3 公爵令嬢オディリアの婚約者
「エルーシア」
「はい、お兄様」
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですわ」
兄に心配をかけてはいけない。
どうせ明後日には死んでしまうのだから。
にこりと笑顔を作って兄を狩り仲間の方へ促した。
「君はエルーシアというのか」
「え、どなた?」
兄を送り出して賑やかなサロンの方へ行きかけると、見知らぬ男に声をかけられた。いや、でも知っている。
ゆるゆると流れ落ちる艶やかな黒髪、その奥に瞬く蒼い瞳。背が高くて胸板の厚いがっしりした体躯。この男はこの前体調を崩していた方だ。
また会えるかと思ったけれど、本当に会えるとは、そして私を覚えていらっしゃるとは。
この前は無精ひげを生やしていた顔を、今日は綺麗に髭を剃り美しい衣装を着て、美々しく身を整えている。
「この前の方?」
見違えるほどで確かめてしまう。
「ああ、あの時はありがとう。ご令嬢にあのような迷惑をかけて申し訳ない」
高い鼻梁と引き結んだ唇。低い声。傲慢にあげた顎を心持ち傾げる。
「いいえ、もうよろしいの?」
「お陰様で」
薄っすらと笑ったけれど、優し気なモーリッツと違って獰猛な感じの男。
「君のような美しいご令嬢に、あんな無様な所を見られて残念だよ」
「そうですの。ただの食あたりでしたの?」
彼は私をじっと見て、意味ありげに唇の端を歪める。
「まあね、あの薬はとてもよく効いた」
「それなら、良かったですわ」
男に飲ませたのは我が家に伝わる薬だ。ノスティッツ伯爵家の領地でしか穫れない薬草やキノコ、鉱物や動物の素材を使った解熱剤や胃腸薬、咳止めなどレシピが何種類かあるが、売り出したりはしないで、家の者が使うか、知り合いに譲ると聞いている。
伯爵家に生まれた者は、皆その薬の作り方を子供の頃に教わり実際に作る。
「パトリックはまた逃げたの?」
兄がよく薬作りを嫌がって逃げて、母が溜息を吐いていたのを思い出す。
この男に飲ませたのは解毒薬だった。
男が手を差し出して自然にエスコートして来る。それが当然といった風に、そのままベランダに出た。どうしたんだろう。男の身体に引き寄せられる。感情より先に本能が惹き寄せられる。
「エルーシア、この前君に助けられて、今は君が天使に見える」
「まあ、名前も知らない方にそのような事を言われても──」
首を傾けて言ったけれど、自然と顔が綻びるのはどうしてだろう。
「あら、アダルムンド様」
ベランダの入り口に手を添えて、オディリアが呼びかける。アダルムンド、それがこの男の名前なのか。公爵令嬢が様付けをする。
「オディリア、何か」
男の言葉はぞんざいだ。
「エルーシア様、その方はわたくしの婚約者なの」
宣言するようなオディリアの赤い唇。私を捕らえるきつい眼差し。
「婚約は白紙になった」
男の言葉はすげない。
「アダルムンド様に、父が話があると申しておりました」
「分かった」
アダルムンドは私達に背を向けて行ってしまう。
公爵家の姫君オディリアの婚約者は隣国の第三王子アダルムンド・フォン・セディーン殿下。隣国の方ゆえ、私はお顔を知らなかった。二人の婚約は少し前で、お披露目は隣国の王位継承争いでゴタゴタして行われなかった。
第三王子は騎士として戦線に立ち、広大な隣国を駆け回っているという。休む暇もないとかで、この国には殆ど来られない。噂話に黒獅子のように勇猛果敢な王子だと聞いた。
まこと獰猛そうだが、黒い鎧を着て青鹿毛の馬に跨り、黒髪を靡かせ疾走するという姿は、きっと美しいだろう。
「エルーシア様はあのような男が良いの? 粗野で下品な男ですわ」
「さようですか」
仮にも隣国の王子であるお方を──。
「わたくしの婚約者ですの、あなたに熨斗を付けて差し上げてもよろしくてよ」
持った扇で私の胸をポンポンと叩いて言う。
「あの男もモーリッツと変わらない、それ以上に遊び人よ」
私の顔を見る。目を細めて赤い唇が歪む。
「ふふ……、可哀そうなエルーシア」
笑いながら行ってしまう。
何が可笑しいのか、人を甚振って嗤う。人を傷つけて自分も傷ついて。
人の心は分からない。自分の心さえ分からない。
「エルーシア様」
今日は良く呼び止められる。振り向くとミスティピンクの髪と甘やかな香りのルツィン男爵令嬢アリーセがいた。ひとりで。モーリッツと一緒ではないのか。
「何か……」
「わたくしお願いがございます。モーリッツ様を自由にしてあげて下さい」
物語のセリフのような。私はどう答えればいいのだろう。
「モーリッツ様はすぐに自由におなりです」
そう、明後日には私は死ぬのだから。
「わたくしは長いこと我慢してきましたの、もう我慢できませんわ」
我慢をしたのは私も一緒だ。でもそんな事、この方には分からないだろう。
「もういい加減で……、わたくし辛くって……」
捨て台詞を投げつけてアリーセは走って退場する。可愛い人。涙を味方につけて、私はごく普通の女だから何も味方にならない。
ひとりでその場に佇んでしまう。どうしよう、何処に行けばいいの。まるで迷いの森にいるようだ。
「エルーシア、今アリーセが泣いて走って行った。どうしたんだ、何を言った。アリーセに何をした」
最後はモーリッツか。
「何も」
この人に何を言えばいいというのか。人の思い込みに抗う術があるのか。あなたの目で見る私は、さぞかし醜悪なバケモノに見えるのでしょうね。婚約者に縋って捨てられまいと、可愛い恋人にまで意地悪をするような女に。
「君という女は見損なったよ」
もうどうでもいいのだ。私は明後日死ぬのだから。
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