3-2

 七限の終わりを知らせるチャイムが鳴り、俺は席を立って手早く帰り支度をする。


 鞄を持って振り返ると、木曽は窓の外に目を向けていた。


 視線の先にはサッカーコートがあり、すでに練習が始まっている。ここからだと誰が誰だかわからないが、あの中に上田もいるのだろう。それとも、すでに待っているだろうか。


「木曽はどうする?」

「先輩との話? やめとくよ。俺が行くと邪魔になるだろうし。また明日な」


 木曽はひらひらと手を振る。だけど本心はついてきたいのだろう。じっと俺を見ていた。


「来たいなら来れば?」

「そうじゃなくてさ。いや、行きたいとは思うけど」

「なんだよ。歯切れ悪いな」

「セーゴなら話があるって言われても断ると思ったんだよ。並んでる時間潰しと違って、放課後にわざわざさ。いつもなら、さっさと帰ってBMXやりに行くだろ」


 うん、とうなずいて空に目を向ける。ゴールデンウィーク目前にしては日差しが強い。だからといって練習を遅らせたくなるほど暑くはなかった。それなのに俺は上田と会おうとしている。なぜ?


 少し考えてから口を開く。


「俺と似てると思ったから、かな」


 その答えは木曽にとって想定外だったらしい。首を傾げていた。


「似てないだろ。全然違うって。頭ひとつ分くらい」

「先輩がでかすぎるんだよ。そうじゃなくて……境遇的な話。俺、BMXやりたくて始めたんじゃないんだよ。気がついたら親にやらされてた」

「あー。先輩もそれっぽいよな。名前が名前だし。もしかしてBMX嫌いなのか?」

「まさか。やりたくなかったらとっくに辞めてるよ」


 BMXは怖いし痛いし苦しい事ばっかりだ。特に真夏の日中は地獄といってもいい。


 だけど飛んだ時の浮遊感や成し遂げた達成感は何物にもかえがたいほど大きかった。それを思うだけで体に翼が生えている感覚になる。


 きっとニヤついていたのだろう。木曽は吹き出した。


「だったら先輩も一緒だって。難しく考えすぎなんだよ」

「そうかな」

「そうだって。セーゴと似てるんだろ? 先輩はチビじゃないけどな」

「チビって言うな」


 木曽はまた俺の身長をネタにして笑いだしたが、気持ちは軽くなった気がした。


「じゃあ、行ってくる」

「おう。手に余るようなら電話くれよ。駆けつけるからさ」

「余計にややこしくなるから呼ばない」


 そして俺は軽く手を上げて教室を後にし、約束の場所に向かう。


 放課後という事もあり、パン屋のワゴン車はとっくに帰っていて、生徒は徒歩だったり自転車だったり各々の手段で帰宅していた。俺はその流れから外れて事務棟に向かう。その入り口に上田の姿を見つけたからだ。


 話を聞きに来ただけなのに、トラブルの気配を感じて歩みが止まりそうになる。上田は練習を抜け出してくると思っていたが、ブレザーのままで大きなスポーツバッグを肩から下げていた。しかも女子生徒に詰め寄られている。しかも好意的ではないのが離れていてもわかった。もしかしてと思ったとおり彼女は赤いネクタイをしている。普通科の生徒だった。


 状況はわからないが、上田が困惑しているのは見て取れる。


大町おおまちさん、ちゃんとわかるように説明してくれないか?」

「私の絵を返してって言ってるだけだけなのに、そんな事もわからないの?」


 大町と呼ばれた彼女は淡々と話しているが、その目はナイフのように鋭くて冷たい。ただ事じゃない雰囲気だから上田に加勢した。


「先輩、どうしたんですか?」


 なるべく温和に話しかけたのに火に油を注ぐ結果になった。大町のターゲットが上田から俺に変わる。


「部外者は黙ってて」


 まるでナイフを突きつけられている気分になり回れ右したくなった。首を突っ込んでおきながら、上田に目で助けを求める。


「いや、僕にも何が何だかさっぱりで」


 さすがサッカー選手だけあってアイコンタクトに気づいてくれた。だけど現状の把握も沈静化もできない。そうなると自分から動くしかなかった。


「先輩もそう言ってますし、何があったのか教えてもらえませんか? 第三者を交えた方が丸く収まるかもしれないですよ」


 ここまで言って追い払われたら諦めようと思ったが、大町は上田に向けて指をつきつける。


「上田に盗まれた絵を取り返したいだけ。だから邪魔しないで」


 絵を盗むなんて映画の中だけだと思っていたが、こんな身近で起こるとは驚きだ。


 当の上田は犯人扱いされて困惑しているものの、補足してくれる。


「大町さんは普通科二年で美術部の部長で、彼女の絵が盗まれたらしい。でも盗難なんて信じられない。誰かが移動させたとか考えられないかな」

「あくまでも白を切るつもり?」


 その説明を聞いても、なるほど、とはとても言えず謎は深まった。まず、上田と美術部の接点がまったく見えない。とりあえず大町が上田につかみかかりそうな勢いだったので間に体を割り込ませた。


「どうして上田先輩が盗んだっていうんですか?」

「他にいないからよ。せっかく色々教えてあげたのに恩を仇で返すなんて信じられない。こんな事なら入部に反対すればよかった。教頭先生に頼まれても断ればよかった。絵を描くのが好きって言っていたのもうそなんでしょ。まんまと騙されたわ」

「先輩が美術部で絵を? サッカー部の中心メンバーがどうして?」


 大町の話はまったく予想できないものだったから、思わず矢継ぎ早に尋ねてしまった。練習の合間に絵を描いていたのだろうか。それよりもスポーツ科なのに文化系の部活をしている人がいるとは思わなかった。


 驚く俺に上田は無理もないと肩をすくめる。


「実は少し前から練習に参加していないんだ」

「どうしてですか?」


 本当はサッカーをやりたくなかったのではないか。その予想が当たってしまったのかと思った。だけど上田の答えは違う。


「怪我をしてね。木島平と同じところさ」


 同じ、と言われて無意識の内に自分のももに触れる。ズボンの下に隠れていても指先に伝わる感触が傷の大きさを雄弁に語る。筋力は戻りBMXが問題なくやれているけど、手術の傷跡はしっかり残っていた。


「大腿骨を折ったんですか」


 上田はうなずいて左足の腿をポンと叩いた。練習に参加していないが普通に歩けている。金属で骨を固定しているんだ。それは俺が通ってきた道だから、つらさがよくわかる。それにしては気楽そうに見えた。


「そうなんだ。怪我していなければ、また筆を持とうとは考えなかっただろうね。試合どころか練習すらできなくて焦っていたけど、絵のおかげで穏やかになれた。相談に乗ってくれた教頭先生にはいくら感謝しても足りないよ」


 それで大町が教頭に頼まれたと言っていたのか。教頭は全生徒と言葉を交わすと言っていたが、やっている事はそれ以上だ。


 もう少し教頭の話を聞きたい。そう思った時、大町が怒りを爆発させた。


「いつまで関係のない話を続ける気? とにかく私の絵を返して」

「だから知らないし盗む理由がない」

「どうだか」


 さすがに上田も冷静さを保てなくなってきたのか声色が変る。そして二人は盗った、盗っていない、と繰り返し始めた。大町に引っ張られたのか上田まで声を荒らげだす。それは下校する生徒から好奇の目を向けられていても収まらなかった。


 これは良くない。真実がどうあれ場所が悪い。事務棟前は人通りが多くて目立つ。しかもすぐ上には職員室もあった。教師に介入されると面倒になるのは間違いない。


 何とか冷静な話し合いに誘導できないか頭を働かせるが、すでに遅かった。


「こんなところで何をしてるの!」


 俺たちを咎める声は事務棟のエントランスから聞こえ、顔を向けるまでもなく事態が悪化する予兆だとわかる。それは上田たちにとっても、俺にとってもだった。


 この声は聞き覚えがありすぎて間違えようがない。サッチだ。そして一緒にいる生徒にも見覚えがある。確か、高遠と呼ばれていたはず。


 風紀委員が二人も現れた事で場が治まるかと思ったが、むしろ逆効果になった。大町はあからさまに嫌そうな顔をする。


「風紀委員に用はないわよ」

「だったら仕事を増やさないで。トラブルの原因は何?」


 売り言葉に買い言葉でサッチの口調も強い。うんざりしているのを隠そうともしていなかった。大町は大町で答えるつもりはないらしく、二人はにらみあう。


 そんな様子にうんざりしたのか、高遠が高々と宣言した。


「もういい。全員まとめて風紀委員会室に来い。話はそこで聞く」

「いやよ! どうせ上田の言い分だけ聞いて、私が何を言っても握りつぶすんでしょ。青ネクタイがやりそうなことね」


 そのやり取りを聞いてため息を吐きたくなった。普通科の生徒にとってスポーツ科生徒だけで構成されている風紀委員会は味方ではないらしい。


 そんな大町に対して高遠は鼻で笑う。挑発しているのは間違いない。


「逆らうのは都合が悪いからだろ。風紀委員会の指示に従えないなら教頭先生に報告しないとな。俺はそれでもいいぞ」

「思い通りにならないから教頭先生に泣きつくの? まるで子供ね」


 確かに教頭は後ろ盾になると言ってはいたが、これではあまりにも横暴だ。何が原因なのか知らないが、大町の味方をしたくなってきた。それにサッチが高遠の側なのが腹立たしい。


 だから俺は踏み込む。


「いいじゃないですか。風紀委員会なら絵を取り戻してくれますよ」

「どっちの味方なのよ。青ネクタイがまともに話を聞くわけないでしょ」


 この学校から出てしまえば意味も価値もないネクタイに固執するなんて馬鹿馬鹿しい。そう言いたいのをこらえて慎重に言葉を選ぶ。


「普通科とかスポーツ科とかは関係ありません。問題はなんですか。絵を取り戻す事ですよね。それには怒りに振り回されてたら駄目です」

「この男だって感情任せじゃない」

「そうですね。だから俺が間に立ちます。そして行くべき場所は風紀委員会室じゃない。絵がなくなった場所です」


 言いきったあと、横目でサッチの表情を盗み見る。俺が割り込んできた事に困惑していた。


 そして高遠を怒らせたのは間違いない。


「部外者が口を出すな!」

「意味がないのに風紀委員室へ連れていこうとしているからですよ。二人の意見が平行線なのに話し合いで解決できると思っているんですか? 断言します。無理ですね」

「お前にならできるって言うつもりかよ」


 高遠ににらまれても、目をそらさずに答えた。


「できます。大町先輩、絵があった場所はどこですか?」

「部室よ。いいわ。私は君の話に乗る」

「じゃあ続きは美術部室で。上田先輩もそれでいいですか?」

「風紀委員会室に行くよりフェアだし、構わないよ」


 二人の同意は得た。だけど納得していない高遠が口を挟む。


「待て! そんな事は許可しない! だいたい、お前は何なんだ!」

「ただの普通科の生徒です。望み通り、ここでの揉め事は収まりましたよ」

「それは俺たちの仕事だ!」


 怒りでつかみかかってきそうな高遠だったが、サッチに阻まれる。


「高遠、落ち着きなさい。木島平、トラブルを解決できると言ったけど、自信はあるの?」


 状況すらよくわからないのに自信なんてあるはずがない。だけど口を挟んだ以上、うなずくしかなかった。


「あります」


 サッチはしばらく考えたあと、俺たちを見回す。その視線は上田から始まり、大町と高遠を通って、俺で止まる。


「わかった。そのかわり、あたしが見届けさせてもらう」


 それが想定外だったのか高遠は声を荒げる。


「おい! 勝手に決めるな!」

「解決できるなら風紀委員会が動く必要はないと思わない? 人手は足りていないし、高遠は巡回を続けて」

「俺に命令するな!」

「嫌ならついてくる?」


 高遠もついてきそうだと思ったが、案外あっさり引き下がった。


「なんで俺が赤ネクタイだらけの部室に行かないといけないんだ。御代田、あとで報告しろ」

「わかった」


 そしてサッチは大町に向き直る。


「お待たせ。美術部に案内して」

「上から目線やめてほしいんだけど」


 そう言いつつも大町は先頭切り、俺たちはあとに続いた。


 大町と上田、二人の背中を追いながら思う。普通科とスポーツ科の生徒が同じ部で活動しているという事が、松木北高校にとってどれほど特殊な事なんだろうか。そんな状況で起こったトラブルは一筋縄ではいかない気がした。


 身震いしそうになるのは緊張のせいだろうか。それともひんやりした空気で停滞する事務棟のせいだろうか。


 そんな気分でいる事などお構いなしに、ブラスバンド部の軽快な演奏が聞こえていた。

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