蜜蜂のオバケ
hibana
蜜蜂のオバケ
幽霊と暮らしている。
厳密に言えば、幽霊と名乗る少年と暮らしている。越してきてから、ずっとだ。
彼は私が契約した部屋に、私より早く入居していた。荷解きをしていた私がふと振り返った時にはもう、段ボール箱の上で仰向けに寝そべりながら「やあ、こんにちは」などと挨拶を寄越していた。
彼はエイトと名乗った。その名の通りちょうど8歳の男の子のような姿かたちをしている。ハッキリと見えるし、触れる。鏡にも映る。なので私は彼のことを、ただ虚言癖のある悪戯少年だと信じて疑わなかった。
大家に連絡をしようと思ったが、「ぼくはお金もかからないし、いい子だよ」と自己申告を受けて放っておくことにした。普通ならありえないと思うが、私自身エンタメを求めすぎているきらいがあった。幽霊だと名乗る見知らぬ少年が同居しているぐらいでは、おいそれと出ていけない身の上でもあった。
元彼が暴力を振るう人で、それ以外は別に悪い人ではなかったので、まあいいかと思いながら過ごしていた。
だけどふと鏡を見た時、殴られた自分の顔があんまりブサイクだったので、信じられないほどだったので、逃げることにした。そうして段ボール箱をいくつか抱えて辿り着いたのがこの部屋だ。
エイトは私のことを“あけちゃん”と呼ぶ。段階も確認もない。私が『あけみ』と名乗った次の瞬間にはもう“あけちゃん”だった。
「子どものくせに。礼儀がない」と言うと、エイトは涼しい顔で「ぼくはこの姿の時に死んだわけじゃないけどね」と言ってのけた。
「それってつまり、あなたの中身はおじいちゃんかもしれないってこと?」
「さあ、どうだろう。少なくともこんなに小さい頃死んだんじゃないってことだけは確かだ」
私もこの少年のことを8歳にしてはあまりにも偏屈だと思っていたので、内心うなづいていた。彼が幽霊であるなんてことはにわかには信じ難いが、彼は本当は80歳のおじいちゃんなのだと言われればそれは納得できるような気がしたのである。
「じゃあどうしてそんなに小さくなったの?」
「どうしてだろう。もしかしたら、ぼくの未練は8歳の子どもの形をしていたのかもしれない」
エイトは、いつも冷静に落ち着き払って、私にはよくわからないことを言った。
私が左手首をカッターナイフで切ったのを見た時も、彼は慌てず騒がず「どうしてそんなことをするんだろう」と問いかけた。「生き物はみんな、苦痛を避けてしかるべきだ」と。私は赤くて丸い滴を見ながら、「そんなに痛くないんだよ。そのうち痛くなってくるけど、切った時はそんなに」と見当外れなことを言う。
「別に大したことはないんだけど、ずっと同じ日ばっかりでつまらないから」
「暇ってこと?」
「そう。暇で気が狂いそう。魂が抜けないように、正気を縛りつけておくために、緊張感を持たせてる」
「“魂が抜けないように”って、下手したら死んじゃうよ」
「それはそれで」
「それはそれで?」
エイトは眉をひそめて、「人生に緊張感なんてなくていいのに」と呟いた。包帯を巻きながら私は「生きるか死ぬかなんだよ。そう思えないと生きてる意味ってないもん」と話す。
「親御さんが心配するよ」と彼は言った。私はおもむろに立ち上がり、彼を押しのけて玄関へ向かう。
「病院に行くの?」
「行かない。黙って」
「怒ってる? 悲しんでる?」
怒っていたのだ、私は。無神経な8歳の子どもに怒っていたのだ。
ぶん殴ってやりたい、と口からこぼれる。「何を?」とエイトが尋ねた。『あんたを』と言おうと思って口を開いたのに、なぜか唇は思ったように動かなかった。
「今さら親みたいな顔して、私のこと心配してるなんてほざいたら、ぶん殴ってやりたい」
そう、吐き捨てていた。
「ぶん殴ってやれば?」とエイトが瞬きをする。私は荒い息を繰り返して、左手首に巻かれた包帯をちらりと見て、その場に崩れ落ちた。ドアノブに縋りながら、「無理」と呟く。「ママに殴られるのは私だもん」と首を横に振った。
一瞬の沈黙の後で、「君は彼氏にどれだけ殴られても頓着しなかったのに、お母さんから殴られるのだけが特別に痛かったのかい」とエイトが言う。私は近くにあったハイヒールを少年に投げつけ、「黙ってよ」と怒鳴った。
エイトは黙っていた。それから数分経って、泣いている私の前にグラスを差し出す。琥珀色の液体が入ったグラスだ。
「なに、これ」
「レモンスカッシュ。ハチミツたっぷり」
「なにこれ」
「レモンスカッシュだよ。ハチミツが入ってる」
そういうことじゃ、なくて。
「こんなの、どこから出てきたの?」
「実を言うとぼくは、蜜蜂のオバケなんだ」
あまりにも突然に荒唐無稽な単語が出てきて、私はしばらく放心する。「みつばちのおばけ……」と繰り返して、思わず笑った。「嘘ばっかり」と言って笑った。
肩を竦めたエイトが、「生きていた頃、ぼくは蜜蜂になりたかったんだ」と話す。
「どうして?」
「蜜蜂だけは偽善じゃないから。ぼくもそういうものになりたかった」
「何言ってるかわからない」
そういうものになれなかった、と彼は言う。「夢やぶれてただの人間のまま死んでしまった」と。『蜜蜂になりたい』というのは夢としてはかなりの難関だと思う。
私はレモンスカッシュを一口飲んだ。レモンピールが浮かんでいて、苦くて甘かった。
「おなかすいた」
「よしきた」
それから数十分後、テーブルの上に載ったのはパスタだった。
「アンチョビ風味のボンゴレビアンコでございます、お客様」と8歳の子どもの姿ですまして見せる。
「これはどこから出てきたの? あなた、もしかしてアサリのオバケ?」
「何を隠そう、ぼくがアサリのオバケだ」
私は大笑いしてしまって、なんで泣いていたのかも忘れてしまった。パスタはとても美味しかった。
それからエイトは時々私のために料理をしてくれたし、私が食事をするところを楽しそうに見るようになった。そうして二人でよく話をした。私の不思議な友人は、やはり8歳にしては博識で面白かった。
どこから漏れたのか、元彼がこの部屋を突き止めて押しかけてきたことがある。彼は元々気の弱い人であったので、私を一目見た瞬間泣き出して、『戻ってきてくれ』と縋った。こういう時の彼は、私を殴っていた時とは別人なのだ。
部屋の奥からエイトが顔を出して、「お客さんかな?」と尋ねてくる。元彼が目を見開いて、「何だよあの子ども」と指さした。
「あれ? あれは私の弟」
「そう。ぼくは彼女の弟」
元彼が硬直して、「弟なんていたっけ? あんな小さい」と聞いてくる。私は顎に手を当てて「新しい彼氏かも」と呟いた。
「あけちゃんが嫌がってるから、やめなよ、お兄さん」
「…………何なんだよ、このガキ。何が“やめなよ”だよ、馬鹿にしやがって。口の利き方がなってない」
「そっちだってタメ口のくせに対等に話しかけたからって“馬鹿にしやがって”なんて被害者面されてもね」
彼がエイトを殴った。私は呆気に取られてそれを見る。私以外を殴るなんて、ひどいと思った。なんだ、この人。自分より弱いものならなんだって殴るんじゃん。
俯いたエイトが「こんなに強く、その子のことも殴ったの?」 と私を指さした。それから一歩、男に近づく。男はエイトの襟を掴もうとしたが、空ぶった。空ぶったというか、それは────すり抜けたようにも見えた。もう一度彼が手を伸ばす。今度こそ間違いない。すり抜けた。
元彼が当惑しながら私を見る。私は思わず顔の前でぶんぶん手を振って「こっち見んな」と言ってしまった。
エイトが男の首に手を伸ばし、触れた。しかし男の手はエイトに届かない。
幽霊、と私は呟く。幽霊、だったんだ。本当に。いやまさか。本当に?
「君はぼくに勝てない。あけちゃんのことを殴ったその分までぼくが君の首を絞める」
そう言いながらもエイトは彼から手を離した。彼は狐につままれたような顔で、首をひねりながら帰って行った。
その次の日にも元彼はまた顔を見せたが、私の隣に8歳の少年の姿をした幽霊がいるのを確認し、やはり首をひねりながら帰った。そうして、二度と訪れることはなかった。
「痛かったでしょ」と私が言うと、エイトは不思議そうな顔をして「君は自分の手首をカッターナイフで切っておいて“それほど痛くない”と言い、そのくせ幽霊のことを心配している」と指摘した。
「幽霊でも8歳の男の子だもん。心配するよ」
「君は20歳の女の子だよ」
「12コ違う」
「本質はそうじゃない。君の方がよっぽど子どもだ」
私自身、薄々そうじゃないかと思っていたので、ムッとしたりはしなかった。なんせ相手は8歳児の姿をしているだけで、80歳のおじいちゃんかもしれないのだ。
「助けてくれたの?」と尋ねれば、エイトは「いいや」と首を横に振る。「だって君、助けてほしそうじゃなかった」と肩を竦められた。じゃあどうして、と問えば少年は「くふふ」と笑う。
「幽霊は、人をおどかすのが趣味なんだ」
随分と高尚な趣味をお持ちだ。私は頬杖をついて、「でも、人をおどかすの下手くそだよ。似合わないよ」とエイトを指さす。
「そうかなあ?」
「そうだよ。だって、可愛いもん」
エイトはしばらく鏡の前で、怖い顔の練習をしていた。
ここまで来てようやく私は、エイトという少年が人間ではないということを信じるようになっていた。もちろんその前から不可思議な点はたくさんあったが、彼が幽霊であることを信じるよりも、虚言癖の不思議な少年だと思う方がまだ現実味があったのだ。
『どうして死んでしまったのか』と聞いたことがある。彼は平然と、「どうして死んだのかなんて重要じゃない。ぼくは幸せだった」と答えた。
「蜜蜂になれなくても?」
「蜜蜂になれなくても、人間にしてはよくやったし、幸せな方だった」
それは何だか、私にとっては衝撃的だった。誰もが不幸自慢を盾にして生きていると信じて疑わなかったから、“ぼくは幸せだった”と言い切る強さを私は知らなかった。
手首に巻いていた包帯を取ると、殴られた自分の顔を鏡で見た時と同じような感覚が私を襲った。どうしてこんなに汚くしちゃったんだろう、私は綺麗な手首をちゃんと持っていたのに、という後悔だ。殴られた痕はほとんど治ったが、恐らくこの手首の傷は消えない。
エイトがまたレモンスカッシュを作ってくれた。ハチミツをたっぷり入れて。
春の終わりの夜だった。ベランダを開けたエイトが「おいで、あけちゃん。おいで」と呼ぶ。
私は中身が半分ほど残ったグラスをテーブルに置いて、エイトの隣に立った。彼は私の手を取って、ベランダの手すりの上に乗る。私も彼の助けを借りながら手すりの上に立った。
星を見る。足に感覚がなくなっていく。エイトが小さな体で、私を抱き上げた。ふわりと浮かんだ私たちはとても滑稽な姿だっただろう。
「君は空虚で空に浮かぶ」
「エイトは?」
「ぼくは蜜蜂のオバケだから飛ぶ」
「めちゃくちゃだ」
私の住んでいるアパートが、そのほかの建物が、小さくなっていった。私は少年の首に腕を回す。
「このまま死にたい」
「せっかくぼくが君に、プレゼントをあげようと思い立ったのに」
「そうだと思ったから死にたい。連れていって」
瞬きをしたエイトが、優しい声で「いいことをおしえてあげる」と言った。
「ぼくらはもう、どこで交わることもないんだよ。ここで死んだって、全部消えるだけだ。二度と会うことはない。君はぼくを知らない」
「教えてよ、あなたのこと、もっと」
「ぼくは蜜蜂だ。君はとっても素敵な花だった」
それを確かな拒絶と受け取って、私は少年の胸に耳を当てた。何も聞こえはしない。
わたし、と呟く。
「あなたのことが好きだと思う」
「それはぼくが、アンチョビ風味のボンゴレビアンコを作ってあげたからだろ」
「茶化さないでよ」
ぎゅっと彼の服を掴んだ。しわが残る。おかしいじゃないか。彼に私の痕跡が残って、きっと私にも彼の痕跡が残るのに。
「今まで、誰のことも好きになれなかった」
「勘違いだよ。君は今まで色んな人のことを好きになったけど、そのことに怯えていただけだ」
「どうしよう。どうしたらいいんだろう。わたし、あなたといる時の自分が好きだった。私史上最高に可愛かったもの」
「何だい、それ」
「笑わないでよ。私だって変なこと言ってるってわかってる。笑わないでってば。本気で言ってるの。死活問題なの」
私はエイトといる間、自分だってそれほど悪くないと思えた。生きることだってそれほど悪くないと思えた。
もう、これほど誰かを好きになれると思えないのだ。これほど自分を好きになれるとは思えないのだ。
あけちゃん、とエイトが口を開く。
「君はめんどくさい女の子だった」
「今さら?」
「痛々しい女の子だった」
「ひどい」
「めんどくさい君は可愛くなって、痛々しい君は、きっとかっこよくなるんだろう」
「エイトの言ってること、いつもよくわかんない」
エイトは目を細めて、私を見た。だから私は「なれるかな」と呟いてみる。「可愛い女の子に。かっこいい女の子に」と。なれるよ、とエイトは答えた。私もちょっと笑って、「蜜蜂ほどの難易度じゃないかもね」なんて息を吐く。
星が降っている。今日はこれを見せたかったのだと言う。「何流星群?」と聞いてみたが、エイトは少し考えて「星に名前をつけたり、星と星を繋ぎ合わせたり、そういうのは生きている人たちだけでやってくれ」と言った。
目が覚める。目の端についていた涙を拭い、体を起こした。誰もいない。テーブルの上の、半分残ったレモンスカッシュをぐいっと飲み干す。
立ち上がった私はボロボロのジーパンを穿く。鏡の前で、髪を結んだ。
蜜蜂のオバケ hibana @hibana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます