6 一人ぼっちのジュリエット


 朝まだき、ベッドに男の姿はなかった。身体の痛みは取れて、昨夜のことはまるで夢の中の出来事のよう。部屋に戻って微睡めばいつもの夢を見る。


『私たちは愛し合っているのよ。死んで下さい』

『君がいると彼女と結婚できない。死んでくれ』

『彼はわたくしの婚約者ですのよ、死んで下さいませ』

『あなたの所為であの人は狂ったのよ、死んでおしまいなさい』

『君は私をどうするつもりだ。こんな気持ちはもう嫌だ。死んでくれ』


 仮面を被った者達が現れては毒を吐いて行く。死んでくれろと。

 私がいなければ、私がいなければ、私がいなければ……。


 もう分からない。どちらが夢なのか。

 どちらでもよい。私は今宵死ぬのだから──。



 仮面舞踏会が始まる。

 ジュリエットは私。

 いいえ、違う。

 私と同じ仮面をつけたジュリエットが、何人も私の側をすり抜けて行く。ロミオ、ロミオに向かって歩いて行く。仲良さそうに腕を組んで。

 私のロミオはいない。

 一人ぼっちのジュリエット。

 毒を呷っても、剣で胸を刺してもひとりぼっち。

 私はひとりで、独りぼっちで死んでいくのね



 ひとりで佇んでいると、ロミオの扮装をして仮面を被った男が現れた。少し恰幅のよい身体、金の髪に仮面の奥の青い瞳。

「昨夜は何処に行っていたんだね」

 男が咎める。ロミオの扮装をしてアイゼンエルツ公爵の声で。

「え……」


 昨夜、あの男は何と言ったか──。

『お前は今夜、公爵のものになる予定だった』


「い、いや、君の姿を見かけたような気がしたのだ」

「眠れなくて散歩に出ていましたの」

 案外スラスラと答えが口から出る。

「そうか」

 こんな特技が私にあったかしら。

 そういえば薬草を黙って採りに行った時とか、出来た薬を黙って手元に取り置く時とか適当に答えている。誰も疑ったりしない。私の事など。


「エルーシア」

 ロミオの格好をして仮面をつけたモーリッツが現れた。公爵と同じ声の男は青い瞳を眇めてどこかに行った。

 モーリッツは男の後姿を見送り、おもむろにグラスを差し出す。

「飲まないかい、ジュリエット」

 今日は優しい声をしている。アリーセはどうしたのだろう。先程のジュリエットとロミオは何処に行ったの。私はまだ夢の中にいるのか。


 モーリッツからグラスを受け取った。

 これは毒だろうか。モーリッツの手が微かに震えている。

 毒をくれるのか。これを飲んで死ぬのか。私は──。

 グラスを覗き込むと液体が揺らいでいる。私の手が震えているのだ。この期に及んで心が震えている。あの暖かさが欲しい。もう一度欲しい。もう少し──。

 毒消しは、もう、ない──。


「きゃあーーー!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。会場がザワリと揺れる。

「死んでいる!」

 誰が──。どうして。私ではないの?


「モーリッツ!」

 兄のパトリックが騎士を連れて来た。

「飲むな! そのグラスをこちらに、エルーシア」

 兄と一緒に来た騎士がモーリッツを拘束する。兄は私の持っているグラスを奪い取った。

「裏庭で死んでいた奴はアリーセの従兄弟だそうだ。先程アリーセが殺された。お前が殺したのか、モーリッツ」

「ふ……あはは……、私の秘密を知って、アイツはグローセン伯爵家に納まるつもりだったんだ。従兄弟と共謀して、私を脅して──」

「モーリッツ様……?」

「みんな殺してやる。みんな死んでしまえ──、お前もだエルーシア。ククク……、ははは……」

 私に手を伸ばそうとしたモーリッツは、騎士に取り押さえられ両腕を捕縛されて連れて行かれた。


「お兄様」

 兄のパトリックが私の側に来て小声で言う。

「あいつは男色家だ」

「え」

「女には勃たない。アイゼンエルツ公爵がそれを利用してお前と娶わせて──」

 不意に私を見る公爵の目付きが甦る。目を細め、ねっとりとした獲物を見る目付。側に居る公爵夫人の冷たい声。

『薬草の臭いがする辛気臭い子──』

「お前の作る薬を誰にも奪われまいと、公爵が──」

 何が起こっているの。私は──。



「おや、私のジュリエットはここに居たのね」

 騎士の間をすり抜けて、こちらに向かうロミオが──。誰?

 こんな男は知らない。金の髪青い瞳の中背の男は、私の手を掴んでどこかに連れ去ろうとする。冷たい手だ。

 男に手を引かれ、ぼんやりと見る。この男に殺されるのか。


「エルーシア!」

 黒髪の男が急ぎ足でこちらに来る。黒い騎士服、黒い仮面の男。

「アダルムンド様……」

 私は立ち止まった。

 男は真っ直ぐこちらに走って来る。腰の剣に手をかけた。

 唇を引き結んだ怖い顔だ。私は彼に殺されるのだろうか。

 彼の目線は私の後ろにある。振り向くとロミオが腰の剣を引き抜き私の身体に手を伸ばす。金の髪、青い瞳のロミオが──。


 アダルムンドは私の側まで走って来て、腕を掴んで引き寄せ、剣を引き抜いた。

「ガキン!!」

 男の後ろに庇われている。細身の剣が、アダルムンドの剣で受け止められた。彼はその剣を、持っている者と一緒に弾き飛ばした。

「ぎゃああーーー!!」

 飛ばされた相手が転がって床に手をつく。持っていた細身の剣が弾かれて床に落ち、クルクルと回って騎士のひとりが取り押さえて回収した。


 床に手をついている金の髪のロミオが、キッと顔を上げてこちらを睨んだ。公爵と同じ青い瞳、赤い唇、男装をした女性だ。

「オディリア様……」

「くっ……、見下げていた女と同じ……、いや、それ以下になるなんて、奪われてしまうなんて、わたくしは許せない!」

 アイゼンエルツ公爵令嬢オディリアは騎士達に引き起こされ、両手を捕まれ悔しそうに喚いた。

「愛してなんかいない、あんたみたいな男なんか。エルーシア、お前みたいな女なんかに、このわたくしが負けていいわけはない……!」


 私を庇って前に立つ男が低い声で言う。

「聞け、オディリア。あの日、俺は公爵と話し合って婚約の破棄をもぎ取った。公爵は四の五の抜かして、最後にサインした書類を前に毒杯を差し出した。俺は毒杯を呷って、あの日死んだ」

「何故、まだ生きているの!」

 オディリアの声は悲鳴に近い。

「エルーシアの薬のお陰だ」

 男は私を引き寄せニヤリと笑う。


「生まれ変わった俺は、エルーシアに会いにここに来た」

 黒騎士の扮装をしたアダルムンドはオディリアに冷たい声で告げる。ロミオの衣裳を着た令嬢はまだ何か言おうとしたが、騎士達に引き摺られて行った。

 アダルムンドは私の正面に立ち、両肩を掴む。

「俺は、もう一度会って、そうだ、もう一度会えば分かると思った。いや、ただ会いたかった、エルーシア」

「アダルムンド様……」



「オディリア……」

 黒髪の公爵夫人が現れる。手に扇を持って口元を隠して。

「わたくしの子など、どこにも居ない」

 公爵の子供は側女の子供ばかり。正妻の子は早くに亡くなった。

「アイゼンエルツ公爵夫人」

 兄の横に、この城に来る時に裏庭で会った王国第三騎士団のラインツ団長が、ぞろりと騎士を従えてきた。

「アイゼンエルツ公爵閣下は、すでに第一騎士団によって拘束されております」

「すべてお話しますわ。公爵が企んだ悪事の数々も、この女を手に入れようと男色の男を宛がった事も、この女の作るものがどれほど価値があるかも──、すべて」

 公爵夫人は騎士に囲まれ去ってゆく。

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