エレベーターとアボカド

 私は一日の仕事を終えて、皴の入ったスーツの汚れを払いながらエレベーターへと向かった。エレベーターの白い扉が開き、疲れ切った自分の表情が鏡に映っている。

しかし、そこには安堵の感情も含まれている。これで家に帰ることができる、という感情と疲労の入り混じった変な顔だった。明日は休みだ。あの上司たちの小言を聞く必要もなくなる。それは何よりも今の私が望んでいることだった。


 私の働いているオフィスは都市の中でも最も大きいビルにあり、五十階まである。私のいるオフィスは四十七階にあり、これから地下駐車場まで降りなければならない。私は空っぽのエレベーターに乗り込んだ。ふぅと一息ついてネクタイを若干緩める。ゆっくりとエレベーターは降下を始めていった。


 暫くしてポーンという音と共にエレベーターは止まった。四十二階、ここからが私の地獄の始まりだった。エレベーターに入ってきたのは、いかにも会社の役職持ちといった感じの中年のおじさんが二人。なぜかお互いスーパーの袋を持っていた。

私は隅の角に体をはめ込むようにもたれて、二人にスペースを譲った。扉が閉まり、再びエレベーターという逃げ場のない空間は動き出した。


 エレベーターが動き出してからほぼ同時、二人のおじさんは何気ない動作でスーパーの袋からアボカドを取り出し齧りだした。私は唖然とした。なぜアボカドなのか、とかなぜ今食べるのか、とか具体的な質問にまでたどり着くことすらできず、『え、何?』と困惑するしかなかった。


 私が目と口をぱっくりと開けて呆けている間も、おじさんたちは特になんともないようにアボカドをほおばり咀嚼している。何をしているのか分からなかった。常識を逸した行為だが、特に悪いこととも私は思わなかったため、なぜだか注意することも躊躇われた。


 ただ、できるだけ速く地下駐車場にエレベーターがたどり着くのを願っていた。

 

 ポーン。三十一階。エレベーターが止まった。私は安堵した。この異常な空間に一対二は精神的に悪かった。新しい人が来れば、おのずと数は優勢になって、自分の正当性を確認することが出来る。


 入ってきたのは、またしてもおじさんだった。しかも、四人。そして各々スーパーの袋を持っている。『まさか?』とは思った。


 そのまさかだった。エレベーターが動き出すやいなや、その四人もアボカドに齧りついた。元からいた二人は二つ目のアボカドに取り掛かっている。私は隅で肩を狭くしていた。


 私は思った。おかしい。明らかにこれはおかしい。しかし、『おかしいのは自分なのか?』そんなことが一瞬頭をよぎる。『いやいや』と私は頭を左右に振った。おかしいのはこの人たちだ。エレベーターの中でアボカドを食べるなんて異常なことに違いない。


 私は彼らの合間を縫って、適当な階のボタンを押した。それをおじさん六人から訝しい目で見られた。私は何も悪いことはしていないはずだが、なんだか悪いことをしているみたいな気持ちにさせられた。なぜ私がこんな気持ちにならなければならないのだ、と憤る気持ちも生まれてきた。


 だが、次エレベーターが止まった時には、私はこの不気味な空間から解放されるのだ。私はそう思いエレベーターが止まるのをじっくりと待ち望んだ。


 ヴゥヴゥウウーン。ポーン。


 十四階。エレベーターが止まった。扉が開く。これで、私は解放される。そう思い私が一歩踏み出した時だ。なだれ込むように十人ほどのおじさんがエレベーターの中を侵略してきた。私はうろたえてその一歩を引っ込めてしまった。誰かが扉を閉めるボタンを押した。


「扉が閉まります」


 無慈悲な機械音声のアナウンスが私に絶望を告げた。なぜなら、なだれ込んできたおじさんたちもまたスーパーの袋を雨の日の傘のように携えていたからだ。エレベーターよ、動くな。そう思ったのは人生で初めてだった。


 私の思いも虚しくエレベーターは動き出した。そして、狭苦しい密室空間の中で一斉にアボカドの食事会が始まった。まるで携帯の着信を確認するような手軽さで各々アボカドを手にし、周囲の目など気にする素振りなど一切見せず、エレベーターの中で淡々とアボカドを食す男性総勢十人以上。私は冷や汗まみれになっていた。

おかしい。これは、おかしい。なぜアボカドを食べるのか。それもエレベーターの中で。私以外の人間が。


 私の精神はどんどん不安定になっていく。エレベーターには青臭いアボカドの匂いが充満している。吐き気がしてきた。私はいよいよ限界を迎えそうになっていた。

そこで、私は思いついた。『これはきっと何かのイベントに違いない』と。でなければ、こんなことがあり得るはずがない。そうだ、ありえないのだ。こんなこと!

私は勇気をもって近くにいた男性に小声で聞いた。


「失礼ですが、皆さんはなぜアボカドを食べているのですか?」


 しかし、返ってきたのは私の望まない回答だった。


「逆に聞きますが、あなたはなぜアボカドを食べないのですか?」


 その声はエレベーターの中によく響いた。総勢十人以上の眼光が私に突き刺さる。私はパニックになった。自分の中にある常識や、正当性が崩れていく音がした。複数の視線に射抜かれて、私は泣きかけの顔で何も答えを返すことが出来なかった。そんな私にその男性はアボカドを差し出して、私に握らせた。


「いいですか? エレベーターに乗っているときはアボカドを食べる。これは幼稚園

児でもやっている常識的なことです。当たり前のことなのです。だというのに、あなたはそれを意図的にしないどころか、そもそも知らないと見えます。それでは社会人として大恥をかいてしまいますよ。だからあなたもアボカドを食べなさい。これは普通のことなのです」


 男性はまるで子供を諭すかのように私に語り掛けた。私は力なくアボカドを手にして、小さくうなずくだけだった。

 ポーン。エレベーターが止まった。男性はもう一度私にアボカドをしっかり握らせて、


「いいですね?」


 確認するように言って、他のおじさんたちと共にぞろぞろとエレベーターから出ていった。私は独りエレベーターにとり残されてしまった。手に握らされた薄緑の食べ物を見る。これをエレベーターの中で食べるのが常識? そんな馬鹿な。夢でも見ていたんだきっと。ありえない。なぜ私がこんなことで、こんな思いをしなければならないのだ。


 エレベーターは地下駐車場に確実に向かって動いている。エレベーターの中につけられた防犯用の監視カメラの存在を思い出す。私がアボカドを食べていないのをまだ誰かに見られているのだろうか。そう考えると、まだあのおじさんたちの視線が私に向いているような気がしてきた。


 私はアボカドを齧った。独特の触感がする。青臭い味がした。また齧った。これが普通、常識なのだ。私は今、正しいことをしているのだ。間違いない。


 ポーン。地下駐車場。エレベーターが止まった。扉が開いた。扉の先にいた若い男性が私を見て、驚いた様子で言った。


「なぜアボカドを食べながら泣いているのですか?」

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