第3話 葵と恭一 その2


 葵の霊感がいつ頃から発現したかは本人にもよくわからない。


 ただ幼少時から異様に勘の鋭い子であることには両親も気づいていたようだ。最初は神社の娘だからと笑っていたのだが、失せ物の場所をいい当てたり、なにげなく口にしたことが後になって実現するなどということが続くとさすがに「これは」と思わざるを得なかった。


 当時まだ存命だった祖父は真顔で「天元さまの生まれ変わりやもしれぬ」と息子夫婦に告げた。神社の跡継ぎとはいえ至って常識人の夫婦は「まさか、いくらなんでも」と眉につばをつけたが、そうしたある日、決定的な事件が起きた。


 温泉好きの母親がバスツアーに出かける時になって幼い葵が「行っちゃだめ」とぐずり始めたのだ。明朗で手のかからない幼女だったのが泣いて母親にすがるさまに両親はやれやれという顔だったが、母親が折れて「わかったわ、バスはまた今度にするわね」と旅行はキャンセルになった。


 翌朝、テレビ各局が報じたのは谷底に転落したツアーバスの残骸と五十名にも及ぶ犠牲者の顔だった。


 母親は蒼白になって娘を抱き締め、父親と祖父は震え上がった。むろんその事実は家族だけの秘密として厳重に封印された。


 葵のそうした霊感は成長するにつれて少しずつ影をひそめ、時折ひらめきをみせる程度に落ち着いたが、本当に霊能が薄れたのか、それとも葵自身が分別を発揮して不用意な発言を慎むようになったからなのかは親たちにもわからない。


 通常であれば噂を聞きつけた有象無象が引き寄せられ、妙な宗教やカルトに引っ張られかねないところだが、神社の娘という立場がカモフラージュとなって不穏な輩の接近を阻んでいた。


 葵がオカルトを嫌うのももしかするとそうした事態を本能的に察しているからかもしれない。


 ただ、つきあいの長い高城家の父子などはささやかな噂と事実の内情を——すべてではないにせよ——知るに至ったようである。


 遊びと言われてテーブルに撒いた数十枚の写真を前に「この中に気になる顔はあるかな」と聞かれた。小学生だった葵は無邪気に「この人たち嫌い、感じ悪いよ」と三枚の写真をはじき出した。その結果が今日の騒動の遠因というわけだ。


 今日は我ながらよい決断をした——葵はそう思っていた。


 思えば以前から漠然とした予感はあったような気がする。自分が誰かほかの相手の隣に立っている姿など想像できなかった。最初からベストの相手に巡り会っていたのだと今なら納得できる。ならば遠回りの必要もない。


 恭一のタフでおおらかな魂が寄り添ってくれるなら、如月葵は確固とした望ましい未来を選ぶことができる。その道はもう始まっているのだ。


 彼と二人で、今日、今この時から。


     ***


 急な話でもあり、婚礼衣装など用意する間もないので一同は平服のままだが、葵の父だけは神主としての支度がある。その間、葵たちは「これを磨いておいてくれ」と言われて古びた葛籠つづらを渡された。編み目もだいぶくたびれて貧相な木箱のように見える。


「なにこれ」


「天元鏡といってうちのご神体だよ、見せたことなかったか」


「え、うちのご神体って本殿の丸い石っころじゃなかった?」


「あぁ、あっちは営業用だ。本物はこっち、一応門外不出だぞ。引っ張り出すのは父さんの結婚式以来だから二十年ぶりくらいか、済まないが埃を払っておいてくれ」


 ご神体に本物と営業用の別があるとは初耳だが、とりあえず自分たちのために本物を用意してくれたことに感謝してその古びた葛籠を抱えて本殿から出た。短い階段を降りて靴を履き、清掃や水撒きに使う蛇口の脇でそっと蓋を開けた。


 二十年もしまい込んでいたというのはどうやら本当のことらしく、細かい埃が舞うのが見えた。


「門外不出だからって掃除ぐらいすればいいのに」


「鏡か、確かにそれらしい形をしているな。歴史の教科書で見るようなやつだ」


「銅鏡とか三種の神器とかいうあれね」


「らしいな、意外と軽いが」


 恭一が慎重に取り出して重ねたタオルの上に置いたのは直径が二十センチほどの黒っぽい円盤であった。材質はよくわからない。金属製らしいが手触りは石のようでもある。錆こそ浮いてないものの、こびりついた汚れで表面の模様らしきものは定かではない。


 丁寧に水洗いしながら磨いていくと地の色は意外と明るいことがわかった。薄いグリーンにもブルーにも見える。


「この色だとやっぱり銅とか青銅って感じだな」


「変わった模様ね、ちょっと異国風っていうか」


 磨いているうちに表面に施された装飾が浮き出てきた。そこだけ光沢があり、恭一は目を凝らして「金かもしれない」と判定した。


「本物というだけあるな。時代はわからんが、かなりの逸品だぞ」


「表面の模様ってなんか魔法陣みたいね。それにこの細かい記号みたいなやつ、文字のように見えるよ」


「案外そうかもな。見るからに祭祀用って感じだ」


「なんて書いてあるんだろうなあ」


 すると鏡をいじり回していた葵がふいに黙り込んだ。恭一が「おや」と思うほど目の光が強くなっている。なにかが気になるらしくしきりに目をしばたたいていた。


「どうした」


「……恭一、前に蛍の話をしたの覚えてる?」


「ん、もしかして虫じゃない方のやつか」


「うん、なんでかな、この鏡に集まってくる。見たことない数」


 恭一の目が鋭くなった。葵の言う「蛍」とは時として彼女が目撃する微細な光点のことである。空中を漂うその姿が夏の蛍を思わせることからそう呼ぶのだが、その蛍には実体がない。小さな光点だけが宙に舞っている。


 その正体は不明で葵も恭一以外に話したことはない。ただ、それが彼女の霊感と無縁でないことだけは確かなようで、蛍が舞っていると葵の勘も冴えわたるのだという。


 葵の目にだけ見える霊的ななにか——恭一はそう解釈していた。むろん真偽は確かめようもないのだが。


「見えるときでもまばらに漂ってるだけなのに……すごいよ、鏡の周りにどんどん湧いてくる感じ……こんなの初めて見た」


 恭一にはなにも見えないが、葵がいつになく気配を濃くしていることは伝わってくる。鏡の表面に指を滑らせている少女の口元が細かく震えた。


「エレ……ツヴァウ……アザト……オルデラン……」


「葵?」


「不思議、さっきまで読めなかったのに」


「読めるのか?」


「読めるというより意味が浮き上がってくる感じね。ええと、我、夏至の太陽の下に立ちて豊穣の神に祈らん、天と地の約定に従いて恵み多き次の一歳ひととせを。そんなとこ」


「いわくありげだな、マジで霊能者の台詞だぞ。どういう意味だ」


「さあ……あっ!」


 葵が短く叫んだと同時に恭一もそれを見た。


 鏡の表面の模様が光を放っていた。バックライトでも仕込まれているように複雑な文様が浮かび上がったのだ。


「わ、なにこれ!」


「わからん、どんどん明るくなってくる、どういう仕掛けだ」


「蛍が吸い込まれていく。あとからあとから……」


「熱や振動は感じられんが触ると少しピリッとくるな」


 明らかな異常現象だというのに恭一の図太さがおかしくて葵は吹き出した。


「さすがはあたしの旦那さま、普通もっと驚くよ」


「これでも驚いてるさ。これなんかヤバい代物じゃないのか」


「あたしに聞かれても……あれ、この魔法陣っぽいの動いてるよ」


 ん、と覗き込んだ恭一も確かに目撃した。表面に明るく浮き上がった文様がゆっくりと回転しているのだ。もはやとうてい古代の遺物とは思えない。


「実に興味深いな、鏡というよりディスプレイのようだ」


「やっぱオカルトかあ、マジックアイテムってほんとにあったんだ」


「しかしいったいなんの道具なんだ? これだけじゃただの——」


 玩具おもちゃだぞ、と言いかけたその時である。


 葵が手にした鏡の文様が二人の頭上に浮かび上がったのだ。


 直径二メートルほどの「魔法陣」は金色の輝線で形作られ、回転しながら二人を包むと閃光を発して消滅した。


 支度を済ませて本殿に入ってきた神主とその旧友は一瞬の閃光を確かに目撃した。


 なんだ? と本殿から外の回廊に出ると、すぐ脇の地面を転がっていくご神体の鏡が見えた。


「葵?」


 神主は訝しげに呼んだが、応える声も我が子の姿もすでになかった。


     ***


 声を上げる暇もなかった。


 金色の光がはじけたと思った次の瞬間にはもう周囲の光景が変わっていたのだ。


 ほぼ真上にあったはずの太陽は木々の向こうに没しており、辺りは夕闇に包まれようとしている。屋外であるのは確かだが目の前に建っていたはずの本殿も見当たらない。


 ちらと見上げた空には「あの」魔法陣がおそろしく巨大に投影されていたが、ほんの数秒の間に消え薄れて見えなくなった。


 さすがにすぐには言葉が出てこない。


 周囲をぐるりと見回した葵は傍らに立つ恭一の姿に安堵した。あの瞬間に愛用の木刀(?)だけは掴んでいたのはさすがというべきか剣道バカの本能か、いずれにせよ頼もしい姿にようやく声が出た。


「困ったね」


「困ったな」


「この展開はどう考えてもさっきのご神体のせいだよね」


「そう考えるのが妥当だが、どうも合理的解釈は難しそうだ。これは葵の領分だろう」


 オカルトお断りなんだけどなあとぼやきながら、この状況でたいして動揺していない自分に驚く。本来の自分はここまで図太くはなかった。恭一が隣にいるだけでこんなにも落ち着いていられるのだと思うと素直に感謝したい気分だ。


 自分たちがいるのはどうやら野外劇場の舞台のような場所らしい。白い細身のドレス(?)をまとった女性が数人、倒れ伏したり尻餅をついたりしており、いずれも明らかに日本人ではない。


 中でも目を引いたのは葵の正面に座り込んだ格好の少女だった。


 歳は自分より少し若いくらいだろうか。金髪に青い瞳、そして日本の日常ではちょっとお目にかかれないような整った顔立ちの美しい少女である。


 その傍らに二十歳くらいに見える男装の女性が膝をつき、少女を気づかうようにその背を抱いていた。両者ともひどく緊張した様子で葵と目が合うと少女のほうがぴくりと震えた。


 これは無理かな、と思ったが一応尋ねてみた。


「あのう、すみませんが……ここどこですか?」


 聞こえたはずだが反応がない。やっぱ日本語じゃ無理かと思って英語にスイッチしてもう一度尋ねた。これも反応なし。


 では身振りで、と思って一歩前に出ると少女は思いきり身を引こうとし、支えていた男装の女性が跳ね起きた。こちらもきれいな女性ひとなのだが大きく目を見開いてすごい形相である。


 腰に下げていた細身の剣を引き抜くと両手で構えた。やや腰が引けているのは彼女がおそろしいほど緊張しているからだろうか。


「ちょ、待ってよ、あたしたちは……」


 言い終わらぬうちに女は絶叫のような気合いとともに突っ込んできた。まるで猛獣に突きかかるような必死の表情である。


 うわっと思ったが、女の剣は葵に届くことはなかった。乾いた音とともになにかにはじかれてしまったからだ。


 音もなく前に出た恭一が片手にあの太刀を下げていた。彼がそれを振るうところは見えなかった。更に一歩前に出て無言で葵をその背にかばう。


 女は剣を構え直すとまたも突っ込んできたが、再度恭一の黒い剣にはじかれた。彼女の気迫は子供を守ろうとする獣のように激しく、ほとんど悲鳴に近い気合いで何度も挑みかかるものの、恭一は片手だけで女の必死の剣をあしらっていた。


 両者の力量の差は圧倒的であり、恭一が軽く手首を返しただけで女の剣はその手を離れて転がった。


「もうよせ、あんたの剣では俺には届かん」


 言葉が通じるはずもなかったのに女は泣きそうな顔でそれでも恭一から目を逸らすことはなかった。その時になって「リーン!」と少女の叫ぶ声が聞こえた。もしかするとそれが女の名だったのかもしれない。


 頃合いとみて葵は一歩前に出ようとした。とにかく落ち着いて意思疎通を図ろうと思ったのだが、そこでまたしても邪魔が入った。

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