第7話 魔法の都 その3
そんなやりとりもあって葵は風呂を沸かすカプリアを使ってみたいと言っているのである。
風呂はちょっとしたジャグジーほどもある大きなもので、問題のカプリアは薄板二枚の組み合わせでできていた。上下の板を逆方向に回すとカチリと小さな手応えがあって固定される。
あとはそれを水を張った浴槽に投げ込むだけである。すると水中に淡い魔法陣が浮かび上がり、わずか五分ほどで適温になるという仕掛けだ。
カプリア表面の魔法陣には湯温の設定まで書き込まれており、そのまま保温モードになる。
「うちよりよっぽどハイテクだなあ」
「本体が熱くなっていないところをみると周りの水に直接作用しているようだな。水はともかく光熱費がかからんというのは画期的だ。便利すぎて機械文明が発達しなかったのも道理だな」
「一緒に入る?」
葵がいたずらっぽく笑うと恭一はにやりとしてこう答えた。
「こういう場合、拙速は禁物だ」
***
王宮へと戻る馬車の中で三人は言葉少なだった。
クーリアはなにごとか深く考えに沈んでいる様子で、時折瞳にひらめくものがある。
リーンはやや落ち着きがなく、思い詰めたような顔だ。ヴァルナは分をわきまえ主の邪魔をするまいという姿勢である。三者三様だが車内の空気は微妙な緊張を孕みつつあった。
やがてリーンが「姫さま」と顔を上げた。内省向きの性格ではないのでしびれを切らしたようである。
「私はどうあってもあのお二人を味方につけたいと考えています」
無言で女騎士を見つめた王女は目だけで先をうながした。
「アオイどのは魔法のない国から来たと言われましたが、彼女は明らかに魔法士です。それもきわめて稀な占術使いと見ました。でなければああも鮮やかに『隠されたもの〈オケイア〉』を言い当てることなど叶いません。キョウイチどのの剣と冷静な状況判断もそうですが、あのお二人を手放すのは悪手であると愚考いたします」
普段はクーリアに対してもさほど構えたところのないリーンだが、緊張からか近衛隊時代のような言葉つきになっていた。
「リーンはなぜアオイさまがカーストン卿に厳重な警護をつけるように言われたのかわかりますか」
「は、それはその……」
「ではとにかくご指示のように計らってください。そうですね、私の名を出して王女からの指示であるとあえて触れ回ってもよいでしょう」
「……おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「わからなくともそのように」
リーンはまだ怪訝な顔だったが主からの直接の命令だ、黙ってうなずいた。クーリアはその趣旨については触れることなく話題を戻した。
「あなたに言われるまでもなく、私もぜひあのお二人と懇意になりたいと考えています。力を借りたいからというだけでなく、今この時に彼らがこの地に現れたことには大きな意味があるような気がするのです」
「はい、ぜひそうなさってください、きっとお力になってくださいますよ」
やや不明な部分もあったが、自分の進言が容れられた形になってリーンはほっとしたようだ。彼女は実用的な性質の人間なので抽象的な考察はあまり得意ではない。姫の真意は今ひとつ見えないが、これでよしと納得した。
一方、ヴァルナの方は車内の空気が少し緩んだことにほっとしていた。日々をクーリアの下で過ごしている彼女にも今の主の雰囲気は常にないものだった。
急に年齢が上がった——言葉にすればそんな感じだ。クーリアにはなにごとか深く思うところがあり、それが普段の軽快ささを薄れさせている。
これまでのような気安い言葉がかけづらい。それは——。
あの二人。
不思議な人たちだった。どこから来たのだろう。茶会の席でも姫はあえてその話題に触れなかったように思う。
魔法のない国? だがリーンも言っていたように先ほど目にしたあれは噂に聞く占術の魔法ではないだろうか。姫の占いもよく当たることで知られているが、アオイというあの娘の言葉には息が止まるほど驚いた。
なんて不思議な人たち。
巨大魔法陣に腰を抜かしたヴァルナはその後の異常現象や襲撃者たちとの闘争をほとんど覚えていない。ただ、冷徹にも見えるあの若者がすごい騎士らしいとは聞いた。
腕利きの騎士と不思議な魔法士の娘。彼らは何者なのだろう。
一見平和に見える第一王女の周りに時として不穏の影が見え隠れすることをヴァルナは知っている。あの二人が現れたことでその影が大きく動き出すのではないか。
胸が騒ぐ。
あぁ、姫さまになにごともありませんように……。
***
ぐっすり眠ったおかげで翌朝は早めに目が覚めた。
壁の時計を見ると六時を少し回ったところだ——そう、ここには時計があるのだ。それもルフト仕掛けではない機械式の時計である。文字盤の数字は別物だが、数はちゃんと十二個そろっている。
最初それを見た時、葵は不思議がったが、恭一は少し考えてこう推測した。
「月も星もあって見慣れた夏の星座もあった、ということはここが別世界の地球だとしても同じようなコースで天文学が生まれ、同じように進歩したということだろう。現に夏至の概念もあったわけだしな」
観測対象が同一なので結果として同じように種々の天文学的数値が発見され、一年の長さ、一日の長さが決められ、時を刻む道具も同様のものが作られたというわけだ。
その時計が七時半を指した頃、宿舎の世話係が朝食を運んできた。昨夜より一段と態度が丁寧なのはクーリア姫の客人だという話が浸透したからだろうか。
パンとスープ、刻んだ野菜を添えたハムと卵の軽食、少し香りの強いオレンジジュースらしい飲み物というファミレスのようなメニューだが材料がいいのか味は上々である。
「お昼は外で食べられるかな?」
「払いはどうする」
「リーンさんに奢ってもらおう」
「まあ収入の道は早めに確保したいところだな。いつまでもリゾートの客とはいかんだろう」
「これからこっちで暮らすとなるといろいろ物入りだからねえ」
着の身着のままで放り出された二人には手持ちの財産もなく、ゼロから生活を作らねばならない。早い話、リーンが手配してくれたとりあえずの着替えを別にすれば手元には下着一枚すらないのが現状だ。
電気のないここでは携帯端末は無用の長物、小銭入れの金も無価値である。ゲーム世界なら恭一の腕を冒険者ギルドに売り込むこともできるだろうが、あいにくここは「現実」なのである。
葵と恭一は優秀な剣と霊能の持ち主でありながら、魔法が実在し騎士が闊歩するこの世界で今のところ文無しの無職なのだ。
リーンが迎えに来るまで時間があったので二人で庭に出てみた。
夏至の翌日ということで太陽は既にかなり高い。小さな雲がいくつか浮いているだけの晴天である。庭といってもちょっとしたグラウンド並みの広さがあり、その一角では十人ほどが剣の稽古をしていた。
「そっか、ここ近衛隊の宿舎だったんだ。部屋が豪華すぎて忘れてた」
「若いな、うちの部員とたいして変わらんやつもいる」
「グラウンドで朝練だもんね、部活みたい」
そんなことを話していると後ろから「失礼します」と声がかかった。
振り返ると剣を下げた男装の女性が近づいてくるところだった。リーンと同じく女騎士と思われたが、華やかな赤い髪が印象的だ。二人の前まで来ると笑顔で「初めまして」と会釈した。
「わたくしはエリーザ・マレと申します。そちらはもしやクーリア姫のお客人としていらした方々でしょうか」
葵がためらうことなく一歩前に出た。
「こちらこそ初めまして。客、と言われると恐縮ですけど昨夜からこちらにご厄介になってます。あたしは葵、隣は恭一です」
「あぁ、やっぱり。さっきお見かけしてもしかしたらと思ったもので。わたくしはリーンとは同期で今は地方で城勤めをしております」
「リーンさんの、それであたしたちのことを」
葵は第一印象でこの相手を「問題なし」と判断したらしい。特に構えることなく言葉を交わしていた。
「ええ、噂どおり印象的な方々でしたのですぐにわかりましたわ」
「文無しの宿無し、なのに?」
事実を言ったのだがエリーザは冗談だと思ったらしく、あはは、と遠慮なく笑った。どうやらリーンよりだいぶくだけた性格のようである。
「たいそうなご活躍だとうかがいましたのでどんなお人だろうと思っていました」
「噂でしょう? 派手に尾ひれがついてるだけですよ」
「ご謙遜を、そちらはいたって男映えのする立派な騎士どのとお見受けしましたが」
エリーザは恭一の持った木刀(?)にちらりと目をやって「お強いのでしょうね」と目をきらめかせた。最初から彼の「黒い剣」に興味があったようだ。
「なにを見ても驚いている田舎者ですよ」
恭一はそう言って軽く肩をすくめた。情報収集は葵に任せたという顔である。
「長旅と聞きましたが当地にはいつまで?」
「さあ、今のところあたしたちにもはっきりしないんですよ。少し忙しくなりそうで」
「そうでしたか、姫さまの御用でお忙しいのでしょうね。折を見てお食事でもと思っていたのですが、わたくしは明後日には任地に戻らねばなりません。残念です」
「んー、それでしたら今日はどうですか?」
「は?」
「午前中にちょっと用があってリーンさんと出かける予定なんです。そっちが無事に片付いたらご一緒しません?」
葵がそう誘うとエリーザは笑顔になって「ぜひ!」と乗ってきた。
「あたしたちこの街では右も左もわからなくって。リーンさんもエリーザさんも知ってるお店ありますか? おいしいとこ頼みます」
「じゃあ中央通りの
予定ははっきりしないが一応十二時で、と約束した。どちらか間に合わなかったらドタキャンもやむなしということで話がついた。
互いに「じゃあお昼に」「ええ、楽しみにしてます」と笑って別れようとしたのだが、そこで恭一が「ん?」と背後に視線を向けた。
庭の隅で剣の稽古をしていた若い騎士たちがこちらへ歩いてくるところだった。
***
九人だった。
恭一が「若い」と称したように全員が二十歳前後だ。中にはどう見ても高校生という顔も混じっている。全員が共通の白い胴着と黒のズボンといういでたちで、もしかすると稽古着のようなものかと思われた。
先頭の男がこう言って挨拶に代えた。
「お初にお目にかかります。我らは近衛第三隊所属第二準騎士隊の者です。そちらはクーリア姫さまの客分として逗留なさっている旅の騎士どのとお見受けいたしましたがいかに?」
どうやら用があるのは恭一の方とみて葵は口を出さない。エリーザも目を光らせただけでこちらも無言だ。恭一は一歩前に出た。
「縁あって姫のご厚意により厄介になっているのは確かだが」
「たいそうな腕前と聞き及んでおります。我ら未熟者ゆえ、常に強い騎士どのに教えを賜りたいと思っていたところ、お噂を聞いてぜひ一手ご指南いただきたいと」
そう口上を述べて軽く頭を下げた。要は若くて強いやつが来ていると聞いてむらむらと挑戦してみたくなったというわけだ。
「俺はそんな偉そうな者ではない、なにを聞かれたか知らんが噂など真に受けんことだ」
「そう言われず、ぜひ一手ご教示を。それとも姫さまの手前、恥をさらす不名誉を避けたいとお思いかな」
血気に逸るとはこのことだ。全員が筋肉質のよい体つきで自分の力に自信があるのだろう。腕を振るいたくてうずうずしている様子が丸見えである。恭一の声がやや低くなった。
「諸君らも近衛の騎士ならめったなことで姫の名を口に出すものではない。責任が倍になる覚悟はあるのだろうな」
「なにを……」
恭一は木刀を片手に提げたまま「お相手しよう」と前に出た。男たちがぎくりとして一斉に飛び退いた。
「お、おう、ぜひともお願い申す。誰かお客人に剣を!」
口上を述べていた男がさっと下がって剣を構えた。稽古用なので刃を潰してあるが、当たればただでは済まない。
「無用だ。これでいい」
「それは木剣だろう、そんなものではたやすく折れるぞ」
「気遣い無用」
恭一は構えず、ぶらりと右手のそれを下げたままだ。葵は自分の出る幕ではないと静観している。傍らの女騎士は本来なら正騎士の先輩として止めに入るべき立場だが、こちらも沈黙している。ただ、その目はなぜかきらきらと輝いていた。
男たちは女二人のことは最初から眼中にないようで、正騎士であるエリーザに挨拶さえしない。対峙している二人を遠巻きにしてある者はにやにやと、またある者は鼻を鳴らして見物に回っていた。
だがこれは見物に値するほどの戦いではなかった。
無造作に距離を詰めた恭一は相手の剣がぴくりと動いた瞬間にはもうその手の甲を打っていた。骨を砕くような一撃ではない。軽く触れただけ、見ている者にはそう映った。
あっけないほど簡単に男は剣を取り落としたが拾うことはできなかった。打たれた手を押さえ、低く呻いて膝をついた。
誰もが拍子抜けした顔で声もない。
「次」
恭一が短く誘うと男たちは思わず互いの顔を見回し、中の一人が「御免!」と前に出た。そのまま剣を両手に構えるが、恭一がひょいっと片手を繰り出すともう相手の剣が地面に転がっていた。
「次」
今度の男は間合いを取らせると不利と見たのか、激しく剣を振り回しながら突っかかってきた。がむしゃらもいいところだが、これでは騎士の品位を疑われるだけだ。恭一は一度体を入れ替えただけで男の剣を跳ね飛ばした。
「次」
何人かかっていっても同じだった。誰一人として一合と打ち合えないのだ。九人全員がわが手を押さえてくずおれるまでいくらもかからなかった。
「ぬるいな」
演技か本音か、恭一はあえて冷たく言い放った。
「言ったろう。王や王女をお護りする近衛の騎士に敗北は許されん。勝つか死ぬかだ。主君の名の下に剣を抜くとはそういうことだぞ。諸君らの剣はそれほど重いのだと覚悟しておけ」
全員がうなだれて顔を上げることもできなかった。
葵は「じゃ」とだけエリーザに告げて歩き出し、恭一が無言で並んだ。そのまま歩み去る二人に女騎士はしばし声もなく立ち尽くしていた。
***
襲撃犯の取調べは近衛隊宿舎から少し離れた近衛隊本部付属の医療院で行われるとのことであった。本来なら当然近衛本隊に留置されるところだが、今回は恭一が全員病院送りにしてしまったので最も軽傷の男を医療施設内で尋問することになったのだ。
慣れれば歩いて行ける距離だがリーンと葵、恭一の三人は馬車の中である。
「移動手段は馬か馬車、魔法はあっても自転車はないか。なんとも奇妙な眺めだな」
恭一は昨日からこの地の社会構造に興味津々で、しきりに感心したり首をひねったりしている。彼に言わせると魔法という要素が加わったことで文明の発展順序がバラバラになった、ということのようだ。
芽吹く前に消滅した技術、一足飛びにハイテク化された技術、それらの結果としての日常世界のありようが葵たちのそれとは異質に育ってしまったのであろうと。
「あと気になるのは情報処理だな。ここでの通信技術はどうなってるんだ?」
「そういえば電話ないよね、まさか手紙だけ?」
二人の会話はリーンには意味不明なところが多かったが、これはなんとなく言いたいことがわかったようだ。
「カプリアによる遠隔通話の魔法については聞いたことがあります」
「やっぱあるんだ?」
「いえ、これはまだ魔法陣の組み方が研究段階だそうで。試験的に王宮と近衛隊の間にひと組だけ」
「ふむ、通信設備は試作機の段階か」
光の魔法陣を点滅させて狼煙代わりに使う手もあるが、これは光源の位置が特定されやすいため斥候や伝令を多用する軍は遠隔通話魔法の完成を切望しているのだという。
「できたらできたでさぞ内緒話したがる人が喜ぶだろうね」
「なにか企んでるような連中は特にな」
「カプリアケータイの時代くるかな?」
「いずれな、なんらかのブレイクスルーがあれば一気に普及するはずだ」
窓の外の街並みは昼の太陽の下ではやや古風なヨーロッパの街角といったところだ。観光で訪れるなら最適だが、葵たちの場合は神隠しか島流しのようなものだ。きれいね、とばかりは言っていられない。
それでも道行く人の表情は明るい。夏至祭の余韻もあるだろう。昨日のハプニングの噂は広がっているだろうが、基本的にこの国が穏やかな国情だということは伝わってくる。現国王の治世は善政だということだ。
カラフルな看板の文字はまだ読めない。数字はすぐに覚えたがアルファベットに相当するらしいこちらの文字は果たしてそれが何文字あるのかも不明だ。
「早く字を覚えないとね」
「もしくは誰かが本を読んでくれると助かるな。言葉として発音されればちゃんと意味が伝わるわけだから」
その謎の翻訳機能の仕組みは不明だが、葵はなんらかの形でルフトが関係しているのではないかと感じていた。いずれ真剣に考えてみたい謎だが、今はとりあえずありがたいサービスだと受け止めるだけにしておく。
そんなことを考えているうちに馬車が止まった。
***
引き出されてきた男は右腕の肘から先を包帯でぐるぐる巻きにされていた。
たった一晩で憔悴しきって苦痛に顔をしかめている。怒号とともに剣を振りかざしていた姿とは別人のようだ。魔法士には治癒魔法もあるらしいが姫の命を狙った重罪人にそんな「ぜいたく」な治療は許されないのだろう。
取調べそのものには近衛隊の専門家二人が当たり、葵たち三人は壁際に立ってその様子を見守る形である。男は恭一の姿を見るととたんに怯えた様子でなるべくそちらを見ないように顔を伏せていた。
「名前は?」
「ジャン。ジャン・ゴルトン」
「歳は? どこに住んでいる」
「三十五、家はねえ、どこに寝るかはその日次第だ」
尋問はそんなやりとりから始まった。まずは型どおりだ。男は若い頃から素行が悪く、故郷で食い詰めてこの首都まで流れてきたが、ここでもまっとうな仕事にありつけずその日暮らしが続いていた、とつっかえながら話した。
「それで? なぜ神殿を襲った」
「祭で人が楽しそうにしてるのが……嫌だった。俺が、俺だけがゴミのようなありさまだってのに」
「身勝手な話だな、だがお前は一人じゃなかった。連中は?」
「あいつらのことは知らねえ、酒場や汚れ仕事でときどき顔を合わせた」
「それで一緒に危ない橋を渡ろうとしたのか? 誰が言い出した?」
「知らねえ、いつの間にかそういう話になってた」
なにもかも疎ましくて暴れたい気分だった。だからみんなが楽しくしてるのをぶち壊したくなったんだ。男はそう告白し、ちくしょうと吐き捨てた。
「なあ、なんで俺だけこんなについてねえんだ、教えてくれよう」
男は痛む右腕を抱えてそう嘆いたが、そんなことで同情するほど取調官も甘くはない。
「それで神殿を襲ったと? よりによって夏至祭の真っ最中にか」
「俺のせいじゃねえ、俺は……」
「お前は自分が誰に剣を向けたかわかってるんだろうな」
「とり澄ました神殿の女たちなんざ知ったことか」
「その神殿の女たちに代わって今年はわがファーラム国第一王女クーリア姫さまがあの場で『聖天の儀』を執り行うことは知れわたっていたはずだが」
男はぽかんとしてなにを聞いたかわからないという顔だ。口を開けて固まっていた。
「知らんとは言うまいな?」
「……王女さまだって?」
「そうだ」
男はしばらく呆然とした後「嘘だ!」と叫んだ。
「知らねえ、俺は知らねえ、そんなこと聞いちゃいねえ!」
「それもまた都合のいい話だな」
「知らねえよ、王女だなんて、そんな馬鹿な……」
男は知らねえ知らねえとくり返し、首を振って「俺じゃない、俺じゃない」とわめきだした。取調官の一人がリーンの方を向いて「どうします?」と目で尋ねていた。
すると葵が壁から離れ、すたすたと歩いて男の前に立った。そのまま顔を寄せるとこう囁いたのである。
「ね、いくらもらったの?」
男は取調官を制して近づいてきたこの少女にまるで見覚えがなかった。なにを聞かれているのかさえわからなかった。だが、少女がこう続けると「うっ」と狼狽した。
「前の晩、いいお店に行ったでしょう? いつもの安酒と違っておいしかったよね」
「な、なにを……」
「そのお金はどこから出てきたのかなあ」
男は明らかに動揺して目が泳ぎだした。少女と取調官、壁の女騎士や、目を合わせたくなかったはずの男にまで視線をさ迷わせ、言葉に詰まった。
「ねえ、よく聞いて。姫さまに剣を向けたとなると楽には死ねないと思うの。あたしさっき近衛隊の若い騎士さんたちに会ってきたんだけどね、みんなすごい勢いで犯人は八つ裂きにしてくれるって剣を磨いてた。近衛隊は王さまや姫さまをお護りするのが努めだもんね」
男は一気に蒼白になり、がたがたと震えだした。にわかに想像力が働き出したのだ。近衛隊は精強な騎士揃いだ。あの四大騎士もその一員である。あんな連中を敵に回したらと思うと生きた心地がしない……。
「いいこと? ここから先は綱渡りだよ。あなたが正直に答える度に騎士さんたちの剣は遠ざかるけど、ひとつでも嘘をついたらあなたをすぐに無罪放免で釈放してあげる。騎士さんたちが大喜びで迎えてくれるね、きっと」
男ばかりでなく、取調官やリーンまでが唖然として突然のこの展開に固唾を呑んでいた。少女は男から思いもよらない事実を引き出そうとしている!
「さ、いつまでも昔のご主人さまに義理立てしてる場合じゃないよ。あのお金は誰がくれたの?」
「……て、テンペスのじいさんだ」
「それは誰?」
「お屋敷の、使用人頭だった、お、俺がいた頃は」
「前からつきあいがあったの?」
「いや……おん出されてから何年も会ってねえ。けど、酒場で声をかけられて」
男は久しぶりに会った老執事に「お前も苦労したようだな、どうだ、お屋敷に戻ってこんか」と誘われ、しかしそのためには自分が役に立つところを見せてお前の本気を主に認めてもらわねば、とそそのかされた。
そうだ、ひとつ派手に暴れてみるのもよかろう、祭の日に神殿で剣を振り回してみろ、たまった憂さも晴れるぞ。なあに、巫女の一人くらい斬ったところですぐ見物人の中に紛れて逃げてしまえばよい……。
そのように囁かれているうちに気が大きくなった。景気づけだといってたいそうな小遣いももらった。その金で食い詰め者を何人か誘うと喜んで乗ってきた。
あのときは魔法陣の怪異にたまげているうちに見物人は皆逃げてしまい、しまったと思ったがもうやけくそで舞台中央の巫女に襲いかかった。儀式の主役だということは見ていてわかったから……。
「姫さまのことは知らなかったの?」
「知らねえ、ひょっとしたら聞いたかもしれねえけど、俺には関係ねえ話だから……いちいち覚えてなんか……」
「まだ三つ葉のお屋敷に戻りたい?」
「いや、もう……
「今の話をもう一度きちんと証言できたらね、もちろんやった分の償いは必要だけど」
「する、なんでも話すから」
葵がリーンに目配せすると固まっていた女騎士は慌てて取調官の一人を連れて部屋を出ていき、すぐに数人の係官と一緒に戻ってきた。尋問はそこで終了となり、男は係官たちとともに退出した。うなだれてはいたが、葵に対して小さく頭を下げる仕草がリーンには印象的だった。
***
昼どきとあって黒鳥亭は混んでいたが、四人はなんとか隅の席を確保した。
葵たちの感覚からすると趣味のいい街の洋食屋といったところで、大盛りで人気の店だという。向こうの店と比べても客の服装以外ほとんど違和感がない。エリーザに任せた注文は肉料理がメインで、パンとスープ付きというのだからなおさらだ。
エリーザは遠慮なくビールと思しき飲み物を注文していたが、リーンは苦笑して「まだ仕事があるので」と控えていた。
「食べ物に違和感ないのは助かるなあ」
「お口に合うようでよかった。お国の料理もこのようなものですか」
「ええ、強いていえば米が多用されるけど」
「コメ?」
「穀物の一種です。名前が違うだけでこちらにもあるかも」
エリーザは好奇心旺盛な女性で、葵たちの話をなんでも聞きたがった。リーンは立場上、取調べの話などをぺらぺら口にするわけにもいかないので葵が雑談を引き受けてくれてほっとしているようだ。
「今朝は驚きましたわ。リーンからお強いとはうかがってましたので実はちょっぴりわくわくしましたの」
恭一は軽く肩をすくめただけで答えに代えた。
「彼らはあれからどうしました?」
「意気消沈して宿舎へ。そうとう衝撃だったようです」
事情を知らないリーンにエリーザが朝の一件を話して聞かせると意外にも驚いた様子はなかった。正騎士にも達していない若者たちではとうてい恭一の相手ではない。彼女自身、その身で体験していたからだろう。
「まあ、血気盛んな年ごろだしね、腕自慢したいのはわかるけど」
「そうね、あの闘志がいい方へ向かえばね」
女騎士たちは達観したような口ぶりだが、彼女たちと朝の若者たちはそれほど歳が離れているわけではない。彼らがこれから直面するであろう試練がよくわかっているのだ。
「まあ、頑張れとしかいいようがないよね」
エリーザがあっさり結論を下してまた恭一に目を向けた。
「これからどうなさるの? あれだけの腕をお持ちならどこの領主も競って契約したがると思いますけど」
「俺は葵と二人で一組なんでな、仕事には一考を要する。今はここの事情をよく知ることが最重要課題だと考えている」
「仕官なさる気はない?」
「長期の展望はまだない。いつまでも客人の身に甘えているわけにもいかんが」
「思い切って近衛隊とか? 四大騎士が五大騎士になってもわたくしは驚きませんわ」
「四大騎士?」
ファーラムの近衛隊には最強と謳われる四人の騎士が存在する。周辺諸国にまでその名が轟いているほどの英雄である。四大騎士ある限りファーラム国王は安泰とまでいわれていた。
「ほう、それほどに強いのか」
「風のシュトルム、岩のガーラ、水のウィアード、火のベルリーン、それぞれが独自の強みを持ち、近衛隊にあって彼らだけは隊長の命を受けることなく自由に行動することを許されています。彼らが頭を下げるのは国王ご一家に対してだけです」
「アニメの四天王みたいね」
一言で評した葵は恭一に「どう?」と水を向けた。
「剣道バカの血が騒ぐ?」
「強いと聞けば興味はある」
そこで葵がいきなり「そこ、変なこと企むのはだめだよ」と女騎士二人を軽く睨んだ。彼女たちがなにを考えていたにせよ、葵の言葉の意味は通じたらしく、リーンは「うっ」と言葉に詰まり、エリーザは飲みかけのビール(?)にむせた。
葵の方はもう目の前のビーフだかポークだか判然としないステーキに取りかかっているが、女騎士たちはなんともいえない表情でそっと顔を見合わせた。毒気を抜かれたといったところであろう。
「まあ、さ」
いささか行儀が悪いが、葵が肉をほおばったまま話題を戻した。
「あたしたちも寝るとこと食費をかせぐことくらいはなんとかしなきゃいけないんだけどね、異国の地で軽はずみな判断は避けたいの。宿舎にお世話になってる間によい選択ができればって考えてる」
「街もよく見てみたいしな」
「でしたら誰か案内の者をつけましょうか」
リーンとしては当然の提案だったが葵はやんわりと辞退した。二人で自由に歩き回り、見てみたいからだ。
「わかりました、そういうお考えでしたら」
「あの宿舎って門限とかあるの? それは尊重するけど」
「正騎士にはありませんが、準騎士隊はまだ半人前扱いなので。もちろんお二人には自由に振る舞っていただいてかまいません。隊には姫さまからそのようにご指示が出ておりますから。あと……差し出がましいようですけど、路銀をお持ちでないとのことなので、多少の手当てをご用意させていただきます」
「借りていいの?」
「借りるなどと、どうぞ自由にお使いくださってけっこうです」
葵はちらと恭一に目をやり、彼がうなずくのを見て「じゃあ借りとく」と答えた。恭一は「恩に着る」と礼を述べたが、内心は「これでここの貨幣価値が検証できる」などと考えていたのかもしれない。
ともあれ、二人はしばらくこの街を自由に歩き回る立場を手にしたようであった。
**********
ちょと長くなりましたが、おおよその話の構造が掴めるよう序盤部分を大急ぎで更新しました。今後はもう少しゆっくりと書き足していくつもりです。
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