3-3
美術部と書かれた教室プレートの下で、大町はブレザーのポケットに手をつっ込む。そこから取り出した鍵を使い扉を開けた。
誰もいない美術部室には絵の具の臭いが残っている。勝手なイメージだけど、いたるところに書きかけの絵がイーゼルに乗せっぱなしになっている乱雑な場所だと思っていた。実際は放置されたキャンバスなんか一枚もない。想像通りなのは資料らしき本が詰め込まれた棚があるぐらいだ。
広く感じるのはかつて教室だった部屋なのに机や椅子の数が少ないせいだろう。
「大町先輩、他の部員はいないんですか?」
「こんな事があったから今日は休部にしたのよ。盗まれた絵の話はしてないわ。部員同士で疑わせたくないから」
何気ない言葉の中に上田への拒絶が含まれている。部員として認めないと言っているようなものだ。だいたい上田への疑いだってスポーツ科ってだけなんだろう。証拠があるならつきつけているはずだ。
そんな確執に口をだしたところで聞きとげられるはずもなく、部屋を見回す。窓の外が明るいだけに室内は暗くてひんやりしていた。得られる情報がないか目を走らせていると、サッチが厳しい言葉を投げかけてくる。
「それで、どうするつもり? 大口を叩いておいてわかりませんじゃすまないからね」
そんなに急かされても困る。いきなりそんな事を言うぐらいだから、確かめるまでもなく苛立っていた。
あえてサッチを見ないようにして大町に尋ねる。
「大町先輩、とりあえず確認させてください。なくなったのに気づいたのはいつですか?」
「放課後になってから。ついさっきよ。部室に来たらなくなっていたわ」
「じゃあ、最後に絵を見たのは?」
「昨日の放課後だけど」
時間の幅が広すぎて困る。ありがたい事に上田が補足してくれた。
「昨日、最後まで部室にいたのは僕と大町さん。鍵を閉めたのは大町さんで、職員室へは一緒に行って鍵を返した。閉門ギリギリだったから顧問の先生に叱られたよ」
「上田がモタモタしていたから遅くなったのよ」
「ギリギリまで描いていたのは大町さんだけどね」
二人とも自分は悪くないと言いたそうだ。どちらの味方をしても角が立ちそうだから質問を続ける。
「鍵をかけそびれたりしてませんか? あと窓も」
部室は一階だし、もとが教室だけあって廊下の反対側は窓ばかりだ。開いてさえいればいくらでも出入りできる。だけど大町が否定した。
「ありえないわ。一年の時に閉め忘れがあってすごく怒られたのよ。鍵を返す時も、ちゃんと閉まっているいるのを確認したかって言われるわ」
大町はぼやき、上田はなるほどと手を打った。
「そんな事があったんだ。どおりで毎回聞かれるわけだね」
「言っておくけど、閉め忘れたのは私じゃないからね」
なんというか、見慣れてくると二人のやり取りが漫才みたいに思えてきた。大町の口が悪いのは元々で、そこまで上田を嫌っていない気がしてくる。
それよりも、これはまずい。嫌な予感が外れている事を期待して確認する。
「大町先輩、今日、部室に来た人ってわかりますか? 朝とか昼休みとかに」
「いるわけないでしょ。鍵を貸してもらえないわ。部活は放課後まで禁止。運動系部活は別みたいだけどね」
大町から差別だと言わんばかりの鋭い視線を向けられた上田は肩をすくめる。
「プロになるにしても進学するにしても結果を出さないといけないから大目にみてほしいな。鍵といえば運動系部活はコーチが管理してる事が多いね。練習場や部室は学校の外にあるから」
運動系と文化系で管理が違うんだなと思いつつ、嫌な予感が的中した事で状況の悪さが浮き彫りになった。それはサッチにもわかったようで深刻そうにつぶやく。
「それって……密室ってこと? どうしようもないじゃない」
だけど俺は首を振る。根拠はないが認めるわけにはいかなかった。
「密室なんてありえません。持ち去られたんだからどこかに抜け道があるはず」
「どこに?」
「わかりません」
「セーゴ!」
そう呼ばれたのは久しぶりだったから驚いた。それは勢いで言ってしまったサッチも同じでだったようで、せき払いしてなかった事にしようとする。
「わからなかったらお手上げじゃない」
「行き詰ったならアプローチを変えればいいだけです。大町先輩、絵はどこにあったんですか?」
「あのラックよ。上の段の一番左」
大町が指差したのはホームセンターで売っているスチールラックで上段と下段に分かれている。それぞれの棚は縦長に仕切られていて、キャンバスが一枚ずつ立てかけてある。大町の絵があった場所を含めてところどころ空いていた。今は十枚ほど収められている。
「ここに上田先輩の絵もあるんですか?」
そう尋ねたのはどの絵が誰のものか俺にはわからないからだ。どれが自分の絵か知っている上田は下段の中央辺りにあるキャンバスを指差す。
「これだよ」
描かれているのは松木市から見える帆高山脈だ。真っ白い冬の稜線と鮮やかな青空のコントラストが爽やかな印象を与えてくれる。そのキャンバスの隣には画材が置かれていて、一緒に写真もあった。見本としているのがわかったから見比べていると、上田は苦笑いする。
「大町さんのやり方を真似て写真見ながら描いてるけど、うまくいかなくてね」
「俺は好きですよ」
確かに写真と比べると海も空も単調に見えるが、温かくて優しい絵だと思う。俺にはとても描けるはずがなく、サッカーと同じように時間と情熱を注いできたから表現できているのだろう。それは道具を見ればわかる。パレットや水入れにこびりついた絵の具が層になっていた。その中で絵筆は一本残らず新しく、不釣り合いに見える。
「筆は買い替えたばかりですか? 他の画材と比べると新しいですね」
「僕は何も持っていないから美術部に置いてあるのを使わせてもらってるんだ。筆は使い物にならないから買ったけどね。大町さんが選んでくれただけあって良い感じだよ」
何気ない話に違和感を覚えたのは俺だけではない。サッチもだった。
「仲良いじゃない」
「部長だから仕方なくよ!」
大町は上田をにらみつける。余計な事を言うなと目が言っていた。
こんな事がなければ関係が悪くならなかっただろうに。二人に同情しつつ、ラックに並ぶキャンバスへ目を向ける。そして気づいた。ラックにある画材は上田の物しかない。他には見当たらなかった。
「上田先輩、他の人は画材をどうしているんですか?」
「みんなはこっちのロッカーを使ってる。全員分がないから一年生はここに置く決まりなんだ」
上田は二年生だけど、美術部に来だしたのは怪我のあとだ。歴からすると一年生と同じ扱いなのだろう。
そしてラックの隣には古いロッカーがあった。それぞれの扉にはネームタグが付いていて、あるべきはずの名前が見つけられない。
「大町先輩の名前がないのはどうしてですか?」
「私のところは壊れてるのよ。ほら、タグを挟むところが無くて穴になってるでしょ。困らないからそのままにしてるわ」
「そうなんですね。中を見ていいですか?」
「いいわよ」
会釈だけしてスチールの扉に指をかける。だけど開けずに振り返った。
それが挙動不審に見えたのかサッチの眉が寄る。
「女子のロッカーを開けるのが恥ずかしいの?」
「そんなんじゃないです」
「じゃあ、さっさと開けなさいよ」
なんでバレたんだ、と思ったが気後れするのは仕方がない。
渋る俺を見てサッチはため息を吐き、俺を押しのけた。ところどころ塗装がくすんでいる古い扉だけにギィという渋い音を立てる。手がかりを期待したが何もなかった。本当に、何も。画材どころか筆の一本もない。
説明を求めようと振り返る俺を大町が押しのける。
「……うそでしょ。こっちも盗られてる」
大町は今までになく動揺していた。本来は画材があるはずなのに空っぽになっている。
「大町先輩、落ち着いて。絵がなくなったと気付いた時にはあったんですか?」
「……わからない。あの時は絵が消えた事でいっぱいいっぱいだったから。ロッカーまで見る余裕なんてあるわけがないじゃない」
そうなると一度に両方とも持ち去られたと考えるのが自然だ。そこからわかるのは実行したのが美術部と関わり深い人間だという事。
絵も画材も大町の物だけど、部外者にはそれが彼女の物だと確かめる術がない。ロッカーにはネームタグがなく、描きかけの絵にはサインがないからだ。無作為だとしても、たまたま大町の物だけ盗られる可能性は低すぎる。
大町をターゲットにできるのはどちらも知っている美術部員ぐらいだ。それはここにいる上田と、休部になって来ていない他の部員だけ。
上田は落ち着いて見えるが、試合の写真と同じ、気迫のこもった目をしている。それは怒りに見えた。とても演技しているように見えない。他の部員については何も聞かされていないから保留するとして、大町はどうだ? 狂言の可能性はないか?
その考えを首を振って打ち消す。狂言とは誰かをおとしいれるためにするからだ。上田に
部員から絞るのが難しいなら、盗まれた時間から考えてみる事にした。
事務棟自体に入れなくなる昨日の閉門後はないとして、今日の授業中も考えづらかった。そんな時間にうろついてる生徒がいたら教師が放置するはずがない。それもキャンバスと画材を持っていたら言い逃れしようがないだろう。盗みを働く人間はそんなリスクを冒すはずがない。授業前と昼休みにしても事務棟は人の目がありすぎだ。
そこまで考えて大町が上田を疑いたくなる気持ちが理解できた。スポーツ科の授業は六限で終わりだから、七限まで拘束されている普通科より先に行動できる。そして他のスポーツ科生徒に見つかる心配もない。彼らは帰宅するにしても部活に行くにしても事務棟に入る用がないからだ。上田が言っていたように、運動系の部室の鍵は職員室に取りに行かなくていい。
つまり上田なら怪しまれずに盗みを働ける。だけど動機はなんだ? 怪我で練習に参加できない期間は苦痛でしかない。俺がそうだったから痛いほどわかる。絵に没頭している間は救いだったはずだ。それなのに手ほどきしてくれる大町の絵を盗むとは思えない。
答えはあるはずなのに闇の中に隠されている。俺の手に余ると諦めかけた時に上田が口を開いた。
「悪いけどあまり時間がない。車で待っている父が
考え込んでいる間に上田はスマホを手にしていた。表示されている内容までは見えないけど、受信したメッセージがポップアップされていた。きっと、あの能面みたいな父親からだろう。それはすぐに消え、上田自身が写る壁紙に切り替わり、そしてスリープ状態に入った。
大町の絵どころか画材までも消え失せているのが発覚した途端に立ち去ろうとしているのは、あまりにもタイミングが良すぎた。だけど上田は苦虫をかんだような顔をしている。昼休みに見た感じだと父親に逆らいづらいんだろう。それよりも父親が学校に来ているのが不思議だった。
「何か用があって来ているんですか?」
「一応、全額じゃないけど学費免除されているからね。怪我で大会に出られないから免除額の見直しするって呼び出し」
「それで、あんなに機嫌が悪かったんですね」
「話は学費についてだけじゃなくて、私物を持って帰れって言われた。しばらく学校に来れないから当たり前の事だけど、おかげで大荷物だよ」
上田は肩から下げているスポーツバッグを揺する。大きいバッグだからぎっしり詰め込まれているようには見えない。だけど重そうだ。それよりも学校に来れないというのはどういう事だろうか? その理由はひとつしか思いつかない。
「もしかして入院ですか? 骨を固定する金具を取り除くために」
「さすが経験者だね。明日から病院に入るんだ。次に来る時は梅雨に入っているだろうね」
金属を取り除くためには肉を切り開かなければならない。そこまで長い入院にはならないけどリハビリは大変だ。痛みや違和感はなかなか消えないし、また折れないかという不安も付きまとう。それは真っ暗なトンネルを手探りで進むような道だ。一度通ったから断言できる。二度とごめんだ。
苦しい未来が待ち構えているのに上田に不安はない。少なくとも俺にはそう見える。だけど言わずにはいられなかった。
「がんばってください。リハビリの先生にも言われると思いますけど、焦ったら駄目です。必ず元通りになりますから」
「同じ怪我を乗り越えた木島平に言ってもらえると心強いよ」
そして上田は大町に向きなおる。まだショックから抜け出せていない彼女に深く頭を下げた。
「迷惑かけて悪かったと思ってる。だけど、ここでキャンバスに向かっていた時間は本当に楽しかった。証明にならないのはわかるけど、それだけは知っておいてほしい」
上田の本心が強く伝わってくる。だけど大町の表情も態度も冷ややかなままだ。
「だから何?」
「……何も。関係ない話だったね。忘れてほしい」
「そういう意味じゃないわ。楽しんでいる事ぐらい言われなくても知っている。そのぐらい分かってよ」
大町の言葉は厳しい。だけど上田には温かく伝わったようだ。表情が和らぐ。
「そう言ってもらえてうれしい。退院したあとに気後れなく顔を出せそうだ」
「今日で最後みたいな言い方をしないでよ。紛らわしい」
「来るよ。今までみたいにひんぱんには来れないけど、必ず。最後まで描ききらないとね」
上田は名残惜しそうに自分のキャンバスの縁に触れる。そしてサッチに顔を向けた。
「色々とごめん」
「あたしは風紀委員の仕事をしてるだけだから」
「そう言ってもらえると助かる。あと、普通科だからって大町さんを毛嫌いしないでほしい。話せば仲良くなれるよ」
それを言われたサッチが目を向けたのは大町だった。二人の視線が交差し、火花が散っているように見える。そして二人同時に口を開いた。
「嫌」
あまりにも息がぴったりで上田が吹き出す。
「急には無理そうだね。それから木島平、巻き込んでわるかった。結局、話ができなかったよ」
「いえ。俺に聞きたかったのは怪我の事ですよね」
「同じ怪我をしてきた君が、どんな風に向き合って乗り越えてきたのか教えてもらいたかった。でもやめておく。答えは見せてもらえたしね」
「何をですか?」
何を見たのかわからずにいると、上田はおかしそうに笑う。
「君は僕たちと初対面なのに力を貸してくれている。それは余力がないとできない。自分の事で手いっぱいな人にできると思うかい?」
首をつっこんだのは風紀委員会のやり方が気に入らなかっただけ、とはサッチを前にして言えなかった。誤解だとしても気持の整理ができたならそれでいい。
「そうですね」
「そういうわけだから、怪我には自分で向き合うよ」
「わかりました。もし不安になったら言ってください。アドバイスします。これに関しては俺が先輩なんで」
上田は肩を震わせて笑った。
「ついでに困った時も助けてもらおうかな、先輩」
「任せて下さい」
勢いで安請け合いしたが、上田なら俺を頼らないでも大丈夫だろう。またサッカーでも活躍してくれるはずだ。
先の事を考えると同時に、目の前の問題が解決できなかったのが残念に思う。
自分の力不足を思い知らされていると、部室の扉が勢いよく開けられた。そこにいたのは能面のような顔をした上田の父親だった。
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