3-4

 能面は他の生徒に目も向けず、息子に向かって怒鳴る。


「蹴人! 遅いと思えばこんな所で何をしてる!」

「父さん! どうしてここに」

「時間は有効に使えと言ったはずだ。それなのに、また絵にうつつを抜かしているのか。それも赤ネクタイに混じってとはな。スポーツ科特待生の誇りはどうした」


 普通科生徒がいる前でその言い草は良くない。大町が気を悪くしそうだ、と思った時に彼女は口を開いていた。その目はとても冷たい。


「普通科を見下したいのは自由ですけど他所でやってもらえますか。迷惑です」

「言い方が悪かった。申し訳ない。私が在籍していた頃は両科の関係がとても悪かったものでね。こうして母校にいると昔の気分に戻らされる。ただ、住み分けが必要だと言いたかった。無用の接触は争いの火種になりかねないのはわかるだろう」


 過去の経緯を話せば納得してもらえると考えたのかもしれないが、大町にしてみたら能面がOBだろうが関係ない。気に入らないのを隠そうともしていなかった。


「住み分け、という点だけは同意見です」 

「わかってもらえてなによりだ。蹴人、これ以上迷惑はかけられない。行くぞ」

「……わかった」


 上田は小さくため息ををつく。そして自分の画材から筆を取り、俺の手に置いた。


「あとをよろしく、先輩」


 よろしくってどういう意味だ?


 それを確かめる間もなく、能面は再び声を荒げる。


「時間を無駄にするなといつも言っているはずだ」

「挨拶しただけだよ」


 上田は父親へ歩み寄る。その足はとても重そうだ。


 誰もが去っていく後ろ姿を見送るしかできなかったが、そうさせてはいけない。


 上田に先輩と呼ばれたからだ。これは助けが必要だって事じゃないか。だけど何をすればいい? どうして筆を俺に渡した?


 大町と選んだという絵筆は大切に使っているらしく、汚れがほとんどない。上田はこれを使って描いていたのかと、キャンバスに目を向ける。


 もしかして俺に絵を託したのか? そう思った時、見聞きした情報が点となり脳裏に広がった。バラバラな点は線でつながり、複雑に絡み合い、色をはらんで絵となる。


 これが答えだ。今を逃せば大町の絵は永遠に失われる。


「待ってください。さっきから上田先輩の言い分も聞かずに言いたい放題ですね。少しは耳を傾けたらどうですか?」


 能面に向けた言葉だったが、先に反応したのはサッチだった。


「セーゴ! 何言ってるの!」


 サッチの目に浮かぶのは非難の色。初対面の大人に失礼だと言わんばかりだった。


「御代田先輩は黙っていてください。俺はこの人と話してるんです」


 そして、そのまま能面へ向けて言葉を続ける。


「もう一度言います。上田先輩の話を聞いてあげてください」


 能面は静かに近づいてくる。上田と親子だけあって背が高い。感情を読ませない目で見下ろしてくる。


「誰か知らんが家の問題に口を挟むな」

「だったら家の問題を学校に持ち込まないでくれますか。迷惑してるんですよ。あなたが絵を盗んだせいで」

「……何の話だ」


 能面は表情を変えない。だけど驚きが声に出ていた。俺は自分の考えが正しいと確信し、一気に畳みかける。


「だっておかしいでしょう。あなたがここに来た時、上田先輩は言いました。どうしてここに、って。それは居場所を伝えていなかったからです。でも、あなたは来た。どうしてここがわかったんですか?」

「息子が高校で何をしているのかぐらいは知っている。ここにいると想像するのは美術部顧問に確認するまでもなく簡単だ」

「そうですか。でも絵を選ぶのは難しかったみたいですね。間違いに気づいていないぐらいですし」


 大町の絵と画材を持ち去ったのは上田の父親だ。


 それはなぜか?


 上田は美術部に出入りする前から絵を描いていたと言った。でも画材は何も持っていない。絵筆すら買わなければならないほどだ。そして上田の父親は、息子が絵を描くのをやめさせたがっている。そうでなければ、絵にうつつを抜かすな、なんて言わない。


 もしかすると以前に持っていた画材は父親に棄てられたんじゃないか? 自分の画材を持っていない事とも、他の荷物は持って帰るのに画材もキャンバスも置いていく事とも辻褄が合う。


 そんな経緯が上田に絵を諦めさせたのだろう。サッカーに集中できている間はそれでよかった。しかし怪我をした事で絵に対する思いが再燃する。当然それを知った能面は面白くない。だから同じ事を繰り返そうとしたんだ。


 俺にはその時の様子が鮮明にイメージできる。


 教頭との話を終えた能面は美術部顧問から部室の鍵を受け取った。おそらく、息子の荷物を持ち帰るため、とでも言ったのだろう。そして午後の授業が行われている間、ひと気がなく静まり返った事務棟の一階を進む。美術室のクラスプレートを見つけて鍵を使い、室内に入った。


 そこで上田の父親は迷ったはずだ。ラックにはキャンバスが十枚ほどある。描きかけのものにサインはなく、息子の絵を特定できない。


 そこで画材に狙いを変える。ロッカーの前に立ち、開けたのは大町の扉だ。単純に消去法で選んだに違いない。上田のネームプレートがなければ、プレートそのものがない場所がそうだと考えるだろう。


 画材を回収していた時、能面の手が止まる。絵を特定できるものを見つけたからだ。


 それは写真で間違いない。上田は大町を真似て写真を見ながら描いていると言っていた。だから大町のロッカーには写真があったはず。


 能面は再びラックの前に立った。写真に近いキャンバスを見つけ、画材共々持ち去る。そして車に移動させたあと、鍵を返却した。


 おそらく、これが真実だ。だけど能面の往生際は悪い。


「何が言いたい」

「だから、あなたが持っていったのは上田先輩の物じゃないって言ってるんですよ。ここにいる大町先輩の物です。何なら美術部顧問に確認しますか? あなたに部室の鍵を貸したかって」


 俺は唇をなめる。緊張で喉がカラカラだった。追い詰めたといってもこれ以上は何もできない。しらを切られたらそれまでだ。強引に車を調べる力がない自分に歯がみしたくなった時、能面は静かに口を開く。声からも表情が消え、淡々と話していた。


「私は息子の絵を間違えたのか?」

「そうです」


 俺が認めると、上田の父親は姿勢を正し頭を下げた。


「私の早とちりで迷惑をかけてしまった。間違えて持ち出した物は返還する。本当に申し訳ない」


 上田の父親は完璧な謝罪の姿勢を取ったまま動かない。初対面の大人に頭を下げさせたままというのは想像以上に居心地が悪い。そんな空気に耐えかねた大町は気圧されていた。


「無事に戻してもらえたらそれでいいです。傷をつけたりしていませんよね」

「もちろんだ。詫びになるかわからないが活動費の援助という形で謝罪させてほしい」


 丸く収まりそうで拍子抜けしそうだ。大町でさえ活動費という言葉に揺れている。受け取っていいのか迷っているように見えた。


 そして上田の父親は息子に顔を向ける。


「蹴人、絵を返すのを手伝ってくれ」

「わかった」


 反射的に上田が動くが、続く言葉を聞いて足を止めた。


「お前の絵や道具を持ってくるんだ。入院中は荷物を持って帰らないとな」


 それは全く想定しておらず、ぞくりとする内容だった。自分の非を認めた上で上田から絵を取り上げようとしている。そうさせたのは、ここに上田の絵があると言ってしまった俺。社会の荒波で生きている大人のしたたかさを甘く見て、逆転の機会を与えてしまった。そして謝罪を成立させた以上、俺たちに口出しはできない。


 上田も父親の意図がわかっているみたいだった。それでも反論できずに顔をこわばらせている。そんな上田に能面は追い打ちをかけた。


「どうした。持ちきれないなら私が持ってやる。早くしなさい」

「それは……」


 上田はかすれた声を出す。だけど途切れた。絵を渡したくない。だけど逆らう事もできない。そんな板挟みに揺れている。


 これは上田の問題だから口を挟んではいけない。それはわかっていたが、どうしても言わずにはいられなかった。


「言いたい事があれば言えばいいんですよ! これから先も言いなりでいいんですか!」

「僕は――」


 能面は最後まで言わせずにさえぎる。息子の言葉に一番耳を傾けなければいけない父親がそれをやった。


「そんな一時の感情に振り回されてどうする。お前は私の言葉だけを聞いていればいい。今はわからないかもしれないが、十年後、二十年後に正しいと理解できる」

「どうしてそこまで上田先輩を縛ろうとするんですか。いくら親でも子供の意思を無視していいわけじゃないです」

「目先しか見えない子供を導くのは親の努めだ。お前は蹴人の人生に責任が取れるのか? お前のように口しか出さないやつが一番質が悪い!」


 責任なんて取れない。全部、俺の独りよがりな思いだ。それがわかっているだけに何も言えない。


 だけど上田は動いた。


「父さん、ちゃんと言ってなかったけど僕は絵を描くのが好きだ。それを聞いてもやめさせたい?」

「当たり前だ。お前にはサッカーの才能がある。私になかったものを持っているんだ。努力次第では世界で戦う事もできると信じている。絵なんかで浪費させるわけにはいかない。蹴人、お前は私の希望だ」

「それは父さんがなりたかったからだよね。押し付けられても困る」


 父親にとって、その言葉は一番聞きたくなかっただろう。表情は変わらないが、声に苦痛がにじみ出る。


「お前は……サッカーより絵を選ぶのか? 誰からも認められないかもしれないんだぞ」

「それはサッカーだって同じだよ」


 上田を父親を否定する。だけど突き放すものではなかった。


「別にサッカーが嫌いってわけじゃないんだ。父さんの期待に応えなきゃってずっと思ってたし、それが重いとも感じていた。だけど今は違う。怪我がちゃんと治るのか不安だけど、これからも続けていくし自分がどこまで行けるのか挑戦したい。ただ絵もやりたいとも思う」


 何となくわかった気がする。写真の上田から伝わってきたのはゴールに対する執念だとばかり思っていたが、心の一番深いところに隠れているのは父親からの重圧だ。目の前の上田と別人のように感じたのが納得できる。


 ずっと抱えてきた思いを出し切った上田はすっきりした顔で尋ねた。


「僕の話はこれで全部だよ。今度は父さんの答えを聞かせて」


 上田の父親が口を閉ざしたまま長い時間がすぎた。やがて静まり返った空気を落ち着いた声で払う。その顔からは能面がはがれ、温かい目で息子を見ていた。


「お前の人生だ。好きにすればいい。ただし中途半端はゆるさん」

「わかってる。手を抜いてないか見張っててくれるよね」

「当たり前だ。それが親の努めだからな」


 それを聞いて上田は笑う。とても良い笑顔だった。

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