4 狩りは始まっている
モーリッツは私をエスコートしない。私とダンスを踊らない。夜会の前からぎくしゃくしている。私は壁の花になって、カーテンの陰にひそと身を隠す。
ホールに戻って来た黒髪の王子が私を見つけて、そっと陰に隠れ側に寄り添う。
「エルーシア、君は何であんな男と婚約しているのだ」
「え、公爵様が決められたのですけれど」
男の咎めるような言葉に目を瞬く。
「もしかして、お薬を差し上げたからそんなことを仰るのでしょうか? 薬なぞ誰でも作れるのでございましょう、お気にされなくてもよいのです」
「そうではない。確かに俺は救われたがそれだけではない」
その頃の私はまだほんの子供で、薬ばかりを弄っている私に婚約者が出来ようとは、それが優し気な方で少しばかりホッとしたのだけれど。この方のように男性っぽくて怖いと思うような方ではなくて。
今、こんなに側に居て怖いとも思わないのは、この方が体調を崩していた時に接した所為だろうか。大きな体に触れると温かくて、怖いと思うよりも治って欲しいと願う気持ちが勝って、あの薬を使ってしまった。
持ち出してはいけないし、勝手に使うと母に叱られるのだけれど。
薬はその日の天候や素材、そして私の体調や気分によって出来が違う。大抵は家人に取り上げられてしまうのだが、思いがけず素晴らしい薬が出来た時は、手放すのが惜しくなって内緒で取って置くのだ。
「俺は君が蔑ろにされているのが許せない」
「でも」
「あんな奴は、あんな奴こそ魔獣にでも喰われればよいのだ」
アレをこの方も見たのだろうか。殺される時は、私もあのように恐怖に顔を歪めて死ぬのだろうか。生きたいと命乞いもするのだろうか。足掻くのだろうか。
「いけませんわ、そんなことをおっしゃっては」
辛くて苦しい時には、そんな言葉にまで縋りたくなる。
いや、私はこの男にそんな言葉を吐かれて嬉しいのだ。この方は私のものではないのに、オディリアの婚約者だというのに。
アダルムンドは私を誘って、陰よりもっと暗い庭園に連れ出す。私の腰を抱きピッタリと寄り添って歩きながら、明かりの届かない木立の陰に連れて行った。
立木に私の身体を押し付けて囁く。
「俺は諦めが悪いんだ」
顎を持ち上げられて暗い瞳が覗き込む。ゆっくりと唇が近付いて離れた。
間近にある蒼い瞳が心の奥まで見透かすようで俯くと、待っていたように唇を重ねて来た。何をしているのだろう私は。身体ごと持って行かれるようなキスに息が上がる。
「……んんっ……」
手を突っぱね、荒い息を吐いて男を睨み上げると、唇がにやりと歪む。
「きっと君を攫ってみせる、エルーシア」
この前とはずいぶん違う。まるで死にそうな様子だったのに、今は傲岸で不遜でとても危険な香りを漂わせた男で。
アダルムンドは私を抱き寄せ、舌が入ってきて絡む濃厚なキスを仕掛ける。立っていられなくて彼にしがみつくと低い笑い声が返ってくる。男は容赦しない。胸を弄り、腰を撫でさすり、私の身体を弄り秘密を暴く。耳に息を吹き込まれて声が漏れる。
「あっ……んっ……」
「ふ、ここも弱いか、感じやすい身体だな」
彼は私を抱きしめる。獣と樹木と柑橘の香りに包まれた。
もう一度、貪るようなキスをして、アダルムンドは離れた。
私を夜会のホールの元居た陰の場所に連れ戻してどこかに消えた。嵐のような出来事に頭の方が追いつかない。
私は恋に酔っているのだろうか。あんな言葉をかけてくれる人などいなかった。ずっと婚約者に蔑ろにされ、嘲笑されていた。
私はただの普通のどこにでもいるような女だ。私にこんな事が起こるなんて……。
死ぬ前に神様が悪戯なプレゼントを下さったのか。
* * *
お城のような別荘の周囲は入り組んだ池と緩く畝のように続く丘陵、そしてブナ等の森があって理想的な狩場を形成している。
男たちは得物を携え、犬を駆って狩りに行く。
アリーセは遠慮もなくモーリッツに縋り付く。
「気を付けて下さいませね。お待ちしておりますわ」
まるで見せびらかすような、それは私の捻じくれた心の故か。
そして私の横をこれ見よがしに通り過ぎて、黒髪の男の側に行く令嬢オディリア。アダルムンドは青鹿毛の馬を引いていて、あっさり馬に乗って駆けて行く。
私は後ろの方に下がってぼんやりと見ているだけ。私は主役になれない。ただの茶色の髪、茶色の瞳のどこにでもいるような女だ。
ティータイムにはパイやサンドイッチ、焼き菓子とお茶が出た。何も食べる気になれなくて、お茶を少し頂いて談笑の輪の外れにいる。
「あの方、何と仰るの? ほら黒髪の方」
令嬢のひとりが聞く。
「彼はわたくしの婚約者アダルムンド殿下よ」
「まあ、あの方が隣国の第三王子殿下なのね。オディリア様の」
「素敵な方ね、お噂は聞いておりましたけど」
「間近に見ますと男性的というか──」
令嬢達がさざめく。オディリアは勝ち誇ったような顔をする。
昨日の話は何だったのか、私は夢を見ていたのだろうか。
あのキスも、彼の体温も、彼の匂いも、何もかも夢だったのだろうか。惨めに婚約者にさえ蔑ろにされる私の──。
曖昧に笑った表情のまま、ただ時が過ぎるのを待つ。これはいつもの事だ。
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