Dive in...
空はどこまでも青く澄み渡っていた。千切れて薄くなった雲が、その水色の空に所々浮かんで、澄んだ水色を霞ませている。
狼撫子は屋上の更に上、給水タンクの乗った、校舎から屋上へ上る階段の上にあるコンクリートで出来た正方形の上に寝そべっていた。着ている学生服は第二ボタンまで外れ、中のワイシャツがだらしなく裾からのぞいている。しかしそれでも最低限の着こなしを守っているのは、根が真面目なせいだろう。
その撫子の、黒く短い髪が、屋上を舐めるように吹いた寒風に持ち上げられた。そのままひっくり返って戻ってこなくなった前髪を、指でつまんで元通りの位置に戻す。腕は、また頭の後ろへと。組んだ足の先を守っているのは、頼り無いことに靴下一枚とスリッパだけだ。おまけに、浮いているため風が吹くとズボンの中にまで風が進入してきてかなり寒い。
やっぱり組むのはやめるか。そう思って、組んだ足を下ろす。天上から降ってくる温かい日光によって、先程よりかはマシになった。
頭の下で誰かが階段を上ってきている。足音が近づいてきて、足音の主が屋上の重たい扉を開けた。バタン、と閉まった音が頭の中に響く。
「なでしこ」
聞きなれた低い声。舌足らずな呼び方が、どうにも鬱陶しく感じる。
どんな反応をするのかも気になって、撫子はしばらく返事をしないことを実行した。
「…………」
「あれ、なでしこ?」
「…………」
「なでしこ、いないの?」
「…………」
「なでしこー、なでしこー」
「…………」
終いには、名前を連呼し始めた。とっとといないと諦めて、教室に帰ればいいのに。だが、彼にそういう設定をつけたのは他ならぬ撫子自身だ。それに、彼が来たということは、もう教室で授業はもう行われないということに他ならない。
諦めてもう帰ろうか。今日は、特にもう用事もない。
《機関》からの訪問者も、今日は来ないだろう。そう頻繁に来られても、撫子の手を離れた傀儡は、撫子の意思とは関係なく勝手に思考し勝手に動く。
そろそろこいつも煩いし、破棄しようかな……。
撫子は学生服の内ポケットから、小さく折りたたんだ白い長方形の紙を取り出した。それを広げ、複雑な紋様の中央に書かれている名前を日に透かしてぼんやりと眺める。これの本体は既に事故で死んでいるが、傀儡として今も撫子と傍にいた。だが、最近はやけに鬱陶しく感じる。
やはり、他人が傍にいるとダメだな……。
撫子は、基本他人が傍についていると、途端に何も出来なくなるタイプの人間だった。普段、一人でやる分には天才的な能力を発揮することの出来る撫子だが、他人が傍にいるというだけでもうダメだった。たとえその人物が自分を見ていないとしても、ダメなのだ。そのうちにこちらを向くんじゃないという恐怖心から、ありもしないのに人の目が気になって、それでも失敗しないよう上手くやろうとすればするほど上手くいかなくなる。体が無意識に反応してしまうのだ。
過去のトラウマにも似た修行の日々が、撫子をそう育てた。その修行を、これから先撫子が行うことは二度とないのが、唯一の救いとも言える。
他人と共に力は使えない。そういう意味で、《機関》には色々と我が儘を聞いてもらっていた。こうして一人で外にいられることもその一つ。学校に通っているのは、一種の体裁のためだ。
決めた。破棄しよ。
撫子はそう決めると、札を人差し指と中指の間にはさんで立ち上がった。それを顔の前で構えたまま、正方形の縁まで行く。大した高さのないそこから下を見ると、そんなに背も高くない黒髪で少し髪の長い少年が撫子を必死で呼んでいる姿が見えた。
「おい」
「あ、なでしこ」
威圧的な撫子の声を聞き、少年は呼ぶのをやめて、ぱぁ、と顔を輝かせて撫子の方を向いた。声が若干弾んでいる。それほど嬉しかったのだろうか。
撫子は正方形の縁に片足をかけ、少年を見下ろした。
「――――受け止めろよ」
「へ?」
唐突な撫子の言葉に、少年は首を傾げる。次の瞬間、撫子は何の予告もなしに少年に向かって飛び降りた。わたわたと、それでも撫子を受け止めようと両手を広げる少年に向かって、撫子は右足を突き出したまま一気に落下していく。高さもそんなにない正方形からの飛び降りだ。撫子が少年にぶつかるものもすぐだった。
「ゎぶっ……!」
「…………」
両手を広げていた少年の顔面へと右足を乗せ、もう一歩、空中へと踏み出す。その勢いを保ったままくるっと宙で一回転し――着地。それは見事なまでに、綺麗な着地の仕方だった。その間にも、右手に持った札の構えだけは崩さない。
撫子は立ち上がると、上半身をひねって、顔を押さえてうめく少年を振り返った。
「――
他を威圧する、低めの声が宣言した。屋上に吹いていた微かな風が、一斉に凪ぐ。顔を押さえていた少年は、一瞬だけ膨張し、次の瞬間には一枚の紙切れへと戻っていた。
これで、沢口優が既に死んでいることは明日にでも学校中が知ることとなるだろう。撫子にはあまり関係のない事実のため、関心はない。たかだか人が一人死んだくらいで動揺するほどの日常を、撫子は生きてはいないのだ。
それに、今では人が死なない日の方が珍しいだろう。
「…………そういえば、明日から春分か…………」
少年のいた位置に落ちた紙を拾い、ズボンのポケットに乱暴にねじ込むと、撫子は、遮るもののない青空をもう一度振り仰いだ。
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