安楽死プログラム
藤島
第1話 Dive into the new world...
目覚めると、朝が来ている。窓を覆うカーテンの裾から、眩しい光が差し込んでいた。すっかり日が昇っているが、時計はまだ七時を指している。耳のすぐ後ろで鳴っている目覚ましの電子音を、プツリと切る。静かになった。
ベッドから抜け出して、私はパジャマのままリビングへと出て行った。リビングのテーブルには、もう私の分の朝食がテーブルの上のトレイに置いてあった。他の家族の姿は見えない。もう出かけているのだろう。一人分の食事が置いてある前に座る。
もそもそと温められたご飯を箸でつまみながら、目の前に出てくる今日の予定に目を通す。今日は集会と、午後からは市営のプールに行く予定が入っている。夏休みに入る前、最後の予定だ。これを乗り越えたら、一ヶ月以上の夏休みが待っている。といっても、今や授業は大体通信だし、外に出て行く授業も、体育館に出向く体育くらいなものだ。美術や技術を学びたい人は、実際に道具を持って塾に通っているらしいが、あくまで一般的な範囲で遊びたい私は、休み中に外出する予定なんて何もなかった。夏休みの使い道としては、やはり欲しいものを探すというくらいだろうか。
集会の時間に間に合うよう、食事と着替えを済ませる。集会の大半は映像配信だが、その後担任からの挨拶や休み中の諸注意は教室で聞き、解散する。旧時代の風習だと揶揄する人たちもいるが、こんな機会でもないと同じクラスに誰がいたのか分からなくなるので、私は良いとも悪いとも思っていない。アンドロイドではない、生身の人間と接する機会なんて、作ろうと思わなければもうほとんどなくなってしまっている。病院くらいだ。生身の肉体の質感(とりわけ同年代の人)を、私たちはよく知らないままに生きている。同級生なんていっても、もう教室には二〇人に満たない数しかいない。昔はこの倍近くが教室に収められ、クラス数もたくさんあったらしい。今では教室は一つだ。肌の色も目の色も、髪の毛の色もみんな様々で、もうここは単一民族の支配する土地ではなくなった、と歴史の授業で習った。それと同時に、文化も少しずつ変わっている、と。
外出の時間です、と天井のスピーカーからAIが知らせてくる。その声に答え、私は玄関を出た。家族用の集合住宅十階建て。その八階が我が家である。外の季節は夏ということもあって、日差しが目に痛い。ただこれも、遙か上空に張られたUVカットテクスチャによってある程度和らげられた日差しだ。紫外線によるダメージを和らげるため、外出時の日傘とサングラス、そして長袖は必須となっている。近々着られるUVカットテクスチャが発売されるとのことなので、そうすればもう少しこの季節の外出も気楽な物になるだろう。学校へは、巡回バスで一〇分もしないうちに着いてしまう。「おはよう」なんて、生身の人間と会話をするなんて久しぶりすぎてつい笑ってしまった。
年に数回しか顔を合わせないが、私は、悪く言えば学校におけるこの雑多な空気感を心地よいと思っていた。背景文化の違いは、適度な無関心を生んでくれる。その上で、ネット上とは違う生きた噂話が飛び交うのだ。その中で、とりわけ声を潜めて語られることがある。
安楽死プログラム。
それは、ネット社会をたゆたう噂だ。
例えばその単語を、ネットの浅いところにある掲示板やSNSに投稿したとする。すると善意のネット警察によって数分後にはその投稿は削除され、なかったものにされ、運が悪ければ現実で警察のお世話になる可能性だってある。
安楽死プログラムとはそういうものだった。
しかし、その一方でそれの実態は誰も知らない。一度使ったら最後、廃人になる電子ドラッグだとか、戸籍やサーバー上にある個人データすべてを一瞬にしてすべて消して、この国からいなかったことにされるツールだとか。根も葉もない噂ばかりが飛び交っている。何せ使ったという人間には誰も会ったことがなく、経験談とされるものもすべてガセというのが、多少なりともそのソフトを探したことのある人間の共通認識だった。ただ、そのプログラムは実在している。それだけはがんとして揺るがぬ事実として語られている。
あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、あるなら実際に拝んでみたい。私が探しているのはそういう物だ。
担任から自宅学習の課題があることを伝えられ(ほとんどアーカイブ上でDLできる)、適度な外出、適度な運動を促されて、事故や事件、怪我に気をつけて過ごすように伝えられて、集会は解散となった。解散を告げられて、生徒たちは一斉に席を立ち、思い思いの場所へ散っていく。
どこ行く何する何食べる。私は一度家に帰り、着替えてから午後に行く予定の民間のプールへと移動する。言うまでもなく一人である。プールでは待ち合わせをしているのだ。オフ会である。
さて、生身の人間同士の接触が減った代わりに、アバター社会における交流が盛んとなった昨今。そこでは肉体に縛られない性や外見で過ごすことができる。出会いはネットの中で行われ、ほとんどそこで完結することができる。コミュニティの作成に肉体は必要か、不要か。そんな議論さえされている。勿論肉体がなければ子孫が作れないわけだが、そこは人工授精という手がある。我が家のように。結婚をしていなくても、子どもを育てられる環境を整えられると認められれば子どもを授かることができ、社会支援を受けることで子育てをつつがなく行えるのだ。現に私は今の生活に不自由を感じていないし、同じ学校に同じ境遇の生徒は半数程度いるだろう。わざわざ片親かそうではないかなんて、誰も話題にはしないが。
行きと同じように、通学用の巡回バスに揺られて自宅の最寄りで降りる。降りればまた日差しにやられるが、自宅はすぐそこなので皮膚がやられる前に駆け込んだ。同じ建物に住んでいる生徒もそうしていた。八階までエレベーターで上がり、約三時間ぶりに帰宅。「おかえりなさい」とAIが声をかけてきた。この住宅用防犯兼生活AIのすごいところは、玄関にあるセンサーから住民として登録されている以外の体重、足のサイズ、身長の人間が入ってくるとすぐさま警備会社に通報が行くところだという。つまり、私は家に生体データを把握され、そしてそのデータはどこか知らないところで管理され、《
帰宅しても、当然だが親はいなかった。仕方ない。彼は私が起きる前から寝るまで仕事なのだ。
自室へ入り、制服を脱いで少し年齢が誤魔化せるような私服に着替える。舐められないために。プールに行くと言っても、水着に着替えるわけではない。プールはあくまで目印である。また外を歩くので、パーカーとサングラス、そしてキャップをかぶって、必要な荷物を持ち、私は二度目の外出へ赴いた。外は相変わらず日差しが熱く、痛い。プールに着いたら冷たい飲み物と、ポテトを買おう。夏だから、というだけの理由なので、買ったらすぐに満足するだろう。じわりと肌ににじむ汗が不快だった。
巡回バスではなく、今度は駅へ向かう。駅までは歩けば三〇分くらいかかる。そのため、私は住民専用の駐車場へと向かった。そこには無人タクシーが常駐している。お年寄りや私のような子ども用に。遠距離は無理だが、三〇分圏内ならどこへでも運んでくれる。二人乗りの小さなカプセルに車輪がついただけの乗り物だが、案外乗り心地は良いものだ。エンジンの起動のため、住民IDを目の前のパネルにかざす。認証成功。パネルがつき、エンジンが起動する。目的地を入力し、後は座席に座っているだけである。シートベルトを着用すると、なめらかに車は動き出した。車に乗って景色を見ていると、自分も輸送される荷物に思えてくる。実際そうだろう。道路には、似たような車が何台も連なって、事故など起こすことなく中身を目的地へと届けている。整備された道路と四角い建物たちを見ていると、私は毎回、昔図鑑で見た蟻の巣を思い出す。蟻なんて、生物館くらいでしか見たことがない。蟻だけではなくて、他の生き物もそうだ。それらは決められた場所の、決められたアクリルケースの中にしか存在しない。それはもしかしたら、私たち人間も同じなのかもしれないけれど。
暑さと空腹にやられた思考でそんなことを考えていると、ポケットに入れていた携帯端末が震えた。手のひらに収まるそれを取り出して、電子パネルを起動させるとメッセージが届いていた。犬と猫の絵文字で「着きました」というタイトルが飾られている。今日会う予定の人からだった。名前はアキアカネ。トンボだ、と思ったし本人に聞いたらそうだと言っていた。アバターは女の子で、日焼けした肌、黒髪短髪、白いキャップを斜にかぶり、猫のように細い目をして、口元は舌を唇の上にペロッと出した形をしていた。服は白いTシャツにデニムのオーバーオール。アバターのセンスにも笑えた。わざわざそんな顔を作って自分の顔にしている、アキアカネ。彼女(アバター通りの性別とは限らないけど)は、今日アバターと同じ格好をしているらしい。証拠に、と首から下の画像も添付されていた。確かにアバターと同じ格好をしている。思ったより足が長く、細い。私はまだ向かっている途中であることと、今日の服装の特徴を文章で伝えた。すぐに返事が来る。
『フードコートで涼んでますね~』
そのメッセージを読んだところで、駅に着いた。車はそのまま集合住宅へ帰るよう入力して、私はモノレールに乗るため改札に向かう。モノレールでまた二〇分。待ち合わせは午後二時。待ち合わせにはまだ一時間ほど余裕があるが、待たせるなら仕方ない。ひとまず駅に着かなければ急ぎようもないので、私はまた端末を取り出して、読みかけの電子雑誌を読むことにした。読みかけだったファッション雑誌を捲り、月刊の旅雑誌を適当に捲っているところで、目的地に着いた。端末をポケットにしまい、改札を出る。駅とくっついている商業施設には、屋内外のプールがある。そして、プール客も利用できるところに、屋内利用者用のフードコートもあった。プール利用者とは観葉植物と柵でスペースが区切られている。おそらくアキアカネもこの辺りにいるはず。見慣れたアバターと同じ格好をしている人間を探す。それにしても、教室より多い人間がいるところに来るのは久しぶりで、人に酔ってしまいそうだ。ぐらぐらとし始めた視界。探すより先に飲み物を買ってきた方が良いかもしれない。そんなことを考えていると、背後から声をかけられ、肩を軽く叩かれた。
「〈アーコ〉さん?」
アバター名を呼びかけられて振り返ると、そこには白いキャップを斜にかぶった東洋系の顔立ちをした女の子が立っていた。驚きのまま、言葉が口から出る。
「えっ、〈アキアカネ〉……さん、ですか」
その人はにっと笑った。
「はーい、そーでーす」
笑うと八重歯が唇から覗く。珍しい。八重歯は歯列矯正の対象で、幼い頃に引っ込められてしまう人がほとんどなのに。
「今日はよろしくね」
そう言うアキアカネの見た目から、年齢はよく分からない。私とほとんど変わらない歳だとは思うが、外見年齢などあまり当てになる物ではないのだ。ただ、声と話し方は若い、と感じる。肌は元々黄色なのだろうけど、ほとんど白に近い色をしていた。アバターと違って日焼けをしていないせいだろう。
「じゃあとりあえず、移動します? それとも、何か食べる?」
「それなら……、飲み物だけでも買いたいです」
「あぁ、お昼まだだった? オッケー、じゃあそこの席に座ってるから、何か買ってきなよ」
ちょうど背後の空いている席に座り、アキアカネは行ってらっしゃいというように手を振ってくる。昼食時も過ぎているため、人混みもそこそこ緩和されつつあった。売店の行列も溶けている。私は言葉に甘えて、喉を潤すための冷たい飲み物と軽食を買いに売店へと向かった。
売店はほぼ自動化されていて、タッチパネルで注文を選び、即時払い機能のついたカードで決済をする。その後すぐに、目の前のカウンターに注文した物が載って出てくるというシステムだ。旧時代の物だと揶揄する人もいるが、娯楽施設のフードコートとしてはこれが自動化の限界で、最適解なのではないだろうか。機械が動くしても、人が動いた方が早い場合も多い。
私は希望の品の載ったトレイを持って、アキアカネの待つ席に戻った。彼女は席でタブレット型の端末をいじっていて、私が席に戻るとそれをポケットにしまって私に向き直った。私がテーブルに置いたトレイの上を興味深く覗いてくる。
「何買ったの?」
「普通に炭酸とポテト。暑いと炭酸飲みたくなりません?」
「なるなる。つってもあんま得意じゃないけど」
「私もこういう時しか飲まないです」
他愛ない話をしつつ、ポテトをつまんで炭酸飲料を飲む。喉が潤うと、少し気持ちにも余裕が出てきた。暑さでやられていた身体も塩分と水分を摂って回復する。普段冷房に慣らされているから、久しぶりの暑さはことさら堪える。
「そういえば決めた?」
「何をですか」
「夏休みの予定」
アキアカネは私のポテトを勝手につまんで食べている。いや食べるかと思って大きいサイズにしたから別に良いのだけれど、その前に一言あっても良いのでは? しかし私はトレイをテーブルの真ん中に置いているので、仕方のないことかもしれない。
「……とりあえず、アキアカネさんの提案に乗ろうかと思います」
「ふーん、そっか。じゃあ食べ終わったらカラオケでも行く? 一応あそこ防音だし、これからの予定も詰めなきゃいけないし」
「そうですね」
その前に、噂を確かめなければならないのだけど。そのために今日は会ったのだし。
少し疑わしそうな顔をしていたのだろう私に、アキアカネはくすりと笑って私の方へ顔を寄せた。ふわりと香水なのか、甘い匂いが香る。汗と混じった、生身の匂いだ。彼女は、腕にはめた時計に音声を拾われないように、そっと魅惑的な調子で私に囁いた。
「私、ちゃんと持ってるよ。――安楽死プログラム《EP》」
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