山々が生みだす影
4-1
ピーマンとベーコンの
蓋をする前に、もう一度ながめてみた。はじめて作ったにしては、まあまあの出来栄えだと思う。彩りもいい。俺はできあがったばかりの弁当に満足してうなずいた。
それにしてももっと時間がかかると思った。これなら次は今日ほど早起きしなくていい気がする。
ダイニングの壁時計に目を向けると七時ちょうどを指していた。いつも家を出るのが八時十五分だから一時間以上も余裕がある。
だけど焦りがない事もない。バタバタしがちな朝の時間を
このまま登校時間を待っていたら親父が起きてくる。顔を合わせればお互いに嫌な思いをするだろう。
母さんはとっくに出社しているから間に入ってくれる人がいない。そうなると登校時間まで部屋に籠っているしかないが対処方はある。
起きてくるより先に家を出たらいい。
親父は七時四十五分頃に出社する。朝は食べないって母さんが言っていたから起きてくるのは三十分前だろう。つまり十五分以内に家を出たら顔を合わせなくてすむ。
完璧な計画じゃないか。大急ぎで台所を片付けて弁当箱を巾着に入れる。ダッシュで部屋に駆け込みスウェットを脱ぎ捨てた。制服に袖を通して、ネクタイを結ぶ時間を惜しんでワンタッチネクタイをクリップでとめる。念のために買っておいたが、こんな形で役立つとは思わなかった。
鞄に弁当を押し込んだところでスマホを見る。
七時十分。リミットまで五分もある。そして親父の目覚まし音はまだ聞こえていない。しかし油断は禁物だ。スマホをブレザーにしまった俺は鞄を持って玄関へ急ぐ。
その時、行く手を阻むようにドアが開いた。そこは両親の部屋であり、現れたのは親父だった。親父は寝癖のついた髪をガリガリかく。
「早起きだな、誠悟」
「親父こそ」
目覚ましが鳴るより早く起きたのはどうしてだ。疑問を抱いたまま、平静を装い聞き返した。
「あんなにバタバタされたら起きるに決まっているだろ。何やっていた?」
俺が原因だったのか。一番気を使うべきところだろ、と自分にツッコミを入れたくなる。
「弁当を作ってた。じゃあ、行くから」
起こしてしまったものは仕方がない。だけどこれ以上言葉を交わさなければいいだけだ。親父を避けて玄関に向かう。だけど放っておいてくれなかった。
「大会は再来週だったよな。練習はできているか?」
「全然」
父親ならBMXの大会よりテストの結果を気にしろよ。そう言いたいのをこらえて、淡々と答える。だけど、心は勝手に漏れて出た。
「中間テスト期間だったのは知ってるだろ」
「部活じゃないから練習してもいいはずだろ。まわりを気にするなら俺の言う通りスポーツ科に入れば良かったんだ。次の大会も期末テストのあとだし、どうするつもりなんだ」
「BMXだけやっててどうするんだよ。下手の横好きで終わるかもしれないのに」
「誠悟なら大丈夫だ。オリンピックだって夢じゃない」
勝手な期待をされても困る。それが俺を苛立たせた。だから言わなくても言い事まで言ってしまう。
「自分は逃げたくせに、よく言えるよな」
母さんが教えてくれたけど、親父もBMX乗りだったらしい。俺と違ってレースの方で活躍してたとか。やめた理由は聞いていないが、俺を自分の代わりにされても迷惑だ。
そして言い過ぎたのは間違いない。これが親父ではなくパークの仲間だったら? BMXに乗るのをやめた仲間が、大会前に荒々しく気合を入れようとしてくれていたら? 絶対に言わない。だったら親父にだって言ったらだめだ。
だけど吐いた言葉ば戻らない。俺は負い目を感じ、親父には嫌な思いをさせた。それは真一文字にきつく結ばれた口を見ればわかる。
こうなるってわかっていたから顔を合わせたくなかった。そう思いながら玄関に向かい、靴を履く。
「いってきます」
その声はあまりにも小さかったから聞こえていないだろう。俺は返事を待たずに家を出た。
松木北高校の登録ステッカーが貼ってある自転車のカゴに鞄を投げ入れ、舌打ちする。イライラしているからといって物にあたるなんて最低だ。しかも中には弁当を入れてある。雑に扱ったせいで片寄ったかもしれない。
そんな気分を引きずりながらペダルを踏む。競技で使うBMXと違い通学用の自転車は重くて重心が高い。だからか軽快というには程遠く、単なる移動手段としか思えなかった。
せめて天気が良ければ気が紛れたかもしれない。だけど残念ながら辺りは深い霧で覆われていた。市街へ続く道に車は見えず、走る音だけで存在を教えてくれる。その音は移動しながら小さくなっていった。
雨が降った翌朝は霧が出る事が多い。ここまで深いのは数日降り続いたせいだろうけど、すぐに晴れるはず。
その頃には俺の心にかかったモヤも消えているはずだ。そうなってほしいと思いながら、学校へと続いている緩く長い坂を下っていく。
住居が立ち並ぶ丘陵地を抜けると田畑ばかりの平野部だ。そこを覆い隠す霧の中に大きなシルエットが見えてくる。俺が通う松木北高校なのはわかっているけど、平坦な田畑の中にあるせいか映画で見た幽霊船のようだった。
学校まであと少しのところでブレーキをかけて足を下ろす。振り返ると霧は晴れつつあり、丘陵地の新緑を朝日が照らしていた。
なんとなくスマホを取り出し、カメラモードにして来た道に向ける。だけど撮影ボタンは押さなった。俺の家がある丘陵地は明るかったけれど、その向こうにあるはずの帆高山脈は雲海に沈んでいる。朝焼けに染まる山々に元気をわけてもらいたかったが、それすらかなわないとは残念で仕方なかった。
再びペダルを
そうしているうちに一台のミニバンがハザードを
「おはよう、木島平君」
「おはようございます」
俺は頭を下げる。富士見はバックミラーをチラリと見て柔らかくほほ笑んだ。
「ガスがなければ良い写真が撮れたでしょうね」
「そうですね。でも見えるまで待っていたら遅刻してしまいます」
一限が始まるまで時間はたっぷりあるけれど、それまで粘る気になれずスマホをしまう。それが残念そうに見えたのか富士見は明るい声で教えてくれた。
「朝の帆高は素晴らしいですが、夕暮れ時も悪くないですよ。特に今の時期、田に水が張られて苗が植えられるまでの短い間だけ。屋上からのながめは言葉で表せきれません」
富士見は学校に顔を向けた。そこから見える景色を思い描いているのだろう。とても穏やかな横顔をしていた。
いったい何が見えるのだろう。日中の水田は鏡のようになり、帆高山脈をきれいに写してくれる。それは滅多に見られない景色だ。田んぼに水が張られてから苗が植えられるまでの時間は短く、しかも帆高が雲に覆われていてはいけない。そう考えると奇跡のようだ。
だけど夕暮れになると山々は太陽を背負う事になる。山の影に沈む田んぼは鏡の役目を果たせない。それはどんなにイメージを膨らませても絶景とは言えず、首を傾げたくなる。
そんな俺に富士見は言った。
「見てみれば納得できますよ。それでは」
富士見はミニバンをゆっくり発進させる。遠ざかって行くエンジン音に耳を傾けながら思った。俺にその景色は見れない、と。
松木北高校の建物は三列に並んでいる。帆高山脈側からスポーツ科校舎、事務棟、そして普通科校舎だ。事務棟や普通科校舎の屋上からでも山は見えるが水田は見えない。スポーツ科校舎が邪魔になるからだ。そして俺は普通科だからスポーツ科校舎に入れない。そんな規則はないがローカルルールとして存在していた。
それを承知で富士見は話したのだろうか。だとしたら意地悪でしかない。知らなければ存在しないのと同じだ。知ってしまえば手に入れたくなる。見たくなる。だけど手に入れる事はできない。それはとても悲しい事だ。
俺は肩をすくめ、再び自転車を漕ぎ始める。親父とのやり取りのせいでネガティブになっているから悪く考えてしまったに違いない。富士見は話の流れで教えてくれただけだ。
サドルから腰を浮かす。ペダルを強く踏む。スピードはぐんぐん上がり風を感じた。それだけで気分は晴れ、校門を通り抜ける。校舎裏の駐輪場に向かいながら見上げた。やはりスポーツ科校舎以外からは帆高山脈は見えそうにない。
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