【10.惜別】

 “旅立ちの儀”と聞いて、キララは複雑な魔法陣やら長々しい呪文やらを使った仰々しいモノを想像していたのだが……。


 「では、キララ。そこに立ってしばらくじっとしていなさい」

 星空の見えるバルコニーに連れ出され、そう言われて従うだけだった。


 動きを止めた数秒後に、身体から“何か”が抜け出すのを感じる。

 気配を感じて右を向くと、すぐ隣に今の自分キララとそっくりな、半透明な少女が傍らに立って──いや、床から十数センチほど浮かんでいるのがわかった。


 「言い残すことがあれば、それくらいは聞くが?」

 『ありがとうございます。まず、貴方に対しては「一年間お世話になりました」と言わせていただきます』

 「なに、気にすることはない。これは正当な契約だ」

 冷静な口ぶりだったが、キララには主の表情が僅かに照れているようにも見えた。


 『そして、キララさん。本当にありがとうございました。貴女のおかげで、さしたる心残りも持たず、わたしは彼岸へと旅立つことができます』

 「あはは、どういたしまして。旦那様風に言えば、私の方も「正当な契約」でしたから」

 『それでも、です』

 少女メイド(の魂?)はキララの体に抱きつき、ギュッと抱き締める。

 実体がないはずなのに、暖かさを感じる抱擁だった。


 数秒後、キララから離れた少女は、死神悪魔の近くへ行くと、耳元で何かを囁く。

 「──それは……可能ではあるが、本人の了解が必要となるぞ」

 『なら、聞いてみてください──たぶん、答えはわかりきっていると思いますけど』

 ちょっぴり悪戯っぽい笑みを死神悪魔、そしてキララにも投げかけると、そのまま少女メイドの霊体は夜空へと浮かび上がっていく。


 『ではお二方、さようなら。いつの日か輪廻の輪の向こうで再び出会えることを祈っています』

 満月の光がスポットライトのように収束し、少女に降り注ぐ中、彼女はその光に溶けるようにして姿を消したのだった。


 「行っちゃいましたね……」

 「ああ」

 残されたふたりは、しばし別れの余韻に浸っていたが、やがて珍しく緊張したような貌で、主たる男が、キララと呼ばれる少女に向かって言葉を投げた。


 「これで、君との契約条件も満たされたことになる。一年間、ご苦労だった」

 そう言葉にされて、キララはこの泡沫の夢の“終わり”が近づいていることを改めて実感した。


 「“報酬”としては当初は「大手ハウスクリーニング会社の正社員」と「人気食堂の調理師」のふたつの立場を用意していたのだが……」

 いったん言葉を切った死神悪魔は、心の中で何かに迷っている、いや躊躇っているようだった。


 「? 旦那様……?」

 「(我らしくもないな)コホン、実はもうひとつ選択肢アテができた──君さえよければ、このままこの屋敷で働かないか? もし望むなら、その状態すがたのままで」


 それは、心のどこかで彼女キララも望み──しかし「これは一年だけなのだ」と諦めていた未来みちだった。


 「ただし!」

 一も二もなく首を縦に振ろうとしたキララを制止するように、主は声を大きくする。

 「あの娘からも聞いたと思うが、契約に際しては代価が必要だ。“働き先”の方はこの一年の報酬だからよいが、「そのメイドの姿のままでいる」ことを選ぶなら──“敏明”という名は我に捧げてもらうことになるぞ」


 生まれた直後に付けられ、そのまま現在に至るまでの20数年間の自分自身の証ともいえる“名前”を捨てる──いや、捧げるというのは、神魔と関わる裏の世界でも、かなり重い対価だと言えるだろう。


 そちらの世界の事情には疎い(多少はこの一年でヴィオレッタなどから聞いていたが)キララにも、主の口ぶりから極めて重大な結論を迫られていることは、理解できた。


 それに対するキララの答えは──。

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