閑話 帰り道
「たとえば、誰か一人がいなくなったとき、その人物が関わって生じた傷も歪みもすべてなくなるとしたらほづみ、君はいなくなりたい?」
「何が言いたいんだよ?」
訝って訊ねると、名嘉街は実に涼しい顔をして答えた。
「別に。理想というのはいつだって思った通りに叶わないものだと思ってね」
「……理想って、叶わないものなんじゃないのか?」
「へぇ、なかなか現実主義者じゃないか」
「褒めてねぇな、それ……」
「そうだね」
皮肉をあっさりと認め、名嘉街は進行方向を、遠くを眺める目付きで見つめた。
「理想や夢は決して叶わない。この世にティンカー・ベルがいないと気づくのと同じだよ」
「何でティンカー・ベルなんだよ?」
「ピーターパン症候群から連想して」
「それはなんか違うだろ」
「そうかもね」
はぐらかすような言い方をする名嘉街に、ほづみは内心で首を傾げた。いつものことではあるが、名嘉街が何を言いたいのかさっぱり分からない。
ふとまた、ポツリと呟く声がほづみの耳に届く。
「たとえば今、僕がこの世からいなくなれば、僕の関わったものから僕の痕跡はすべて残らず消えてくれるんだろうか?」
「――――――」
今度、ほづみは言葉を返すことが出来なかった。咄嗟に返事が思いつかなかったからだ。
名嘉街は、今なんて?
ほづみの様子などまったく意に介さず、足元まで覆う裾の長い真っ黒なコートを着て隣を歩く名嘉街は、淡々と独り言を呟いていく。
「僕がいなければすべて丸く収まることがたくさんあった。近しいことから言えば、ほづみはあんなことに巻き込まれなくて済んだし、日波はもっとマシな人間と出会うことが出来た。千波だって、もしかしたら死なずに済んだかもしれない。それから、僕と関わった人は全員」
「……でも、そんなの矛盾してるじゃないか」
少しだけやるせなさと、切なさと、怒りを込めてほづみは名嘉街の言葉を遮った。
そんなものは詭弁だと思ったからだ。
自分を慰めるための、都合の良い言い訳に過ぎない。
「最初から名嘉街がいなければ、なんて、今名嘉街が考えたって仕方ないことだろ? どうにもならない」
「……分かってるよ。だからこそということもあるんだけど、……そうだね。これは、メビウスの輪みたいなものだ」
「メビウスの輪?」
「ねじれた八の字型の図形。細長い長方形の帯を、片方ねじってから輪にする。するとそういう形になるんだ。ちなみに、それの真ん中を上手く切ると、大きな一つの円になる」
「ふーん……。で?」
「無意味だってことだよ。結局堂々巡りだろ」
「……まぁ……」
いまいち理解出来ていないほづみを他所に、名嘉街はまた勝手に言葉を続けていく。元々、他人に自分の意見を理解させようという考えが、名嘉街にはないのかもしれなかった。
「『僕がいなければ』という前提を僕が言っても、僕は既にこの世に存在してしまっていて、今更なかったことには出来ない。ここで道路に飛び込んで自殺したところで僕の死はそれこそ無意味なものになるだろうね。喜ぶ人間はいても、悲しむ人間はいない」
「そんなことっ……ない、だろ?」
つい口を挟んだにも関わらず、ほづみは断言することが出来なかった。そんな自分に腹が立つ。唇を噛んで、俯いてしまった。
そんなほづみを一瞥し、名嘉街は言う。
「悲しむフリ、というのが人間は上手いと思わない?」
「え?」
一瞬どきりとした。
名嘉街の黒い瞳がほづみを横目で見つめている。
まるで自分のことを言われている気がしてしまった。そんなこと、名嘉街は一言も言っていないのに。
被害妄想。
馬鹿なことを言う前に、口をつぐむ。
名嘉街の声が聞こえた。
「本当はそんなこと思ってもないのに、人間はそれを装うことが出来るんだ。人が死んだと聞けば痛ましい、知り合いなら残念でしたね、友達なら辛くて悲しい、家族なら何故死んでしまったのか、愛する人なら――一緒に死にたかった。これくらいの常套句、今どき保育園児だって言える」
「……名嘉街は」
「これは愛することにだって言えると思うよ。でなきゃ結婚詐欺なんて成立しない。まったく、人間なんてものは」
「名嘉街は、人間が嫌いなのか?」
今まで迷いなく動いていた名嘉街の足が止まる。つられてほづみも足を止めた。
街中の喧騒。車の風切り音。町は賑やかなのに、二人の周りだけ音がなくなってしまったかのように殺伐としていた。
名嘉街は前を向いたまま答えない。相変わらず無表情で、何を考えているのかもさっぱりだ。
対して、名嘉街の話題を強引に無視して尋ねたほづみは、少しばかり緊張した様子で隣に立つ名嘉街を見下ろしていた。
「……ほづみ。腐った林檎って知ってる?」
振られた話題は、またほづみの質問とは関係のないものだった。だが、聞き覚えのある言葉につい尋ね返してしまう。
「腐った林檎……?」
「そう。教師から聞かされたことないかな。箱の中にたくさん林檎が入っていて、その中の一つが腐っていると周りの林檎も次々と連鎖的に腐っていくっていう。よく問題児を排除する方法とかで、たとえ話として挙げられるって聞いたけど」
「聞いたことはある、けど」
それが何だというのだろう。今は別に問題児の話をしていたわけでもないのに。それとも、名嘉街は自分がその「腐った林檎」とでも言うつもりなのだろうか。
窺うようにこちらを見てきた名嘉街に、ほづみはぼんやりとそんな考えを抱く。
「もともとはラテン語のことわざらしいんだけどね。……まぁ、それはいいんだけど」
「何が、言いたいんだよ?」
「人間は、知っていることしか知らない生き物だ」
つまり、と言って名嘉街は再び帰路を歩き出した。それを追いかけて、話の続きに耳を傾ける。
突拍子のないものだとしても、名嘉街の話はいつも興味深かった。
それは多分、名嘉街が自分とは違った物の見方をしているせいだろう。
名嘉街は淡々と、その澄んだりんとした声で続けた。
「最初から腐った林檎しか知らない人間は、それ以外の林檎を正常だとは思わない。その人間にとっては腐った状態の林檎が正しい林檎で、正しい林檎は『腐っている』ということになるんだ」
「……つまり、一般とは逆ってことか?」
「その一般が正しいのかどうかも微妙なところだけどね」
腐った林檎。
同じような林檎の中に一つだけおかしいものがあればおかしいと判断もつく。しかし、最初からそれしかない状態だったら、それが正しいと思ってしまう。
教わらなければ、学ばない。それが人間。
「食塩水に浸された人間は正常にマニュアル化されるけど、所詮腐った林檎は腐ったままだ。僕には人間なんて、どれも大差ないように見えるよ」
名嘉街は吐き捨てるようにそう言った。
「どれも大差なく、腐ったことを現実と言い訳して鵜呑みにしているようにしか見えない。だから、別に嫌いなんて思わないよ。それこそが現実なんだから。僕らはただ、腐った林檎を食べ続けるだけだ。何が毒かも、知らずにね」
りんとした声が、空気を伝ってほづみの鼓膜を振るわせる。
名嘉街の言うことが正しいとは思わないが、間違っているときっぱり否定を言い切ることが出来るほど、ほづみは自分の中にはっきりとした意見を持っているわけではなかった。
だから、名嘉街がそう言った後も口をつぐみ、沈黙したまま帰路を歩く。
名嘉街は相変わらずほづみのことなどまったく気にせず、進行方向に、ほづみとは何か違うものを見ていた。
「ねぇほづみ」
「ん?」
「君も、自分の家族が普通だと思ってるだろ?」
「…………」
名嘉街のその質問に、ほづみは少しだけためらってから頷いた。
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