほとんど呆然としていた。そして思った。ウルマン家の三男は得難い幸運に巡り会ったのではないかと。


「ではアル、今日ここへ戻ってきたのは」


「アオイさまに頼まれて王立図書館へ出向いたついでです。父上にぜひお礼を言いたくて。あ、そろそろお茶の時間なので帰らなくちゃ」


「お茶?」


「うちではお茶や食事の時はなるべく全員で食卓につく決まりなんです」


「全員で? まさか侍女や使用人も?」


「ええ、賑やかで楽しいですよ、いろんな話が聞けますから。じゃ、行きます。ごきげんよう、母上によろしく」


 晴れやかな笑顔で軽く手を挙げると少年は返事も聞かずに飛び出していった。残された子爵と執事はしばらく絶句していたが、やがてどちらからともなく笑い出した。


「旦那さま、まだは高うございますが、とっておきの果実酒などいかがですか」


「ああ、頼む。一番上等なやつをな」


「かしこまりました、すぐお持ちいたします」


 退室する執事の足取りは子爵にも覚えがないほど軽やかだった。

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