2 別荘の裏の死体


「エルーシア」

「ああ、モーリッツ様。もうそんなお時間でしたの?」

 ぼんやりと男の事を考えていたら時間が経ったようだ。

「帰ろうか」

「はい」

 どうしたんだろう。モーリッツの顔を見ても何も感じない。あんなに苦しかったのが嘘のよう。あんなに思い詰めていたのが嘘のよう。

 帰りの馬車の中、あの女の移り香がいつもは悲しいのに、今は気持ちが悪い。もどしてしまいそうに、側に近付きたくもない位に、気持ちが悪い。

 私はハンカチを出して口元を覆う。


「あの、モーリッツ様」

「何だい、エルーシア」

 疲れたような気怠いような声。あの女の香水が絡みついた身体。

「もしよろしければ、私──」

 私は何を言おうと……。今更、覆るはずもないのに、全て承知したことなのに。言葉が勝手に転がり落ちる。

「身を引いてもよろしいのです」

「エルーシア?」

「よい方がいらっしゃるのであれば、その方と──」

「君はどうなんだ。誰か居るのか、急にそんなことを言い出して、誰か気になる奴でも出来たのか」

 微かに侮蔑を含んだような声。この人は私の事をつまらない女だと思っている。

 濃い茶色の髪と茶色の瞳の目立たない大人しい私を。

「貴族では、もう君の相手になる男はいないだろう」

「分かっております」

「エルーシア」

 男の手が伸びる。この臭いで触られるのは嫌。力いっぱい押し退けて扇を広げた。どうせ腹立ちまぎれに触ろうとしただけ。

「お戯れはお止め下さい」

 モーリッツは唇を歪めて顔を背けた。この人のそんな顔は知らない。


「君はもっと大人しい人だと思っていたよ。残念だな」

 それはどういう意味でしょう。

 私はあなたを優しくて優柔不断な方だと思っていた。だからあの方の誘いを断れないのだと。でもそれは違うらしい。どちらが言い寄ったのか誘ったのか、でもそんなことはもうどうでもいいのだ。

 私だって、こんな自分は知らない。



 苦しげな男の背中が甦る。

 背中をさすって落ち着いたら、男に水差しとコップを渡して、口をすすいで、リネンを出して、私のなすがままになる男。毒消しの薬を呷るように一息に飲んだ男。一体何を飲んだつもりになったのか。

 緩く波うった黒髪が額に一筋二筋張り付いていて、その奥の暗い蒼い瞳が私を見る。頬に生えた無精ひげ、その顔で夜会に来たのだろうか。血の気の失せた唇が少し開かれて濡れている。


 やがて男は立ち上がろうとしたので手を貸した。私の手に掴まり、私の肩に手を回す。大きな手だ。少しよろけているので支える。男はゆらりと立ち上がると、ふらふら歩きながら夜会の会場から去って行った。

 ありありと思い出す、男の臭いを体温を大きな手を。コレは何だというのだ。

 短い、ほんのわずかの時間だった。それなのに私の根底を揺るがす。

 モーリッツに対して後ろ暗いと思う、この心は──。



 私は、仮面舞踏会で殺されるんじゃない。

 私は自分で死ぬのだ。死にたかったのだ。



  * * *


 ノスティッツ伯爵家はアイゼンエルツ公爵家の分家で親戚筋に当たる。公爵家と王家は何代かを経て王家の姫君が降嫁されたり、また、公爵令嬢が王家に嫁した。

 この国の王位は男系男子が継ぐので、公爵家は王位継承権を持たない最有力貴族であった。公爵はこの事を不満に思っていると聞いた。目立たない私の側では人は不用意に口を滑らす。



 三か月後の秋、公爵家の別荘には、私より三つ年上の兄のパトリックと一緒に行った。両親は少し遅くなるという。

 モーリッツとはあれから会っていない。

「どうしたエルーシア。モーリッツと喧嘩したのか」

「少し……」

「お前がそう言うのは珍しいな」

 兄は私の方を見て少し笑う。そうだ、いつもなら私はいいえとか、何もとか返事をしていた。

 快活な兄は行動的だ。

「そうだな、いくら公爵家の決められた話とはいえ、今の状態は良くないと思う。父上とも話をしてみよう」

「はい」


 モーリッツとの婚約は破談になってもよいと思うようになった。どうせ私は薬草臭い辛気臭い女なのだから、彼は自分の思う人と結婚すればいいのだ。目の当たりにしなければ心が傷付くこともない。そしてあの男の事を考えていれば。

 何処の誰とも知らない男の事を──。

 小さな頃は兄の後を追いかけて伯爵領の野山を走っていた。野山を駆けて薬草やらを取って薬を作っていればいい。私にはそれしか取り柄がないのだから。



 お城のような別荘に着くと馬車が一杯で騒がしい。いつもの狩りにしても人が多い。毎年行く慣れた別荘だったので、馬車は人ごみを避けてお城の裏手に回る。


 裏口近くに行くと騎士が何人もいて誰何された。

「止まれ、誰だ!」

「ノスティッツ伯爵家のパトリックとエルーシアだ」

「何故こちらに」

「馬車が混み合っていて正面からでは入れないので、こちらに回ったのだ」

 騎士達はまだ馬車を通そうとしない。兄は如才ないが、そろそろこの騎士たちの態度に苛立っている。

「何事でございましょう」

 私が兄の後ろから聞くと、殺気立った騎士団も少し頭を冷やした。

「こちらには死体があるのだ。ご令嬢に見せて良いものではない」

 言われてみれば、騎士たちの間に盛り上がった物体が見える。

「ひっ」

 私は一目見て顔を背けた。令嬢の反応に、騎士たちがそれ見たことかといった顔をする。留飲を下げたようで少し丁寧な対応になった。


 狩りの前日に、惨殺死体が発見された。

「ずいぶん傷んでいるな。魔獣に喰われたのか?」

 兄が聞く。

「我々は魔獣を追い払って、魔除けの石を設置していたのだ。それでこれを見つけた」

「明日から狩りだが」

「魔獣は全て追い払った。問題ない」


 私達はお城の裏手の庭園から回ったので、まともにその遺体の横を通った。

 とても惨い、体中が魔物に喰われて恐怖で飛び出した瞳、血まみれの身体。千切れそうな腕。開いた口から迸る血と何か。まざまざと見てしまった。

「お知り合いであったら教えていただきたいが」

「知り合いではない」

 周りにいた騎士が布を持って来て死体に被せる。

「狩りの前にこんな事があるとは」

 兄の顔色は蒼ざめている。


 騎士達の後ろから上官らしき男が出て来て行けと合図した。

「ノスティッツ伯爵家のご兄妹は存じ上げている。早く行かれよ」

 知り合いらしく、兄は馬車を降りてその男と話し始める。

 あの男は確か王国第三騎士団のラインツ団長だった。薬が足りないとかで直接私の所まで来たのだ。私を見て驚いて、しどろもどろになっていた。薬を作る若い娘などいないと思っていたのか。辛気臭いとはよく言ったものだ。

 今は団長らしくきびきびした感じの分別のある年上の男に見える。


 兄はラインツ団長と話を終えると馬車に戻った。私達は会釈をして馬車を急がせ裏口に着いた。

「貴人が来られるとかで警備が物々しいそうだ。何事もなければよいが。……それにしても、あの死体は──」

 兄の貴人という言葉であの男を思い出す。騎士だったら護衛か何かで来ているだろうか。また会う事があるのだろうか。


 少し心が騒ぐのはどうしてだろう。

 あのような死体を見たことよりも心が怪しく揺れる。

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