レモン味のタブレット
――タバコ吸いてえ。
机の天板に両のかかとを載せたままという行儀悪い姿勢のまま、
同室生の
高校の男子寮に起居する黒川
もともと習慣というほどの喫煙頻度ではなかったとはいえ、たまにふと吸いたくなることはある。思い起こしてもどうにもならない過去のことでいろいろと感情が止まらなくなったときとか、何人かの女子を思い起こしたときとか。
同室者とは対照的に、女子に対しては不愛想で知られる黒川だが、それでも異性に好意を持ったことが皆無ではない。しかし相手に気持ちをはっきり伝えたことは一度もなかった。そこまで気持ちが盛り上がる前に、疎遠になったり転校することになったり、ばかりだった。なにより、自分の感情が女子に伝わった後のことがどうにも想像できなかった。己が女子向けの男ではないとは自覚していたし、自分に好かれて喜ぶ女子がいるとも思えなかった。
黒川は自身の顔にはたいして興味はないものの、客観的には、よく見れば線が細く、造作そのものは悪くはない。麗人などは「オレの次くらいにはいい男だね」とぬかす。体つきも細い。しかし、迷彩模様やカーキ色の衣服をだぼつかせ、高確率で眉間にしわを寄せ、どうかするとサングラスまで着用し、話しかけてきた相手に「あぁ?」と反応する男は、どう考えても恋愛に向いてないだろうと、自分では思っている。
そもそも、つき合うって楽しいんだろうか。なんだかわずらわしいのだが。いくらなんでも体だけじゃまずいよなあ。かつて同室者にそうたずねてみたら、「なんてカワイソウな男なんだ」といわんばかりの顔でしげしげと見られてしまった。同室者ながら失礼な男だ。それとも、あの男の異性マルチタスクっぷりを見ていてげんなりしてくる、自分の感性がおかしいのだろうか。
しまった、あっちの服の中だ。黒川は軽く舌打ちした。煙草をやめた黒川は、かわりにときおりタブレットを口にする。ミント味がお気に入りだ。が、今はわずか数歩の距離が面倒でしかたない。こっちに買い置きはあるにはあるのだが……。机の引き出しを引いて、確認する。やっぱり。取り出した平たいプラケースには、みずみずしいレモンの果実が描かれたラベルが、存在を主張している。
すっぱいんだよなあ、これ……。
無言のままレモン味タブレットのケースをもてあそびながら、黒川は脳裏に、
――麗人の中学時代の友人に、
「よう。……この天気で傘持って来ねえなんて、ばかじゃねえのか」
場の空気の処理に困った黒川は、つい、そう口走ってしまった。さっきまで明らかにしょんぼりしていた綾子は、きっ、という表情で、黒川をにらみつけてきた。
「とられたの! お店入ってる間に! 傘立てから!」
……黒川は
「…………そいつぁ、……気の毒に」
ほかにどう言いようもなかった。そりゃ腹も立つわな。黒川は、気まずく頭をかくと、広げたままの傘を、つっけんどんに綾子に突き出した。
「持ってけ。おれ、これからバイトで、送ってやれねえから」
「え……でも」
さすがに綾子の表情が、戸惑いに変色する。
「岬井にでも、預けといてくれ。バイト先、すぐそこだし、帰りはそこで傘借りるわ」
「ちょっと……」
ああ、落ち着かねえ。黒川は、綾子の手に傘を無理やり押しつけ、厚く重い雲の彼方から注ぐ雨粒の下へ、身をひるがえした。すぐそこというのはいささか誇張で、数分間走る必要があったが、あのままあそこに立ち止まっているよりずっとよかったと思う。バイト上がりにもまだ降っていたので、傘を借りた。破れが目立ち、骨も曲がっていて、返さなくていいから捨てといてくれと店長に言われるようなシロモノだったが、ないよりマシだった。帰路にちらっとのぞいたら、さすがに綾子はもういなくなっていた。何時間も経っているから当然だが。
翌日に一馬から連絡があり、黒川はこの日もバイトだったので、月曜の放課後に会うことにした。街角のカリマンタン・カフェに行くと、一馬と綾子が待っていた。綾子は黒川に礼を言って傘を返し、小さな紙の包みを差し出した。了承を得て包みをひらくと、レモン味のタブレットのプラケースが出てきた。ごくありふれた、どこの店でも買える品だった。彼氏にいらん感情を起こさせないための配慮が働いた選択なのだろう。あるいは彼氏と一緒に選んだのかもしれない。黒川も礼を言って、ポケットに押し込み、その後はあえて綾子を意識から締め出して、一馬にばかり話を振った。
綾子は退屈そうだったが、礼儀正しく無言をたもって、おとなしく座っていた。そんなふうに――おとなしい女子だと、黒川は思っていた。一見ふわっとした印象で、まあまあかわいらしい顔立ちで。ショートヘアを少しのばしたくらいの髪。胸はやや小さいように思う。しかし、あんなに気の強い一面があったとは。紹介されただけではわからないものである。ひとしきり話し終わって店を出ると、3人は二方向に別れて立ち去った。帰り道で黒川は、もらったプラケースを引っ張り出し、ひと粒口に入れてみた。想像はついたが、すっぱかった。寮に帰ると、机の引き出しにしまった。
すっぱいのが苦手というわけではないが、好きでもない。すっぱいことがわかっていて、黒川はときどきレモン味を食べる。そのたびに、すっぱいとこぼす。当然ながら数に限りがあるので、春になる頃には食べ尽くした。その後もときどき気まぐれを起こして、レモン味のタブレットを買う。買うメーカーはいつも決まっている。そして気まぐれを起こして口に入れる。すっぱいことはわかっているのに。
……そんなことを回想しながら、黒川はレモン味のタブレットのケースを、しばらくながめる。どうせすっぱいんだろうと、手の届かないブドウを前にしたキツネのような、開き直りが頭をよぎる。逡巡した後、黒川は手首のスナップをきかせてプラケースを振る。飛び出した小さな粒が、口の中に飛び込む。もぐもぐと口を動かした後、普段よりも眉をしかめて黒川はつぶやくのだ。
「すっぺ」
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