第15話 王宮にて その4


 恭一が風呂で汗を流している間、葵は長椅子に仰向けに寝転がってなにやらぶつぶつとつぶやいていた。


  両の手のひらを顔の前で向かい合わせ、黒い瞳には見る者が見ればはっきりそれとわかる霊光が宿っていた。


 彼女には見えているのだ。


 周囲から渦を巻くように集まってくる蛍——ルフトの輝点が。


 それは小さい頃から幾度となく繰り返した彼女だけの遊びだ。幼い少女一人が抱え込むにはあまりにも鋭すぎる霊感のささやき、脈絡もなく押し寄せるヴィジョンの数々をを散らすために自然に覚えた技だった。


 思い描いたとおりに蛍を飛ばす。円を描き、 三角形を描き、星型を描いた。小鳥を描き、虫を描き、動物を描いた。中学に上がる頃には時間をかけて多くの蛍を呼び寄せ、より複雑な図形を描けるようになっていた。


 むろん誰にも言ったことはない。 恭一にさえそこまで詳しく語ったことはない。


 だが——。


 ここは魔法が存在する世界。向こうに比べ数百倍、数千倍、いやそれ以上の蛍——ルフトが充満している。ここなら、ここでなら。


 魔法士は心の中で描いた魔法陣にルフトを呼び込んで魔法を発動させるという。ならば葵が見よう見まねで魔法を使えたのもある意味当然だった。


 魔法の基本である初歩の発動プロセスは彼女が十数年も続けてきた「遊び」とほとんど同じだったのだ。 言うなれば如月葵は イメージ・トレーニングの形で魔法の基礎を十数年にわたって修行し続けてきたに等しい。


 それが魔法士として どれほどのアドバンテージとなったかはいずれ明らかになるであろう。


     ***


「うーん、やっぱ電子レンジ欲しいね」


 ヴァルナが注いでくれた紅茶を口に運びながら葵が言った。夕食はクーリア、リーン、葵、恭一の四人がともにした。王宮には二人の王女専用の食堂があるのだが、ルシアナは幼いので早い時間に自室で済ませるのが常だ。父王が甘やかすのでなかなか食事の作法が覚えられないというのが侍女たちの密かな悩みであるらしい。


 料理そのものは文句なしに美味しいのだが、昼に厨房でできたての味を知ってしまったクーリアには少々物足りなくなったようだ。


「美味しいとは思うのですけど」


 立場のある身としてはそれ以上は口にしづらい。冷めた料理が温かくなる魔法があるなら自分で覚えたい、などと言っている。毒味などの中間手続きの多い王宮にこそ再加熱の手段が必要だという話になった。


「氷の魔法で冷蔵庫に近いものはあるんだから、温め用の道具も欲しいね」


「開発責任者の意見は?」


「カプリアの職人さんに一度話を聞いてみたい。民生品でなにができてなにが難しいのか、とか魔法陣はどう刻むのか、とか」


「工程には俺も興味がある。話を聞く限りコストはさほどでもなさそうだが」


「粉末状にしたカプリアを溶かした染料で描くのだと聞いたことがありますよ」


「手で描くの?」


「単純なものは判を押すとか。私もなにかの折に聞いただけですから」


 クーリアは控えているヴァルナに「あなたは」と訪ねた。


「どなたか街の職人につてはない?」


 そうですねえ、と侍女はしばらく首を傾げていたが「そういえば確か」となにか思い当たることがあったらしい。


「叔母の家の近所に西の工房で働いている人がいたような。聞いてみましょうか?」


「あ、でしたらぜひ。工房も見学できたらありがたいんだけど」


「わかりました、明日にでも出かけてきます。お茶も買っておきたいし」


 そんなことを話していると、ふいにクーリアが食堂入口の方を振り向いた。


 見ると入口の陰から小さな女の子が恐る恐るという感じで顔をのぞかせていた。食堂には給仕の侍女たちが何人も控えているのだが、皆どうしたものかという顔である。


 クーリアによく似たきれいな金髪と明るい空色の瞳、胸元の大きなリボンがかわいらしい。むろん、葵にも恭一にも誰だかすぐにわかった。この時間に王宮内を自由に歩き回れる幼い女の子は一人しかいない。


「どうしたの、ルシアナ、まだ起きてたの?」


「……眠くない」


 横を向いてぶすっと言った表情がなんとも愛らしい。あぁ、これは王さまの気持ちがよくわかると思った。


 人形のような、とはこの子のためにある言葉だ。母を亡くしてからはクーリアにべったりだと聞いていたが、その「お姉さま」のことが気になって食堂まで来てみれば、なにやら知らない人と楽しそうに笑っている。側に行きたいのに出るに出られないといったところらしい。


「超絶かわいいね、お人形さんみたい」


 クーリアがくすっとと笑顔になって「いらっしゃい」と両手を広げた。リーンが立ち上がってクーリアの隣に椅子を寄せる。ルシアナはもう我慢できずに駆け寄ってくると姉に抱きついた。


 猫が身を寄せるようにかわいらしい仕草で姉から離れようとしない。ここまでつきあわされたらしい侍女が食堂の入口で頭を下げていた。


「いつもはそろそろ就寝なのですが」


「早いのね、夜中にぐずらない?」


「それが全然、朝までぐっすり」


 ルシアナは大好きな姉と親しげに話している葵が少し気になるようで、クーリアに甘えながらもちらちら視線が飛んでくる。


「ほら、ルシアナ、お客さまですよ、ご挨拶なさい」


 そう言われても言葉が出てこない。ちょこんと頭を下げただけでまた姉に抱きつく。葵はルシアナの顔の前に人差し指を立てて片目をつぶった。


 すると、見る間に指先に光が集まり始めた。最初はピンポン玉くらいの球状に、ルシアナが目をみはると今度は小指の先ほどの小さな光の粒に分かれて立てた指の周りでふわふわと漂い始めた。


 ルシアナの目が引きつけられ、身を乗り出して空中の光の粒に手を伸ばす。


 途端に彼女が触れた光の粒は虹の七色に輝きながらはじけるのである。夢中になったルシアナは「うわあ」と目を輝かせた。はしゃぎながら光の粒に次々手を伸ばし、最後の一粒を両手でぱちんと挟むと一瞬、丸い虹が生まれて消えた。


「すごい、きれい!」


 ルシアナはクーリアの顔を見上げて幸せそうに笑った。ルフトを少し手元で踊らせただけの手品だが、幼い少女には新鮮な驚きだったらしい。葵は彼女の頭をそっと撫でた。


「こんばんは、姫さま。あたしは葵っていうの」


「アオイ?」


「そう、よろしくね」


「アオイは魔法士なの?」


 葵は親指と人差し指をくっつけて「ちょびっとだけね」と笑ってみせた。その仕草が気に入ったのかルシアナは明るい声で笑った。


「よしよし、これであたしと姫さまはもうお友だちだよ、ご挨拶できるかな?」


「こんばんは、ルシアナ・クリス・アリステアです」


「あたしはアオイ・キサラギ、でもって隣は小さい頃からのお友だちでキョウイチ、キョウイチ・タカシロ」


「キョウ……?」


「呼びにくければキョウでかまいません、姫さま」


 恭一もここはさすがに空気を読んで穏やかな物いいだ。その気になれば高校生らしい振る舞いもできるのである。


「キョウとアオイはどこから来たの?」


「遠いところから。長旅の途中です。クーリア姫さまと知り合って葵と一緒にお城に招いていただいたのです」


「お姉さまのお友だち?」


「はい、しばらくはこちらでお世話になります」


 ルシアナは葵たちが明日も王宮にいるとわかってうれしそうだった。大勢の侍女に囲まれてはいるが、こんな変わったお客さまは初めてだった。遊んでくれるかな、遊んでほしいな、という期待で今からうきうきしている様子だ。


「姫さまはいつもなにして遊んでるの?」


 葵にそう聞かれたルシアナは「ええとね、ええとね」と目を輝かせた。


「パタルでしょ、キータンでしょ、それから……」


 リーンによるとパタルというのがボール遊びで、キータンというのはどうやら鬼ごっこのようだ。遊び始めると七歳児のバイタリティーは侍女たちを息切れさせるほどだという。


 以前はクーリアがつきあってくれることも多かったが、最近「お姉さまはお忙しい」らしく、一緒に遊ぶ機会が減ったのがルシアナには少し物足りないようだ。


「でもお姉さまが大好きなんだよね」


 ルシアナははにかんで「うん」と答えてからまた姉に抱きついた。お姉さまのどこが好きなの? と尋ねると、きれいだ、優しい、すてき、などと精一杯の語彙で賛辞が並んだあと、小さな声で「……リーンがいるから」とこぼした。


「リーンさんが?」


「……お姉さまにはリーンがいるから」


「そうね。リーンさんは凜々しくてかっこいいもんね」


 リーン本人は照れているが、どうやらルシアナには常にリーンを従えている姉の颯爽とした姿が憧れであったらしい。


「姫さまもリーンさんみたいな従騎士が欲しい?」


 ルシアナがこくんとうなずいたので葵はそっとクーリアに目配せした。聡明な姉はすぐにその意味を悟って妹にこう語りかけた。


「でもね、ルシアナ、従騎士というのは侍女とは違うのよ。王女を護るためにお父さまが特別に授けてくれる人なの。わがままを言って困らせたりしないと約束できる? それができるなら私からお父さまにお願いしてあげるわ」


「……ほんと?」


「あなたももう七歳ですものね、きちんと約束できるなら王女として従騎士を持ってもいいかもしれない」


「する! 約束する! 絶対わがまま言わないから」


 そこでクーリアはわざとらしく「うーん」と考えるそぶりをして、おもむろに「わかったわ」とうなずいてみせた。


「じゃあこれからお父さまにお願いしてくるわ。あなたはそろそろ部屋に戻っておやすみなさい。明日いいことがありますようにって三度お願いしてから寝台に入るのよ」


 ルシアナの空色の瞳が輝き、椅子から降りて姉にキスをすると「おやすみなさい、お姉さま」と飛び跳ねる足取りで戻っていった。


     ***


 そして次の朝、その人はルシアナの前に立った。


 華やかな赤い髪、彼女と同じ空色の瞳、腰に帯びた細身の剣も凜々しく、口元の笑みがたいそう魅力的だ。リーンに負けないほどすてきなその人は彼女の前に片膝をついてこう告げた。


「おはようございます、ルシアナ姫さま。本日より従騎士としてお仕えいたしますエリーザ・マレと申します。どうぞよろしく。さ、今日からはクーリア姫さまとご一緒にお食事することにいたしましょう」


 言われたとおり、前の晩は「明日はいいことがありますように」と三度唱えて眠りについた。そうしたら——。


 ルシアナは大好きな姉への憧れがひとつ現実になったことを知った。


 その朝、王宮の回廊を行き交う人々は一様に「ほう」と目を細めた。


 手をつないで歩く二人の王女はともに笑顔である。クーリアは変わらず優雅に、そしてルシアナは誇らしげに胸を張っていた。彼女たちの後ろには金の髪と赤い髪の二人の従騎士が並んで付き従う。自信に満ち、颯爽と歩くその姿を誰もが振り返って見送った。


 ファーラム王家に新しい朝がきたのである。

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