第8話 攻防 その1
翌日、二人は朝食を済ませると宿舎の管理責任者を訪ねた。
立派な髭をたくわえた中年男で、名をアロンゾ・カーンといった。負傷して一線を退くまでは一隊を率いる勇士であったという。
「うかがっておりますぞ、なんなりと申しつけてください」
まだ三日目だというのに、既に初日とは態度が違う。父親ほどの年齢の大人に丁重な態度を取られるとなにやらむずがゆい気分だ。姫の意向ということもあろうが、どうやら例の尋問の一件がここにも伝わっているらしい。葵を見る目に敬意の光があった。
「ええと、ではひとつ。あたしたちは今日は一日街歩きのつもりなんですが、よろしければこの街の地図を貸していただきたいんですが」
「お易い御用です」
少々お待ちを、と言って壁の書棚の引き出しから「これがいいでしょう」と一枚の地図を取り出してきた。見ると二つ折りの新聞紙ほどの大きさで、かなり詳細な街路図が記されていた。
「あと、この街に図書館、もしくは博物館のような施設があれば教えていただきたいんですが」
「それでしたら王宮の近くに王立図書館があります。王宮左翼の隣に建つ白い丸屋根の施設なのでひと目でそれとわかります」
そう言って卓上のペンで地図上に印を付けてくれた。
「ありがとうございます。それでは。あまり遅くならないうちに戻ります」
どうぞごゆるりと、と送り出してくれた相手に頭を下げて二人は退出した。
***
その部屋にはひとつも家具が置かれていなかった。
窓もない。
壁には照度を落とした明かりがひとつ灯っているだけだ。ある目的のために可能な限り外部の刺激を遮断しなければならないのである。床には砂を敷き詰めた正方形の区画があり、砂上には細い線で円を基調とした幾何学的な図形が描かれていた。
魔法陣である。
直径は人の背丈ほど、幾何学模様の中心に古代文字らしき記号がこれだけは明るく輝いている。周囲の砂はその効力を高めるため、カプリアを細かく砕いて作られたものである。時として魔法士が自己の力を補強するために使うものだ。
室内には数人の男の気配があった。
全員が目深にかぶったフードで表情は見えない。長身の痩せた影は若い男のようである。小柄な老人の影は魔法陣の前に一人胡座をかいて座っている。恰幅のいい中年男と年齢の定かでない濃い影も目だけを光らせて立っていた。
それぞれ砂に足を踏み入れぬよう魔法陣の周りを取り囲み、無言で眼前の儀式を見守っていた。
座り込んだ老人の影がなにごとか小声でつぶやいていた。他の男たちには意味不明な古語である。すると——。
魔法陣の上に茫っと光の靄のようなものが現れた。揺れながら少しずつ形をなしていくそれはどうやら首都市街の風景のようであった。
やがて焦点が合うように幻影が明瞭になると二人の人間の姿が浮かび上がった。若い男と女、いや青年と少女と評した方が適切か。丈高い若者は衣服の上からでも発達した筋肉を感じさせ、時折鋭い目を光らせる。黒い木剣を背にした精悍な風貌が目を引く。
一方、傍らの少女は笑顔が印象的だ。こちらも目の光が独特で、溌剌とした精気をまとっていた。なにごとか若者に話しかけては笑っていたが、魔法陣の幻影からもれてくる声は雑踏の喧騒に紛れてろくに聞き取ることができない。
二人は逢瀬を楽しむ男女に見えたが、幻影を覗き込む男たちの気配が鋭くなった。
「これが王女の客人だという二人連れか」
「何者だ」
「わからん、ただの若い男と娘に見えるが神殿で王女を襲った連中を全員打ち倒したというぞ、ただ者ではあるまい」
「カーストンの馬鹿が、まだ仕掛ける時ではないというのに早まったことをしおって」
「そのカーストンだが、昨日から厳重な警護がついたそうだ。しかも王女の肝煎りだというぞ」
一瞬の動揺としばしの沈黙、そして小さな舌打ちの音が漏れた。
「やつめ、まさか」
「ありうるな、元々気の小さい男だった。寝返って王女に取り入ったか」
「まあ待て、今の時点でそう断じるのは尚早であろう、もうしばらく様子を見よう」
魔法陣の幻影は相変わらずあの男女を映し出していた。
「この者たちが現れてから急に動きが出てきた。やはりただ者とは思えん。いったいどこから来た」
「神殿の騒動の場に突如として現れたと聞くが……近衛隊に寄宿しているとなるとあるいは王女がひそかに呼び寄せた者たちかもしれん」
「その王女の様子はどうだ、見えるか?」
誰かが魔法陣を操る老人に尋ねたが、嗄れた声が首を振って否定した。
「だめだ、王女はわし以上の霊力の持ち主、覗こうとすれば気づかれるおそれがある」
またしばらく男たちは沈黙した。
「やむを得ん、とにかくこの二人が怪しいことは確かだ、このまま監視を続けよ」
老人は無言でうなずき、再び古語でなにごとか唱え始めた。
***
さすがは一国の首都だけあって街の活気は路地の隅々にまで伝わってくる。坂道の少ない街なので王宮付近を除けば見通しはそれほど利かない。その代わり、歩くにつれ街並みが次々と変化するのが楽しい。
王宮南側が一番の中心街らしく、平らなこの街では最も高い建物が目につく。高いといってもせいぜい五、六階建て程度だが、葵たちにはオランダやベルギーの観光絵ハガキを思わせる趣味のよさである。
地図に記された文字は読めないものの、目の前の実物と照らし合わせると官庁街やオフィス街、商業区域といったところだろうか。
「なんか観光名所みたいね」
「それらしい人も多いな。全人口の二割が集中してるとなると地方の人間には憧れの大都会ってとこだろう」
「この辺りが中心街だとすると……」
葵は地図を横に向けたり逆さまにしたりして「あっちは道が細かいから下町っぽいね」と東側を指差した。
「では行ってみるか」
少し距離があったのでリーンに聞いていた「辻馬車」なるものを初めて使ってみた。要はタクシーと同じだ。空車は馭者席の横に小さな黄色い旗を立てているので手を挙げて合図すると止まってくれる。土地鑑のない二人が地図を見せて「この辺りに行きたいんだけど」と頼むと、馭者はちらと一瞥しただけで「はいよ」と馬を走らせ始めた。
「お客さんたち、遊山かね」
「そう、あちこち珍しくて」
「じゃあ『魔法士の森』なんてどうだい?」
「どんなところ?」
「大昔に偉い魔法士が住んでいたという言い伝えがあるんだが、まあ、今じゃすっかりひらけて遊歩道付きの公園さ。若い人には人気があるね」
「じゃあ、そこにやってくれる?」
葵が地図で示した場所のすぐ近くだというので行ってみることにした。そこからまたぶらぶら歩き回るのもいいだろう。
十五分ほど揺られたところで馬車を降りた。
「あら、いい感じ。ちょっとした森林公園ね」
かつては魔法士の伝説が生まれるほど鬱蒼とした森だったらしいが、今は人の手できれいに整備されていることがよくわかった。水路やベンチ、花壇で取り囲まれ、森の中には遊歩道が連なっている。入口の案内図によると森の中央部にちょっとした展望台が作られているらしい。
そこまで行ってみようと歩き出した。
木々の種類はよくわからないが、奥へ進むと植物の精気が濃く漂っており、森林浴の空気感を思わせた。
「葵のところの神社の雰囲気にちょっと似てるな」
「あたしもそう思った。いかにも魔法士の森らしいね、ここルフトも濃いよ」
時折散歩やデート中(?)らしい人々とすれ違う。観光客らしい姿もだ。服装はまちまちだが、日本に比べるとゆったりした服が目立つ。こちらへ放り出された時、葵はジーンズに夏物のパーカーといういでたちだったが、それに比べると古風な印象だ。若い世代には流行の服があるのかもしれないが、今のところ際立って目立ったスタイルには遭遇していない。
リーンがかなり小遣いをくれたので服もなんとかしたいのだが、今日の二人は彼女が初日に手配してくれた借り物だ。
葵は柔らかい布地のシャツと向こうでいうならスタジャンに似た上着、膝丈のスカートという格好だ。胸の刺繍が近衛隊の隊旗になっているのはご愛敬である。
一方の恭一はデニムによく似た生地の黒い上下で、太刀を背に負えるように肩口から背中を通る厚手のベルトがセットになっている。これは明らかに剣を帯びることを前提とした騎士用のものであろう。足元は両者とも向こうから履いてきたスニーカーだ。
黒い剣を背負った恭一の黒づくめのスタイルはいささか目を引く。葵は「明日から黒騎士恭一と名乗ったら」とからかったが、恭一は平然として「どこかにワンポイントが欲しいところだな」などと笑っていた。
道はごくゆるい登りになっており、やがてふいに視界が開けた。
そこは直径五十メートルほどの円形の小公園であった。ちょうど人が途切れて辺りには誰もいない。中央に高さ五メートルくらいの展望台がある。観光地はどこでも同じね、と葵が笑った。
外周の階段を昇ると直径七、八メートルほどの円形の素朴な展望スペースだ。ワンコインの双眼鏡こそないものの、この程度の高さでも遠くまでよく見渡せた。
面白いのは足元に敷き詰められた煉瓦とおそらくタイルだろうか、そのふたつを組み合わせて描かれた模様だった。
「魔法陣か」
「だいぶ図案化されてるけど魔法陣をモチーフにしたものね」
「まさか発動したりはしないだろうな」
「これだけ原型を崩してあるとそれはないんじゃない」
彼方に見える王宮はさすがに大きいが、ここから見ると観光ビデオの風景のようだ。建築様式は曲線が主体のようで、西洋の城よりはオスマンの宮殿を想起させる。こちらに大理石があるかは知らないが、文字どおり白亜の宮殿であった。
「あそこも行ってみたいねえ」
「いずれな、嫌でも行かせてもらうさ」
二人でしばらくああだこうだと話していると、葵が「あれ」と西のほうを指差した。
「ねえ、あっちに見えるあの山、なんか富士山に見えるんだけど」
ん、とそちらに目をやった恭一も「確かに」とうなずいた。やや高台になっている天元神社の境内からは遠く富士を望むことができる。ここから見えるその山は二人がよく知る神社からの眺めによく似ていた。
「似てるというか、俺には同じものに見えるぞ」
「まさかねえ」
「そういえばもっと広範囲の地図は見てなかったな」
「あとで図書館で見せてもらおうよ」
もらおうよ、といった葵はそこで「うん?」と片手を振った。顔の前の小さな羽虫を追い払うような仕草だ。
「どうかしたか?」
「ちょっとね、蛍がうるさいの」
「ルフトが?」
「どうも朝からときどき妙にまとわりついてくる感じで。だいぶ気にならなくなってたのに……おかしいな」
葵はそう言ってまた手を振った。こればかりは恭一の守備範囲外なので黙っていたが、葵はどうにも気になるらしくちょっと顔が曇った。
「大丈夫なのか」
「ごめん、ちょっと待って」
葵は二、三歩前に出ると周囲を見回しながらなにもない空間に目を凝らした。
朝からかすかに感じていたルフトがまとわりつく感じがここへきて急に強くなった。ルフトは葵にとっては不快なものではなく、むしろ心身をリフレッシュさせてくれると感じていた。なのに今日はそうではない。
ルフトの流れに「むら」があり、本来軽快であるはずの光点が所々色褪せ、沈殿している感じがする。それが不快の原因だ。
葵の目は周囲の「蛍」の飛び方を見定めようとした。スムーズな光点の流れに生まれた停滞を探した。すると——。
光がわずかにくすんだ部分があった。
地上一メートルほどの高さに光点の淀みが見えたのである。サッカーボールくらいの大きさで、周囲のルフトはその淀みに触れると輝きを薄れさせ、色褪せてしまうのだ。
見つけた、でもこれなんだろう?
まるで宙に浮かんだ目のようにこちらを見ている……見ている?
そうか、気持ち悪かったのは見られているというその感じ——視線だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます