第2話 I hoped Euthanasia program.

 人は生きているだけで素晴らしく、生き続けることこそが人類の望みである。


 私たちは、そう学びながら生きている。何歳であろうと、生きていることが素晴らしいとされるこの世界。


 世界は平等で、美しく、管理され、清潔で、淀みなく巡っている。


 綺麗に整備された街で、秩序を維持して生きていることに疑問などなく、適切に身体を維持し、精神の健康を保つための社会活動は、ネット上で行われる。自分で設定したアバターをまとって、自分の興味のあるコミュニティで浅く広く交友関係を構築していく。


 私がその噂を耳にしたのは、当然ながら生きている人間の口からではなく、ネット上をたゆたっているときだった。二年前、ふいに目に飛び込んできた噂。それは掲示板に載っていたただの文字の羅列ではあったが、青天の霹靂のごとく、私に衝撃を与えた。


 『安楽死プログラム』


 自分が過去存在していた事実をすべて抹消してくれるプログラム。それは、私の望みのほとんどを叶えてくれる物のように思えた。戸籍データも、学歴も、日々更新される身体データも、何もかも。私という存在は、すべてこの社会から消え去ってしまう。《曽根塚アコ》という存在は、この世界からなかったことになる。


 私の夏休みは、その安楽死プログラムを探すことに費やす予定だ。夏休みだけでなく、二年前から私はそれを探すためにほとんどの時間を費やしている。といっても、それが存在しているのかどうかさえ怪しい、眉唾物の代物だということは、勿論、重々承知している。ネットの海を泳いだところで、あれ以降ほとんど同じような情報しか手に入らなかった。少し深いところでは、確かな情報源のないデマがはびこっている。ネット上の都市伝説のようなものだ。あるかないかもわからないから、みんな好き勝手憶測を述べている。それらの情報を手当たり次第に当たることは労力の無駄。それにいちいち身分を明かすのもリスクが高い。


 アバターで出入りしているようなところは、ログを政府機関に提出されているから下手なことは言えないし、人間関係のトラブルなんかも簡単に察知されてカウンセリングや治療へ誘導されてしまう。さてどうしたものか、とアクセスログの誤魔化し方や、違法掲示板などの出入りの方法を考えていた頃、私はついに「EP」という隠語を知る。


 『EP探してます』


 その文章は、昔のレコード盤を探す意味でも使われていた。私が調べた中でも、そうした意味で使われていることはほとんどだ。その中で、いまいち意味が通じないスレッドが一つだけあった。先ほどの文章に対して、「指紋は消去済みです」と返されているのだ。その後はどこに潜ってもスレッドが続いていないし、そのスレッド自体も一日後には消されていた。おそらくメッセージや他のアプリなどに移動しているのだろう。これがそうだとはっきりとした確証はなかった。ただ、消去済みという言葉が引っかかったのだ。私でも分かるくらいなのだから、ある種の合い言葉みたいなものかもしれない。物は試しだと、レコード盤を探す人が集まる掲示板で、そのスレッドを立ててみた。たった一文だけのスレッド。本物のレコード盤を探している蒐集家には見向きもされない。そういう物を探している人たちは、曲名や年代などを明記している。自分の立てたスレッドに対して、いくつかの質問などの返事が来ているが、そういうものはすべて無視だ。日に何度もスレッドへの返事を確認するのがとてももどかしい時間だった。そして、スレッドを立ててから二十二時間後、私の元にもその返事が来たのだった。


 『指紋は消去済みです』


 その返事を見た時、手に汗が滲んで、普段は動いているのかどうかすら気にしたことがない心臓が急に存在を主張し始めた。全身を流れる血液が自分の中にあるのだと、否応なく感じさせられる。座っているのに、目眩すらした。続いて、スレッドに付随しておいたメッセージ用アドレスにメッセージが届く。差出人の名前は不明。アドレスもよく見るフリーアドレスのドメインが使われている。そして、本文には『スレッドを削除して以下のURLへアクセスしてください』と、どこかへとつながるURLが記載されていた。詳しいことはそこで、ということだろう。そのURLをクリックするのに、一瞬迷った。手が震えたのだ。もしこれが、私が欲しいと思っている方の物ではなく、電子ドラッグの類いだったら、私はここにアクセスした瞬間、心を壊して廃人決定だ。目的も達成することなく、ただ危険サイトにアクセスした愚かな若者としてログを残すことになってしまう。それは避けたかった。一応、URLに対する防御はアクセス前にできうる限り行使して、視覚型の電子ドラッグに対してもゴーグルを付けて対策しておく。そうしてから、ようやく私は送られてきたURLにカーソルを合わせた。


 アクセスした先は、今では珍しいタイプの文字チャット板だった。表示された画面には、白い箱が二つ浮いている。狭い方の箱に文字を打ち込むと、大きい方の箱にその文字が表示され、そのやりとりで会話するタイプのものだ。旧時代にはよく使われたと聞いている。今でも掲示板サイトが使われているのだから、こういうタイプの物が使われていたとしてもおかしくない。もしかして相手は結構年配の人だろうかと推測した。


 『初めまして、〈アーコ〉さん』


 アーコ、というのは私のハンドルネームだ。私も手元のキーボードに指を滑らせ、文字入力画面に文字を入力、送信する。


 『初めまして。以前、他の方にも同じレスをしていた方ですよね?』


 『はい、そうです。よくご存じですね』


 『以前も同じ名前をお見かけしたので、覚えていたんです。』


 『そうなんですね。やはり、お求めの物はレコード盤ではないんですね』


 『はい。』


 そこから少し間があった。素性を探られているのか、遊びだと思われているのか。値踏みされているような時間だ。私はじっと、相手からのレスポンスを待つ。


 『ここはログが残らないので、率直に伺います。あなたが必要としているのは、安楽死プログラムで間違いないですね?』


 ぞっと、背筋を下りていく悪寒。そう、その言葉を私はずっと探していた。そして辿り着いたのだ。まだ本物かどうか、私の求めている物かどうかは分からない。それでも、一つの可能性がここにある。適温に保たれた自室で、静かに興奮する。腕にはめたバングルが身体異常を察知してアラームを慣らしてくるが、異常なしと返事をしておく。返事をしない方が後々面倒なことになる。


 『はい、そうです。人生のログをすべて消去できると聞いているのですが、それは本当ですか。』


 『それは嘘ではないですが、正しくもないです。そして、お渡しするには条件があります』


 『それは、何ですか?』


 『あなたのことを知ることです』


 それが一体どういう意味なのか、よく分からなかった。返事に窮した私にかまわず、チャットは続く。


 『一度こちらでコンタクトしませんか?』


 そしてまたURLが貼られる。


 『こちらは文字チャットではなく、ALでのやりとりになります。隠したい情報があれば先にオフにしておいてください。私の名前は〈アキアカネ〉になります。ログインしたら声をかけてください。もしやりとりを中止したい場合、ここで切っていただいても構いません。それでは』


 そして画面に表示される《1.さんが退室しました》という文字。このチャットルームにいるのはもはや私だけになった。迷うことはなかった。私は一度画面を最小にし、アバターの設定を確認する。性別、年齢、出身地、誕生日、出身校、趣味、その他諸々。性別以外はすべて非公開にする。アバターで接触するというのは、相手が用意したアングラなフィールドではなく、公的に提供された浅いフィールドになるから、セキュリティもそれなりに強い物が働いている。個人情報の保護には余念がない。ただ、今から会う相手にそれは通じるのだろうか、という不安は勿論あった。それでも、喉から手が出るほど私はそれが欲しい。人生ログを消したいと思っている人間が、今更自分が何者か知られるのが怖いというのは、矛盾しているように感じた。自分が死にたいと思っていることより、自分が何者でどこに所属しているのかの方が、知られるのが怖いなんて。私の意思は、感情は、所属している場所や個人情報とやらに詰め込まれているのだろうか。


 自嘲気味に笑いがこみ上げる。それを抑え、私は先ほど最小にした文字チャット板からアキアカネの示したURLをクリックした。見慣れた文字列だ。フェイクアドレスかと思ったが、そういうわけでもないようだ。URLをクリックすると、待機状態にしておいたALの画面が自動的にポップアップされ、そこから『昆虫博物館に入りますか?』と尋ねられた。昆虫博物館、というのがコミュニティの名前なのだろう。入ってみると、そこは緑の草むらをもしたフィールドに、虫取り網や麦わら帽子を装備したアバターが何名かいた。そこに私のアバターは場違いな気がしたが、特に話しかけられることはない。アキアカネはどこにいるのだろう、とこのコミュニティの所属メンバーを確認する。メンバー数は二百名を超えている。まずはログイン中のアバターだけを表示し、そこからアルファベット順にソートし直した。すると、アキアカネとローマ字表記の人物が一人いた。念のため、アキアカネの学名も探してみるが、そちらはいなかった。それなら、このローマ字表記のアバターが先ほど文字チャットで私が会話していた相手だろう。肌の色が黒く、糸目の女のサムネイルをクリックして、チャットを申し込む。フィールド画面では、私のアバターがアキアカネを探して歩き始めていた。森のフィールドに入り、奥まった場所に辿り着くと、他の誰もいない山小屋の前に、そのアバターはいた。日焼けした肌に黒髪短髪の、女の子のアバター。こんにちは、とプライベートモードで話しかけると、彼女は、『あ、きたきた~』と先ほどとは打って変わって軽い調子で返してきた。アバターの上に吹き出しが踊る。


『アーコさん、ホントに来たんだね。そんなに欲しいのかな?』


『そうです。』


『そっかそっか。じゃあ、私にアーコさんのこと教えて欲しいな。こっちもよく知らない人に渡すわけにはいかないからさ。まずは、好きな物』


 もしかして、騙されたか? と実はこの時点で思っていた。あんな手の込んだことをして、カウンセラー気取りの奴に捕まっただけではないか、と。自殺志願などいないと言われているこの社会で、そういう異分子とも言えるものを見つけ出し、矯正させるのが目的の人間かもしれない。いや、もしかしたら相手は人間ではなく、高度なAIの可能性だってあった。会話を続けたら知らないうちにこの胸の内などすべて吐露させられ、改心させられているのかもしれない。


『取り引き止めたくなったらいつでも言ってね。こっちはどっちでもいいし、持ってる証拠だってすぐには見せてあげられないんだから、信じてくれなんて言えないしね』


 後から知ったが、このコミュニティでは昆虫の標本などの取り引きに使われているもので、こうしたきわどい会話も比較的スルーされるらしかった。それも踏まえてのコミュニティ選びだったらしい。


 私はこの時、自分の迷いを当てられたこともあり、カッと顔が熱くなるのを感じた。見透かされている。主導権は、私にはなかった。なぜなら請うほどにそれを求めているのは、私の方なのだから。たとえガセであっても、偽物であっても、欲しいと思ってしまっているのだ。私は、安楽死プログラムを手に入れて、やりたいことがある。自分という存在の痕跡を消したいと、願っている。だから、やりとりを続けることにした。


『私、旅行が好きなんです。』


『へぇ、いいね。国内? 国外?』


『まだどこにも行ったことがないんです。だから旅雑誌を見て、行ったような想像をしているだけで、満足してるんです。』


『雑誌なの? VRとかじゃなくて?』


『VRだと、余計虚しくなるので一回で止めました。』


『そっか~。そうなんだ』


 どうせ、相手は生きているのかどうかも分からない存在なのだ。だったら本当のことを言ってもいいと思えた。だってこの人は私のことを何も知らない。そのくせ、安楽死プログラムなんてものを欲しがっているという、危険思想にもつながるようなことを考えていることを知っている。他の誰にも言えないようなことを知られているという事実は、私の口を軽くした。半分、どうにでもなれという気持ちもあった。


『じゃあ、一緒に旅行に行かない?』


「え?」


 思わず、チャットではなくリアルで声が出た。突拍子もない発言だ。何故そうなる。目を白黒させる私に構わず、アキアカネは続ける。


『だって私のこと、信用できないんでしょ? いやそれは当たり前だからいいんだけどさ、旅行好きなのにしたことないなら、時間あれば一緒に行けばお互いのこと知れて一石二鳥じゃない? と思って』


 思考が飛びすぎではないだろうか。はめているゴーグルが邪魔になって、ここでようやく外した。もう一度、吹き出しの中に表示されている文章をじっくりと読み直す。読み間違いではなかった。アキアカネは、正気なのだろうか。


 パッと吹き出しの中身が入れ替わった。


『それに、会えば実際に見せてあげられるよ。本物かどうか、あなたも知りたいんでしょう?』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る