あれは夢だったのだろうかと今でも思う。

hibana

あれは夢だったのだろうかと今でも思う。

 殺人現場に遭遇した。17歳の夏休み。わたしは知らないキャラが描かれたダルダルのTシャツに短パンをはいて、片手に棒アイスを持っていた。

 十メートルくらい先のところに、人が倒れている。結構血が出ていた。割と、ホラー映画ぐらい出てた。

 背広姿の、それほど体格がいいわけでもない男の人が包丁を持っていて、普通に目が合った。わたしはその男の人が、倒れている人のことをめちゃくちゃに刺したところを見ている。


 認識するより早く、わたしの足は動いていた。声は出ていない。声より先にたぶん胃の中のものが出そうだった。

 勢いよく駆け出したわたしは、「あ、待ってください」という声を聞いた。足が止まる。


 言い訳をさせてほしい。わたしは何も、『待て』と言われて素直に立ち止まったわけではない。ただその声があまりにも自然な響きだったので、それはまったくの第三者がわたしを保護しようとして発した言葉だったのではないかと思ったのである。

 わたしは振り向き、そこに殺人犯以外立っていないことを確認した。ついでにその殺人犯が明らかにわたしを見て、声をかけてきたようだということもわかった。


「待ってください。そんなに急いで事故にでもあったら大変です。足元に気をつけて」


 事故なら。

 現在進行形で合っているようなものではないか。


 しかし、このまま交番にでも駆け込むつもりだったわたしは考えた。男性のこの反応。わたしは何か重大な勘違いをしているのではないか、と。脳裏に『冤罪』の二文字が浮かぶ。

 わたしはぐっと拳を握り、震える足に力を入れ、口を開いた。


「つかぬこと、」「つかぬことを、お聞きしますが」唾を飲みこんだら、自分でもびっくりするほどごくりと大きな音が鳴った。

「先ほど人を殺していませんでしたか?」


 言った瞬間に腰が抜けた。なけなしの勇気を全振りしたせいだろう。

 男性は「ああ」と言いながら倒れている人をちらりと見る。

「実は、そうなんです」

 お恥ずかしながら、と付け加える。


 わたしは途方に暮れた。

 腰が抜けてしまって立てない。逃げるすべがないまま、殺人犯と相対することになってしまったのである。




×× ×× ×× ××




 今、わたしの手元にはペットボトルのレモンティーが握られている。一瞬どこかへ消えて戻ってきた男性が「大丈夫ですか」と差し出してきた代物だ。正直こんなものは要らないのでそのままいなくなってくれたらよかった。

「どこかへお運びしましょうか。僕はあまり力がないのですが……」

「あ、ひぇ、おかまいにゃく」

「人を呼んできますか?」

「ふぁ? な、なんで?」

「若い女性がこんなところに一人でいたら、危ないですよ」

 呼んでくれるのか、人を。殺人犯…………殺人犯ってなんだっけ…………わたしの知らない間に殺人って結構オープンなものになったのかな…………。

 わたしは動いてもいないのに呼吸を乱し、酸素不足を感じていた。


「あの、人をお殺しになられた……?」

「あっ! もしかして怖がらせてしまいましたか。大丈夫です。僕は殺す人は選ぶので」


 殺人鬼ジョークか?

 男性は心配そうにわたしを見て、「ペットボトル開けられないですか?」と言いながら蓋を開けてくれた。わたしは震えながらそれを口に運んで、だらだらこぼしながらも飲んだ。

「あの、えっと…………わたし、殺されますか」

「いえ。本当に僕、大丈夫です。全然。さっき人を殺した以外は普通のサラリーマンなので……。あ、そういう……女の子とお近付きになりたいとか、やましい思いもありませんから」

「そうであった方が幾分かマシだったんですけども」

 一体どういうことか。この人は一体どういうつもりで、わたしに危害も加えず、逃げもせずにここにいるのか。ただ男性の顔を見ても、『大丈夫ですか?』と問いかけたそうにしていること以外わからなかった。わたしが大丈夫でないのは10割この人のせいである。


「わたし、わたし誰にも話しません。見逃してください……見逃してください……」

「え? いやいや、それは全然話していただいて」

「は、話していただいて!?」

「人間、嘘をついたり隠し事をして生きていくのって想像以上にしんどいですから。それはもうご自身のために話していただいた方がいいと思うんですよ」


 わたしは深呼吸を数回して、レモンティーを飲んだ。ちらりと『もしかして薬でも入っているのでは?』と疑念がよぎったが、もはや今更だった。

 少しだけ落ち着いて、というか無理やり落ち着かせて、わたしは男性に「どうして殺っちゃったんですか!?」と尋ねる。余計なことを聞けばやはり殺されるかもしれないとは思ったが、このままでは混乱した頭が正常に戻ることはないと思った。一つ一つ不可思議なことを綺麗にしていかなければ気が済まなかった。


 男性は気を悪くした様子もなく、ただ淡々と「僕には妻と娘がいたのですが」と言いながら倒れている人を指さした。

「彼によって殺されたので」

「殺されたというと、その、あの人も殺人犯ですか」

「うーん…………殺人犯、というとどうかな。前に僕が、彼のことを注意して、それは確かイジメの現場に出くわしたからだったと思うんですが、どうやらそれを逆恨みして、彼は僕の妻と娘を、親御さんの車で轢いたようなんですね。『まさか死ぬとは思わなかった』と言っていたので、殺人犯かと言われると、どうか」

 この人の言いぶりだと、相手は年若い男だったのだろう。もしかしたら未成年だったのかもしれない。わたしは近所で学生がそのような事件を起こしたという話を聞いたことがなかったので、あるいはこの辺りで起きたことではないのかもしれない。彼らにとって決戦の場所がここだったというだけで。

「ふ、復讐ですか?」

「復讐……と、いうんでしょうか」

 なぜだか男性はぽかんとして、首を捻る。ただ、と続ける。


「そんな恐ろしい事件を起こす人が今も生きていると思うと、それはとても危険だと思ったので。僕も一応関係者ですし、それなら僕がやった方がいいだろうなと一念発起して実行した次第です」


 今度はわたしがぽかんとして、「へ?」と聞き返してしまった。男性は根気強く「彼が生きているという事実はとても危険だと思ったので、それなら無関係でない僕が、何とかするべきだなと思ったわけです」と話す。わたしは黙って、またレモンティーを一口飲んだ。

「でもそうすると、あなたも殺人犯になってしまいましたし、世界の緊張度的には変わってないですよね」

「とてもいいご意見かと。ごもっともです」

 顎に手を当てしばらく考えていた男性が、『しかしながら裁判長』という趣きで手を挙げて発言した。


「僕の娘は5歳の子だったのですが、あの子の将来の可能性と生産性を考えるに、僕やそこの彼と比べて死ぬべきでなかったということは自明です」

「…………将来の可能性と生産性について言及するなら、確かに娘さんが死ぬべきでなかったということは当然として、そこの彼も別に死ぬべきではなかったのでは?」


 腕を組んだ男性が、「うーん」と唸る。それからパッと手を開いて見せ「それは確かにそう」とうなづいた。わたしは内心、『それは確かにそうなんだ……』と思いながら男性を見る。

 束の間、わたしはまるで親戚のおじさんと話をしているような感覚に襲われ、ふと「奥さんとはどこで知り合ったんですか」などと場を埋めるような当たり障りない話題を口にした。口にしてから、現状当たり障りしかない話題であると思い出す。しかし男性はごく自然な様子で「妻とですか?」と話し始めた。


「彼女は何というか、少しばかり様子のおかしい女性だったので」

「あなたより?」

「この話を人にすると、困惑されることが多くあるんですが」

「すでに一生分困惑したので、まあ……」


 わたしもだいぶ感覚が麻痺してきたのか、彼と話すことに何の抵抗もなくなっていることに気づいた。そんな自分にまた困惑し『まずいぞ、追い困惑だ』と思った。

「僕がハンカチを拾ったんですよ。『ハンカチ落としませんでしたか?』って、歩いていく何人かに声をかけて、やっと見つかった持ち主が彼女でした。そうしたら彼女は、不審そうに『どうして拾ってくれたんですか』と聞いてきて」

「その反応は確かに様子がおかしいですね」

「僕は『もしかしたら僕の知らない間に世間的には女性に声をかけた時点で重罪というほどの風潮になっていたのかもしれない』と思い、慌てて弁解しました」

「なるほど。確かに、ナンパか何かに間違われたのかも」

「『ハンカチが取り返しのつかないことになる前に拾わなければと思いまして』と」

 わたしはとっさに手を挙げて、『これは審議ですよ、裁判長』という思いを込めながら「ハンカチが取り返しのつかないことになる前に?」と聞き返す。男性は面食らった様子で、「ええ、はい」とうなづいた。


「ハンカチでもなんでも、落ちてそのまま放っておくと汚れていくじゃないですか」

「そうですね」

「汚れると、拾われる可能性っていうのはどんどん低くなる。みんな触りたくないから」

「そうかもしれない」

「で、そうなるとゴミになってしまうわけですね。なので僕は、それがゴミになるかハンカチに戻れるかの瀬戸際だったので、慌てて拾ってあげたわけです」


 わたしはちょっと口を開けたまま彼のことを見る。彼はなぜか大きくうなづいて、「その時の彼女もちょうどそんな顔をしていた」と言った。

「でも彼女はすぐに吹き出して、言ったんです。『私のハンカチを助けてくれてありがとう』『ハンカチの代わりに私からお礼がしたいんだけど、このあと食事でもどうですか』と」

 お似合いですね、と口から言葉が転がり落ちる。恐らく、そうだ。この人と奥さんはとてもお似合いな夫婦だったのだ。

 男性は無意識なのか深いため息をついて、「猫みたいに大きな目をした人だった」と呟く。それから、「娘は本当に彼女に似ていたな」とも。


 しばらくして、彼はぽつりと「ああ、なんだ」と言った。

「復讐、でしたね」

 そう吐いた彼は自嘲気味な笑みを浮かべていた。




×× ×× ×× ××




 すっかり震えもおさまったわたしが立てるようになり、彼とはその場で別れた。彼はにっこり笑って「ありがとう。お元気で」と言っていた。

 その足でわたしは交番へ向かい、事の次第を全て話した。彼の言っていた通り、嘘をついたり隠し事をして生きていくのは精神衛生上あまりよくないと思った。

 全て。全てだ。殺人現場を目撃したこと、彼が被害者の男に妻と娘を殺されたのだと話したこと、レモンティーを買ってくれたこと、わたしには何も危害を加えなかったこと。


 街はしばらく騒然となった。警察の人を見ない日がなかった。マスコミも押し寄せた。




 だけれどいつになっても、犯人が捕まったという話は聞かなかった。

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