誰もが誰かに守られているって話

hibana

誰もが誰かに守られているって話

 最初は、嗅覚だった。味覚はその大きな部分を嗅覚に頼っているとは聞いたことがあるけれど、確かに彼はあまり『美味しい』と言わなくなった。


 嗅覚の次に視力が。視力の次に聴力。その次には声帯が。最後に触覚がなくなるのだという。

 彼は悪魔と契約をしたのだと話した。悪魔だって対価は払うものを、彼がそれらを犠牲にして何を得ようとしているのか私は知らない。彼に尋ねても教えてはくれなかった。

 私は彼を病院に連れていこうとしたけれど、彼は頑として首を縦に振らなかった。彼の言い分としてはこうだ。

『病院に行って治るものじゃない』『もし万が一治ってしまったら困る』

 というものである。私は何を言っているのかわからず、結局はいつもの冗談だろうと思ってそのことについて話すのをやめた。

 ある日彼は、目の辺りを両手で押さえてうずくまっていた。




 いつだったか、私は自販機の前で途方に暮れていたことがある。小銭の持ち合わせがなかった、というだけなのだけど。

 その時の私は何か世界からつまはじきにされているような気持ちでいたから、それだけでもひどく落ち込んだ。

 そんなときに通りがかった男性が、「何を飲みたいの」と声をかけてくれたのだ。私は恐る恐る五千円札を差し出して、「両替していただけましたら嬉しいです……」と肩をすぼめた。男性は軽やかに笑って、温かいミルクティを購入し、私にそれを差し出した。『今日は冷えるね、どうぞ』と。

 それから彼は自分のために缶コーヒーを買って、その場を去った。

 とても素敵な笑顔だったのだ。私は当たり前のように恋をして、当たり前のように彼を追いかけた。




 そんな彼の瞳は今、光を失っている。目を開けてはいたが、それがもう何も映してはいないことが私にもわかった。

 私は慌てて彼の元に駆け寄って病院に行こうと説得したけれど、彼はやはり頑なに、ただ頑なにそれを拒絶した。

「命には命しか釣り合わないのに、こんなことで済むのなら破格だ」と彼は何かに言い聞かせるように呟く。何が何だかわからないまま、私は彼の背中をさすった。

 やがて彼は笑顔で、「見えなくても君がどんな顔をしているかわかる」と言った。


 それから数日、私たちは並んで座って色んな話をした。

「悪魔と契約したって本当?」

「そうだよ」

「それって反故にできないの」

「しようと思わない」

「どうして? 何か見返りがあるから?」

「そう、大切なものだ」

 そんなことを、私は窓の外を見ながら、彼は少しうつむきながら、喋った。笑っている彼の横で、私は不安に耐えかね膝を抱えている。

「耳も聞こえなくなる?」と聞けば彼は表情を変えずに「次はそうだね」と答えた。


 名前を呼ぶ。彼の名前を、縋るように呼ぶ。彼はそれをいつものように受け止めて、「うん」と言った。そんなたわいないやり取りが、いつかできなくなる。遠くない未来に。実感がわかなくて、私は得体の知れない不安を拒絶する。また名前を呼んだ。彼は応えた。もっと話すべきことがたくさんあるのに、ひとつも言葉にはならなくて。

 名前を呼んだ。拗ねたように涙を堪えながら、何度も名前を呼んだ。彼は笑って、「一生分名前を呼ばれたよ」と言った。


 次の日、私は彼が眠っている間に外に出た。買い物をしようと思ったのだ。バターと卵とやわらかいパンを買って、家に帰った。

「ただいま」と言いながら玄関を上がると、彼はぼんやりとそこに立ち尽くしていた。目が見えなくなってからも彼は壁伝いに歩いたりして、家の中を自由に歩いていた。

 私は目を細めて「どこに行きたいの?」と尋ねる。返事はない。顔をしかめて、私は彼の名前を呼んだ。やっぱり、返事はない。

 そっと近づいて、彼の背中に手を置いた。彼は驚いた顔をして、「いるのか?」と虚空を睨む。

「いるよ、ここにいる」

「ああ、おれ……俺、君を探していたんだ」

「買い物に行っていたから」

「どこに行っていたの?」

 ちぐはぐな、会話だった。私は腰がずしんと重くなったような気がして、かと思えば胃がふわふわ浮いてしまうような焦燥感を感じ、彼の腕を叩いた。


「どうしたんだ。叩かないで、喋ってくれよ」

「喋ってるよ。私の声、聞こえないの」

「怒ってる? 何か喋って」


 私は彼の腕を強く引っ張った。彼は怪訝そうな顔をした後で、ハッとしてしゃがみ込み、床を叩いた。

「……聞こえない。そうか、どうりで静かだと思った」

 彼は落ち着いて「ごめんね、喋ってたんだろうね。聞こえなかったんだ」と呟く。私は頷いて、「いいよ」と目をつむった。彼が取り乱していない限り、私も自分の機嫌を自分で取らなければならないと思ったからだ。

「わたしも……、あなたをひとりにするんじゃなかった。美味しい朝食をね、あなたと食べたかったの」

 聞こえるはずもないのにそんな言い訳をする。


 こうなった時、どんな風に意思の疎通をはかればいいのか、ちゃんと話し合っておかなきゃいけなかった。でも私は、『これから彼の耳が聴こえなくなって、声が出なくなって』とは考えたくなかったのだ。何か対策を打ってしまえばそれが現実に起こるということを認めてしまうようで怖かった。


「…………そこにいるよな?」


 彼の声でハッとして、私は顔を上げる。所在なさげな顔をした彼の指を繋いで、テーブルに連れていった。座らせて、深く息を吸い込む。

 深呼吸だ。二、三度、私は息を吸って吐く。

 それから彼の背中に、大きく『ごはん』と書いた。彼はくすぐったそうにして、「ご飯?」と首を傾げる。私は自分のためだけに頷いて、『まってて』とまた背中に書いた。

 台所に立った私は、フライパンを熱しながらぼうっと空を見る。今日はあたたかな小春日和だった。

 悪魔と契約をした、彼。やがて声を触覚をなくす、彼。


「どこにいるの? どこにいるの、悪魔なんて。私、声と触覚をあげる。もう彼から何も奪わないで」


 辺りを見回しながらそんなことを言ってみたけれど、悪魔など現れる気配はない。馬鹿馬鹿しい。こんなの何か病気に決まってる。そうだ、病院に連れていかなくちゃ。だけど彼は、私が何度病院に行こうと提案してもひどく澄んだ強い意志で首を横に振った。“まだ捧げ終えていない”のだという。


 私は熱したフライパンに卵を割り入れて、目玉焼きを作る。先にトースターに入れておいたパンはいい香りをたてていた。スープはカボチャとクリーム。

『朝ご飯の匂いがすると幸せな気持ちになる』と昔彼が言っていた。だから欠かしたことがない朝食。いつも嬉しそうに、台所を覗き込んだ彼が『朝ご飯作ってるの? 俺も何か手伝おうか』と笑っていた。そんな日常が潰えて久しい。彼は一番最初に嗅覚を失った。朝食の匂いは彼に届かない。こうして一つずつ、幸せの象徴が消えていく。そんなことに、今さら気づいた。気づいてしまった。

 だから、手を抜けない。私はこれ以上私たちの幸せを壊されないために、幸せに対して一切手を抜けない。


 スープをお椀によそって、トーストの上に目玉焼きを載せる。ダイニングに行くと、彼は席に着いたまま何もないところを眺めていた。私はわざと明るい声で「おまたせ。カボチャのスープだよ」と声をかける。彼は振り向かない。そうだ、声が聞こえないんだった。

 テーブルの上に皿を並べて、彼の肩を叩く。彼はようやく振り向いて、曖昧に笑った。

 彼の目が見えなくなってから、液体のものなどは私が口に運んであげている。出も今日から彼は、耳も聴こえない。口に運んであげるにしても、タイミングが難しかった。

 私はまず彼の手を指でトントンとつつく。彼は「なに?」と問おうとして口を開けた。その隙に私は、スープを彼の口に運ぶ。

 彼は驚いて、口に入れたスープを全部そのまま吐き出した。

「あ? ああ、ああ…………おいしい、ね……?」

 私は彼の口の周りを拭いてやりながら、またスプーンに息を吹きかける。また彼の手を指でつつくと、彼は恐る恐る口を開けた。スープをそっと口に運ぶ。今度はちゃんと、飲み下した。

 そんな調子で、私はスープとパンを全て食べさせてしまった。その方が早いと思ったからだ。彼は少し戸惑っているようだったが、食べ終えたことに気付くと「ごちそうさま。美味しかった」なんて呟いた。


 その後で、私は自分の食事をとる。スープは温かかったけれど、目玉焼きは冷めてしまっていた。食事の用意をずらした方がいいかもしれない、と思って、しかしすぐに考えを打ち消した。このテーブルの上に二人分の食事が載っている、ということが私たちにとっては特別なことだったのだ。同じテーブルの上で、同じ食事を囲んでいる。そういうささやかな習慣が好きだった。私はもう、幸せに手を抜かない。この習慣も、やめる気はない。


 せっせとパンを食べている私の前で、彼は静かに口を開いた。

「別れようか、そろそろ」


 彼の声は、水に似ている。隙間があればどこまでも染み入ってくるようなのに、掴もうとしてもこぼれていく。いつも人の体温に合わせたような温かみがあるのに、こういう時は驚くほど冷たい。

 私は呆然としてしまって、しばらく口に入れたままのパンも咀嚼できなかった。次の瞬間には頭の奥が熱くなって、私は立ち上がっていた。


 ふざけないで。

 ふざけないでよ、こんなの本当に意味がわからない。説明もしないで、自分だけ全部わかっているような顔で。

 一発、引っぱたいてやろうかと思った。実際に彼の顔の前で私は腕を振り上げた。

 痛いほどの沈黙の中で、私は黙って腕を下ろす。馬鹿なことはするもんじゃない。何の解決にもならない。

 それに、何も見えず何も聞こえない彼にとって、私だけは彼に害をなすものであってはならないと思った。彼に攻撃的であってはならない、と思った。


 だから私は彼を抱きしめる。手を握って、強く抱きしめる。

 彼はどこか落胆と安心の混ざったような表情をして、「ここまで君に面倒をかけるとは思わなかったんだ。俺は見込みが甘い」と呟いた。

 そう、あなたはいつも見込みが甘い。楽観主義で、なんだってなるようになるっていつも言ってた。だから私は、あなたのそういうところに救われてたの。どうせ、私も一人では生きていけない。

『ここにいるよ』

 そう、彼の背中に書いた。彼はやはり複雑な表情で、とても長い瞬きをした。



 会話ができないということは思った以上に日常生活を困難にさせた。たとえば彼が遠くにいるとき、『そこから先、危ないから行かないで』と伝えたくても大抵は間に合わない。それでも彼は彼の意地で、家の中は自由に歩き回り続けた。ああ、もうどこかに縛り付けておこうか、と思ったほどだ。


 また怪我をした彼の処置を苛立ちながらする私に、彼は「別れたくなった?」と聞く。時折私は苛立ったまま、『そんなに言うなら別れてやろうか。一人じゃ生きていけないくせに』と思ってしまう。その後でとてつもない悲しみの波が来て、「そんなわけないでしょう」と呟く。彼には、聞こえない。


 少しずつ、私も彼も疲弊していった。


 月が綺麗な夜に、彼は私の部屋の隅で膝を抱えている。ああ、なんだか透明な目をするようになってしまったなぁ、と私は思いながらその横に座った。

 眩いほどの月明かりの中で、彼の手を握る。彼は驚いて、私の方を見た。「いたのか」と呟く。私はそんな彼の表情を、目を細めて見ていた。

「あなたの手が好き」

 昔ピアニストを目指していたこともあるという彼の指は長くて――――右手の指は何本か少し歪んでいる。若いころに折った指が真っ直ぐにくっつかなかったのだという。それが彼にとってどれだけの意味を持つものか、話を聞いたときの私にはわからなかった。だけれど同じ時を過ごすうちに、彼がそのことをひどく後悔しているのだということは容易に察せられた。

「だけどあなたの指が好き、とっても」

 握りしめた彼の手が温かい。私の体温は人より少し低くて、彼の体温は少し高い。いつも彼の体温が私に移っていくようで、触れ合うだけの遊びが好きだった。


「君は……ここにいるのか」と彼はどこか疲れたように言う。そんな風に言われると心外だ。私は彼の手を軽くはたいた。

「俺はもう、一人で外に出ることができないから」

 うるさい。もし万が一でもそんなことしたら絶交です。

「君には全部あげよう。最後には、ぜんぶあげる。だから……今は俺のことを放っておいて」

 馬鹿な人。

 ねえ。だからそんなことをして、どうするっていうの。あなた一体どうするつもりなの。強がりもあてがなければ見苦しいだけなのに。それをあなたもわかっているから、そんな顔をしているんでしょうに。

 私は彼の背中を指でなぞる。『いらない』とはっきり書いた。

「じゃあ、何が欲しいんだ」と彼は困惑の表情を浮かべる。

『あなた』と私はゆっくり指でなぞった。

 はっとした彼が、確かめるように私の方を見る。本気か、と唇だけそう動かす。それから、見たこともないような表情をしてその顔を両手で覆った。


「俺、君のことが嫌いになったんだ」

 はいはい、そうですか。私は大好きです。

「なあ、俺の下の世話までする気かよ。そんなの俺が嫌だよ」

 そうかなぁ。私はそんなに嫌じゃないけど。

「綺麗ごとじゃないんだよ。考え直せよ、そんな価値……俺に、」

 価値とか。

 価値とか言っちゃって。


 このように、彼にはとってもお馬鹿さんなところがある。そんな彼だから、今まで散々『可愛げがない』と言われてきた私にかわいいかわいいと言い続けてその気にさせてきた。彼はその責任を取るべきなのだ。私は性格の悪い女だから、彼が泣いて頼んだって別れてなんかやらない。


 私は彼の背中に『ばーか』と書いて、彼の頬を軽くつねってやった。彼は「いてっ」と目を丸くしている。


 そう、彼はお馬鹿さんだから、誰にでも優しかった。

 男だろうが女だろうが仲のいい友人はたくさんいたし、自由奔放に自分の好きなように手を差し伸べていた。私だって何度妬いて喧嘩をしたかわからない。だけど少しずつ私もわかり始めて、いちいち目くじらを立てないようになった。

 彼はそういう人。だからきっと、私とのことも――――それと同じなのだろうと思っていた。彼は優しいから、愛するだけ愛したら見返りを求めずに満足してしまう。それは私から見て、欠陥にも近かった。それとも、求めるほどに求められたいと思うのはただの私の我儘だったのだろうか。

「俺は、君が思っているような人間じゃないよ」と彼が呟く。私は笑って、「面白い。聞こうじゃないの」と返した。もちろん彼には聞こえない。わかっています。けど、時々はあなたと言葉を交わしたいでしょう。お互いに盲目のドッジボールでも。


「初めて会った時のことを覚えてる?」

「覚えてるよ。むしろ、あなたが覚えていることの方がびっくり」

「自販機の前であったな。俺は君にジュースを買ったろ」

「そう。百二十円で私の心を奪ったの」

「あれなぁ、君が可愛いからそうしたんだよ。もちろん下心があったとも。どうだ、最低だろ。君に恩を売って、罪悪感に付け込んだんだ」

 私は頬杖をついて彼の話を聞いていたけれど、こらえきれずに笑ってしまった。「ああ、そう」と言って喉を鳴らす。


 そういうのをね、そういうのを、もっと早く聞きたかったのよ。私ずっと、あなたの優しさに付け込んで一緒にいさせてもらってると思ってた。


 彼の手を握って、その指に口づける。彼は困ったような顔をして、そっぽを向いた。

 しばらく無音が続く。月明かりが質量を持って部屋に積もっていくようだった。触れたらきっと痛みを伴うだろう。綺麗なものはみんなそうだから。


「怖くてなぁ」

 彼は、ぽつりと呟いた。「何も後悔はしていないけど、先を考えると怖くてさ」と続ける。ダメだなぁ、かっこ悪いなぁ、と。

「本当は、他の誰でもない君にそばにいてほしかった」

 ぐっ、と彼の手に力がこもる。一瞬で体温が上がった気がした。それは彼の手か、私の手か、わからない。

「俺が何もわからなくなるまでは、そばにいてくれる?」

 私も力を込めて、彼の手を握った。


 なんだ――――私たち、案外ちゃんと相思相愛だったね。

 馬鹿な人だなぁ、本当に。そういう時は“一生”って言ってよ。私、もっと素敵なプロポーズが聞きたかった。

 あいしてる、と言った彼の声が震えている。指を繋いだ私の『あいしてる』もきっと伝わったと思う。

 彼は一生分の愛を囁いて眠った。



 次の日にはもう、彼は声を失っていた。私は落ち着いて彼にペンを握らせ、その下に紙を敷いた。彼は薄く笑って『喋れなくなっちゃったみたいだ 困ったね』と書いた。私はペンを握る彼の手を取って、そのままゆっくり字を書いた。『こまったね』と書く。動きで何を書いたかわかったのか、彼はうんうんと頷いた。それから、『ごはんにしようか』と私は書く。彼もまた頷いた。

 鮭とほうれん草のグラタンを、よく冷まして彼に食べさせてあげる。彼は笑って、自分の頬に手を当てた。美味しい、ということだろう。私も彼も、手話などを勉強しておけばよかったのだ。だってこんなに簡単な意思表示でも、嬉しいのだから。


 目が見えなくなってからというもの、彼から私に触れることはほとんどなくなっていた。一度そのことについて尋ねたけれど、彼からの返答は「壊しそうで」なんて要領を得ないものだった。

 だから、私から彼に触れる。一日の終わりに、確かめるように触れる。

 声が出なくなってからというもの、私のあずかり知らない彼の怪我も増えた。何があっても悲鳴すら上げられない彼の怪我は、いつも生々しかった。家の中だって、目も見えず耳も聴こえないまま歩き回れば危険地帯だ。私だってできる限り片付けて、安全なようにしたけれど。


「そろそろ、動き回るときはひと声かけてくれません?」

 そんなことを言って、ため息をつく。彼がひと声かけられるはずもない。そもそもこんなことを言ったって、聞こえてすらいない。

 私は手当てをした後で、彼の頭を撫でた。「いいこ、いいこ。痛かったね」と呟きながら。彼はびくりと肩を震わせて、不思議そうな顔をした。だから、笑いながら抱きしめる。「痛かったねえ」ともう一度囁いた。聞こえていないだろうに、彼は小さく頷いた。


 ある朝、起きたとき隣に彼がいなかった。さすがに開幕不在はびっくりする。私は飛び起きて、寝室を出た。

 探し回ると、彼は自分の部屋にいた。

 彼の目が見えなくなってから、私は縛り付ける勢いで彼を私の部屋に連れ込んだ。そのことについて彼が何か言ったことはない。

 彼は自分の部屋の中で、本棚の前に立っていた。そこには彼が蒐集した本やビデオ、CDが置かれている。私はぼうっとそれを見ていたが、やがてすべてを理解した。

 そこにあるものを、彼は二度と自分で楽しむことはできないのだ。


 私は彼に近づこうと一歩踏み出す。不意に、彼はこちらを振り向いた。それから壁伝いに歩いて、手を伸ばしてくる。そっと、そうっと、私に触れた。

 “やっぱりいたのか”という顔で彼は微笑む。私は一度目を閉じて、思い切り彼に抱き着いた。

 仰天したのか、彼はバランスを崩してその場に倒れる。一緒に倒れ込んだ私は、慌てて「ごめんね、ごめん、痛かったね」と謝った。


 仰向けに横になった彼は、ぼうっと天井を見ている。それから顔をくしゃくしゃにして、笑った。

 彼に声があったなら、と私は思う。気持ちいいほど大きな声を上げて笑っただろう。そうでなくても、彼の笑い声が聞こえてきそうなほどだった。

 きょとんとして見ている私の目の辺りを、彼は触る。本当に花びらに触れるようにして優しく触った。私はその手を、自分の頬に誘導する。彼は私の頬を撫でて何かを言った。声はないけれど、その唇は確かに言葉を紡いだのだ。

「わからない。聞こえないよ」

 目を細めて、彼はまた何か言う。彼の上に乗ったままの私は、その言葉がわからなくて悲しくなった。彼は私の髪を撫でる。目を閉じて、優しく優しく髪を撫でる。「私、そんなに簡単に壊れないよ」と言って彼の胸に頬を寄せた。


 ふと気づけば、私の髪を撫でる彼の手が止まっていた。見ると、彼は眠そうに瞬きをしている。何だかもう二度と手に入らないもののような気がして、私は縋るように彼の肩を叩いた。彼はちょっと首を傾げる。

「私、ここにいるからね。あなたが何もわからなくなっても、そばにいるから。信じていてね」

 そう言って、彼の唇を塞いだ。


 お互いの記憶に刻まれるキスを、と願いながら口づけた。何度も、何度もキスをする。合間に唇を離すと、彼は苦しそうに深呼吸をしながら少年のように笑った。

 私は、キスが上手じゃない。だけど、人生で最高のキスをしたと思う。彼の頬は上気していて、何度目かのキスで困ったように何か言った。それは私にもわかった。『やりすぎ』だ。


 彼が眠りに落ちた後で、私は彼の胸の辺りを軽くはたいてみた。本当によく寝ている。さっき起きたばかりだろうに。私はその横で、膝を抱えていた。やわらかい朝の光が、部屋中に広がっている。それは私たちの日常を漂白していくようで、こわくて、眩しかった。


 瞳を開けた彼に、私は笑いかける。肩を叩くと、彼はただ瞬きをしただけだった。彼の手を握っても、反応はない。私は膝を抱えたまま、彼のことを見守る。彼はぼんやりと腕を上げて、空中でゆっくりと振った。その途中で私の肩に手をぶつけたけれど、彼が気づいた様子はない。そして数秒後彼は、自分の置かれた状況を正しく理解したようだった。

 私もそれを認めた。彼は今、触覚も失ったのだろう。

 彼の顔にかかった前髪を払って、私はその額に口づける。


 あなたは本当に泣かない人ね。私ばっかり泣いてて馬鹿みたい。だって辛いのは私じゃなくてあなたなのに。それなのにあなたは今も不思議そうな顔をして、何に触れても感覚がない自分の手を見ている。


 彼に感触というものがなくなってから、私はようやく彼を病院に連れていくことができた。彼はほとんど動かなくなっていたから、何人かの知人の手を借りて車に押し込んで連れて行った。

 いくつも検査をした末に医者は、「何が起きているかわからないし、治療法もない」と話した。私は正直に言えばほとんど期待をしていなかったので、落ち着いてそれを聞くことができた。

 彼の身体は健康そのものだった。脳だって内臓だって、悪いところはどこもなかった。だけれど確かに彼の脳はあらゆる刺激を遮断してしまっていて、どのような反射的反応も示さないのだという。『まるで、元気に死んでいるみたいですね』と医者は口を滑らせた。私はなぜだか笑ってしまって、笑いながら泣いてしまって、「もう二度と来ません」と言った。医者はバツの悪そうな顔をして、点滴を処方してくれた。定期的に家まで来てくれるという。その日は、そのまま彼を家に連れ帰った。


 やがて彼は一切動かなくなってしまった。何かに触れている感覚もない彼にとっては、自分がどこにいて、どんな体勢でいるのかもわからないのだろう。もしくは、自分が動くことで何かを壊してしまうと考えているのかもしれない。なんにせよ、もう彼が何を考えているか知るすべはないのだ。


 壁を背にして座らせた彼は、どこか一点を見ている。その隣に座って、私も窓の外を見た。

「今日はいい天気。ドライブ日和だねえ」

 そう言って、肩をすくめてみる。

 彼は急激に痩せてきていた。何度か、彼に点滴ではなくて口から何か食べさせようと試みたことはある。だけど彼は、口に何かが入ったということすら気が付かない。無理に何か口に入れるのは誤嚥の可能性もある、と医者からたしなめられた。確かにそうだ。確かにそうだけれど――――食事ができない彼を放って自分だけ食事をするのは、心臓をすりつぶされるように痛くて苦しい思いがした。私の体重も順調に減ってきた。


 ふと目を落とすと、彼の指先が動いていることに気が付いた。何か叩くように、軽やかに跳ねさせている。私はそれを不思議なもののように見た後で、慌てて家を飛び出した。

 街でたった一軒の楽器屋から走って帰ってきた私は、肩で息をしながら必死な思いで準備をする。それから、そっと彼の膝の上にキーボードを置いた。


 音が響く。音は連続して、曲になった。思った通り、彼はピアノを弾いていた。


 私は膝から崩れるようにして泣いた。嬉しくて泣いた。そこに彼の意思があること、彼が確かに生きているということが嬉しかった。鳥肌が立つほどに嬉しかった。

 死んでなどいないのだ。彼は彼の意思で、ピアノを弾いている。

 二時間ほど鍵盤をたたいて、それから彼はすっかり黙ってしまった。どうやら眠ったらしい。私は彼を横に寝かせて、キーボードを端に寄せた。「おやすみ」と言って彼の瞼の上に口づけを落とす。「あなたの音、とっても素敵だったよ」と、囁いた。


 彼に時間の感覚はないらしい。どのような心境の変化があったのか、彼は起きているとき大抵は指を動かすようになった。だから私は、その小さな仕草を決して見逃さないようにずっと起きて彼のことを見ている。彼の指がピアノを弾き始めたら、私はそこにキーボードを置くのだ。

 だけれどその日、彼の指はピアノを弾いていなかった。彼の指は――――驚くべきことに、字を書いていた。

 だから私は、期待を込めて彼の手にペンを握らせ、その下に紙を敷いた。


『のか、わからない』

 文章の途中でペンを握ったらしい。中途半端なところから彼は字を紙に書き始めた。私は歓喜して、その様子を見守る。

『もし生きているんなら』『きっと小便たれ流してんだろうなあ』『かっこ悪いなあ』

 私は久しぶりに、声を出して笑った。


 ああ。

 ああ、もう、いとおしいなぁ。


 彼の字が白い紙を埋めていくのを、ずっと見ていた。ずっとずっと見ていた。彼の字は彼の字に重なっていった。それはひとつの絵画のようにも見えた。




 懐かしい曲が聴こえて、私は目を覚ます。一体いつから寝ていたのだろう、と時計を見た。夜中の三時だった。起き上がって、彼の隣に腰を下ろす。

 今日はもう五時間も弾いている。疲れたろうに、それとも疲労感すらないのだろうか。

 彼の弾く音楽は、いつも少しずつずれていく。ピアノを弾いているつもりの彼の前で、私の買って来たキーボードは薄っぺらくて小さい。だから彼の音がずれていくのは仕方ない。私はそれを、横から動かして修正した。

 彼がいま弾いている曲は、出会った頃に二人で遠出したとき車内によくかかっていた曲だ。懐かしい。テイクアウトができるカフェで、コーヒーとサンドイッチを買った。車の中で曲を聴きながら、色んなことを話したっけ。コーヒーが冷めても楽しかった。


 私、あなたのお嫁さんになりたかったなぁ。自己満足じゃ意味がない。私はね、私のウェディングドレス姿を、あなたに見てほしかったのよ。


 曲はラストのサビ。一等美しいメロディが響く。そして、ずれていく。

 私の愛する人は、今日もピアノを弾いている。私はそれがどこかへ飛んでいかないよう、引き止めるかのように修正する。彼が全てを諦めてしまうまでは、ずっとそうしているのだと決めた。

 いつか私は彼に、文句を言ってやろう。たくさん言ってやろう。それから抱きしめて『頑張ったね』とも言ってあげる。

 曲はすでにエンディングで、彼は手を止める。今日の演奏会は終わりらしい。私は彼の手を握った。指先がひどく冷たい。ああ、もう季節は冬だ。私と彼が初めて出会ったのもこの頃だった。



 私が彼の背中に、声をかける。『ミルクティー、ありがとう。お礼がしたいです』と。彼ははにかんで言うのだ。『よかった。格好つけて歩いて来たけど、本当は君ともって話したかったんだ。君が来てくれて本当に良かった。お礼なんて、それで十分だよ』と。あれはどうやら下心だったらしい。それにしてはあんまり子どもみたいな顔で笑ったから、ここまで騙されてきてしまった。でも下心だとわかっていても、私は彼を追いかけただろう。恋なんて、そんなものだ。



 彼の手を握りながら、私はまたうとうとする。

 少し前まで、あなたの手の方が温かかったのに。今では私の体温があなたに移っていく。

 それはそれでいい。

 だからいつかまた彼と言葉を交わしたときには、やっぱり最初にこう言おう。

『よかった。私も素直じゃないから散々あなたを困らせただろうけれど、本当はあなたともっともっと話がしたかった。何も言わないで。あなたと笑い合えるなら、それで十分だよ』と。

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