第9話 攻防 その2


 誰かがこちらを見ている!


 閃いたその洞察を葵は一瞬も疑わなかった。それは過去に何度も経験した感覚であり、見えざる示唆が真実をささやく瞬間だった。途中経過を一切必要とせずに得た解答である。論理ではない、ここは魔法の国であり、超自然は日常なのだ。


 同時に対処の方法もわかった。


 まるで最初から知っていたかのように心の中に浮かんだのだ。足元、と天啓が告げていた。魔法陣を模したタイルの模様、これは見たことがある。原型からかなりデフォルメされているが、照明のカプリアに描かれていたもの、光の魔法だ。むろん、ここまで本来の形が失われては発動などしない。だが……。


 第二の天啓が閃いた。魔法陣はルフトの流れを制御し、無形の力を形あるものとなすための回路だ。術者のイメージを固定するために床や地面に描かれるが、本質は使い手の心に描かれるべきものである。


 ならば——。


 葵は蛍を呼び寄せる遊びを思い浮かべた。あれと同じだ。


 みんな来て!


 彼女の意志に周囲の光点が一斉に反応した。風に吹き寄せられるように周囲のルフトは渦を巻く大きなうねりとなって葵の周りに流れ込んでくる。


 葵は足元の模様に記憶にある光の魔法陣を重ねた。原形を留めていないはずの模様は葵のイメージに反応して光を放ち始め、彼女が心に描いた図形パターンに従って光の配置が変わっていく。

 

それはもはやただの床の模様ではなかった。 直径三メートルを超える真の魔法陣が生まれようとしていた。


「葵……」


 息を呑んでその光景を見ていた恭一は葵の警告する声を聞いた。


「恭一、あたしが合図したらしっかり目を閉じて! 三、二、一、今!」


 否やはなかった。なにが起きているのかはわからない。だがこの場を支配しているのは彼の配偶者なのだ。その言葉を信じずしてなにを信じろというのだ。恭一は迷うことなく目を閉じた。


 凄まじい閃光が炸裂した。


 全くの無音でありながら森全体を白く浮かび上がらせたそれは、街の反対側からも目撃されたほどの光の爆発であった。一拍遅れて森の小動物や鳥たちのけたたましい叫び声が上がる。彼らにとっては音のない落雷のようなものだったろう。


「もういいよ」


 葵の手がそっと恭一の手に重なった。恭一は恐る恐る目を開けた。固く目を閉じていてさえ瞼の裏に強烈な光を感じた。なにかとんでもないことが起きたのだ。彼の理解を絶したなにかが。


「いったいなにがどうなったんだ?」


「あとで説明する。でもあたし自身も頭を整理しないと。ちょっと早いけどお昼にしよ」


「そうだな、俺も喉がからからだ」


 葵がもう一度周囲を見回した時にはあの淀み——視線の元は跡形もなく消滅していた。


     ***


 窓のない薄暗い部屋が真っ白に染まった。


 まるで目の前に太陽が出現したかと思うほどの閃光だった。影たちは光の圧力に押し倒されたかのように跳ね飛ばされ、その場に尻餅をついていた。


 なにが起きたかわからない。


 ただ魔法陣を操っていた老人は悲鳴とともに床をのたうち回っていた。魔法陣を描いた砂は部屋中に飛び散り、先ほどまで幻影が浮かんでいた空間はもはやなにも映してはいない。男たちは唖然として声もなく、目を押さえて転げ回る魔法士の悲鳴だけが響いていた。


     ***


 一瞬の強烈な閃光は目撃した人々を大いに驚かせたが、その裏でもうひとつの混乱を生んでいた。


 炸裂したのは単なる光だけではなかった。閃光と同時にそれとは別の衝撃がある種の人々を直撃したのである。


「あっ」


 王宮の広い回廊を歩いていたクーリアは短い悲鳴とともにその場にしゃがみ込んだ。


「姫さまっ!」


「いかがなされました!」


 いつものようにクーリアに付き従っていたリーンとヴァルナが慌てて駆け寄る。なんの前触れもなく主がいきなり変調を来したのだ。両名ともに血相を変えていた。


 クーリアはやや青ざめた顔色で大丈夫です、と顔を上げたがとてもそうは見えない。頭を振ってもう一度「大丈夫です」と言うとリーンの手を借りて立ち上がった。


「姫さま、いったいどうなさったのです? ご気分でも?」


 ヴァルナが不安げに尋ねた。クーリアは立ち上がったものの、まだ足元が心許ない。立ちくらみでも起こしたのかと思ってリーンと二人で手近な部屋まで手を引いた。クーリアは華奢な少女だが、病弱だった母親のように健康を損ねたことは一度もない。目の前で彼女が不調を訴える姿など記憶になかった。


 それはリーンも同様である。従騎士として仕えて二年になるが、先日の夏至祭の一件を除けばクーリアが足元を乱すことなどかつてないことであった。


 ヴァルナがそれでも気丈に姫を長椅子に休ませ、冷たい水をグラスに注ぐさまをただ突っ立って見ていた。従騎士リーン・バロウズは本来、そのような鈍重な従者ではない。ことに当たってはまず行動、という訓練が叩き込まれている女性だったのだが。


 主人の変調はそれほどに唐突で衝撃的だったのだ。


 クーリアは侍女が差し出した水を口にし、何度か深い呼吸をくり返すとどうやら落ち着いたらしい。ひとつ大きく息を漏らすとようやく笑みを取り戻した。


「ありがとう、二人とも。もう大丈夫です」


 侍女と従騎士は顔を見合わせ、こちらもため息をもらした。リーンがまだ気遣わしげに尋ねる。


「本当にもうお加減はよろしいのですか」


「ええ、先ほどは私も驚きましたがもう落ち着きました。ただ、私以外にも目がくらむ思いをした者は多いでしょうね。あちこちで小さな混乱が生じているかもしれません」


「混乱、と申されますと?」


 クーリアは手にしたグラスの水をもうひと口含むとヴァルナに渡し、立ち上がって歩き出した。二人が慌ててあとに従う。


「姫さま、どちらに」


 クーリアは答えず、そのまま部屋を出ると城下が望める回廊のバルコニーまで歩いて足を止めた。眼下に広がる市街を眺めて「あちらですね」と街の東部に目を向けた。


「姫さま?」


「先ほど街の東側でなにかが起きました。おそらく誰かが非常に大きな魔法を使ったのだと思います。そのせいで大量のルフトが大波となって周囲に押し寄せたのです。多少なりとも霊力を持つ者はその衝撃で目がくらんだことでしょう、この私のように」


「魔法を?」


 重いがけない話にリーンもヴァルナも絶句していた。彼女たちは霊力を持たない一般人だが、魔法のなんたるか、くらいのことは承知している。だが姫が口にしたようなことはかつて耳にしたことがなかった。


「お言葉ですが、そんなことが本当にあるものなのですか? 大がかりな魔法と言われましたが、そのような魔法士の話など聞いたことが」


「私も初めてです。でも自然状態でルフトにあのような急激な動きが起きることは決してありません。誰かが人為的に引き起こさない限りは」


 侍女と従騎士はまたしても顔を見合わせた。魔法は常に彼女たちの身近に存在する。この世に生まれたその瞬間から、誰にとっても魔法は日常そのものだ。だがそれは生活や仕事を便利にする小道具であり、ささやかな助力者である。街中のルフトをかき回すような激しいものではない。そのはずだが……。


「二人ともよくお聞きなさい。あなたたちはカプリアの簡便な魔法に慣れすぎて魔法というものの本来の意義を忘れています」


「姫さま……」


「かつて多くの魔法士や学者たちが魔法陣を持ち寄り、分類整理するのに百年を超える時間を要したのは、それらが秘伝として厳重に隠され、一部の者にだけ細々と伝えられてきたからです。魔法や魔法陣はそうまでして秘匿されなければならないものでした。それはなぜかといえば——危険だからです」


「危険?」


「あなたたちは考えもしなかったでしょうね。でも本来の魔法とはそうしたものです。ルフトを介して自然そのものと対峙するために工夫されたものですから。自然の猛威を避け、あるいは立ち向かい、時には利用するための技術。文明が未発達の世界で人が生き延びるために手に入れた力です。だから強く荒々しい。そんなものがなんの自覚もない人々に解放されたらどうなります?」


 とても一五歳になったばかりの少女の言葉とは思えない。知的で成熟した賢者の声音だった。威厳と英知をまとった神官の長の風格である。これまでの彼女とは別人のようなたたずまいに二人はいつしか深い畏れを感じていた。


「それ故に魔法も魔法陣も秘伝とされ、真の姿は隠され続けてきました。そして長い歳月とカプリアという便利な発見のおかげで表向きの小さな魔法こそ魔法の本当の姿だと信じられるようになりました。それはそれでよかったと思いますが、真の魔法は厳然として世界の裏側に今も存在しています。もしその使い手が現れれば、たとえ一瞬の解放でも先ほどのようなことが起こります」


 ですから、とクーリアは続けた。


「折を見てアオイさまにお話を伺うことにしましょう」


「は?」


「わからないのですか? さっき大きな魔法を使ったのはおそらく彼女ですよ」


 二人は今度こそ完全に言葉を失っていた。


「そ、そんな……」


「私にもそのくらいのことはわかります。おかげで目が覚めた気分です」


 クーリアはこれまで仕えてきた二人が見たこともないほど溌剌として気迫に満ちていた。以前の深い神秘的な瞳の色は今、凜とした内なる強さで輝いていた。


 ファーラム国第一王女クーリア・キルト・アリステアはこの日、おのれが目覚めの日を迎えたことを知った。


     ***


「視線?」


「うん、間違いないと思う」


 葵と恭一は下町の小さな店でテーブルについていた。黒鳥亭に比べるともう少し庶民的な食堂といったところか。ピザかミートパイを思わせる一品料理がなかなか美味だった。


「誰かがあたしたちを見ていた。朝からのルフトの違和感はそのせいだと思う」


「とんでもねえな、監視カメラも魔法か。さすがは魔法の国だな」


 感心したものの、便利だなと言ってる場合ではない。葵の感覚に間違いはないだろう、とすると彼らを監視対象と考えている誰かが存在するということだ。まだ三日目だというのに自分たちはもうそこまでこの世界と関わってしまっているのだ。油断はできない。


「するとさっきのは監視カメラ対策か」


「ごめん、いきなりで。あたしもあんなことができるなんて思ってなくて。足元のあれが光の魔法陣だとわかってフラッシュで対抗できそうな気がしたから」


 葵の口ぶりはまるで盗撮対策である。覗きの気配は消えたが正体不明の「変質者」が撃退できたかどうかはわからない。


「どう見ても目潰しってレベルじゃなかったぞ」


「だよねえ、加減がわからなくて。魔法陣のサイズが大きかったから部屋の照明よりまぶしいだろうとは期待したんだけど、近所迷惑だったかなあ」


「少なくとも葵がここで魔法士を名乗れることはわかったな」


「三級試験でも受けてみようか」


 そんなところに話が落ちて二人とも笑った。監視者らしい存在の出現は本来なら不安をかき立てるところだが、互いに二人でいることの心強さを感じていた。葵には恭一が、そして恭一には葵が自分を補完してくれる頼もしい相手なのだ。


「まあ、あの気配はもう覚えたから」


 二度と覗きなんかさせないよ、とパイをほおばりながら葵が言う。


「誰がそんなことを仕掛けたのかもそのうちはっきりさせてやらないとな」


「やっぱ、王宮方面かな?」


「なんとも言えんが、どうも俺たちはいろいろ噂になってるようだからな」


「謎の黒騎士とキュートな魔法少女のコンビって?」


 あははと笑いながら葵はパイの最後のひと切れにかぶりついた。


 これからどうする、ということになって葵は予定どおり図書館に行こうと提案した。文字は読めなくても情報の集積所である。得られるものは多いはずだ。店を出るとまた辻馬車をつかまえて今度ははっきり「王立図書館へ」と行き先を告げた。

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