【9.“日常”という名の非日常の終わり】

 山奥の屋敷では、変わり映えのしない──されど穏やかな日常が紡がれていく。

 キララが主となる死神悪魔との契約を結んだのが春先、桜の蕾がほころび始めた頃合いだったが、それから季節は春・夏・秋・冬と流れうつろい、今再び春の足音が近づいてきていた。


 少しずつこの屋敷に溶け込み、しっかり者の少女メイドとして他の者からも頼りにされるようになったキララだが、彼女──否、“彼女”の中に融合している“少女”が冥府へと旅立つべき時が目前に近づいていた。

 そしてそれは、“彼”──雲母敏明が、死神悪魔と交わした契約の満了も意味していた。


 その日、いつも通りに主を見送ろうとしたキララだったが、その主本人は、玄関から出る前に彼女の方へと向き直り、(少しだけ躊躇しながら)重大な事柄を告げた。


 「今日は帰りが遅めなので、夕飯の準備は不要だ。

 それと──今夜、あのの魂が旅立つ。必要なら、それまでに別れを済ませておくように」

 「!! ……はい、旦那様」

 先程までのにこやかな笑みを消し、厳粛な表情になったキララは、叫び出したい気持ちを堪えて短い返答だけを口にした。


 望むなら今日は仕事をしなくてもよいと言われたが、キララはそれを固辞して、「いつも通りのメイドとしてのお仕事」に励むことを望んだ。


 “旦那様”の寝室のベッドメイクと清掃を済ませ、二層式洗濯機にかけた洗濯ものを裏庭に干し、少し散らかり気味の台所の整理と掃除を行う。


 ありあわせの材料で昼用の賄いを作り、それを厨房のテーブルで食べる。


 昼食後に食休みを兼ねて、執事兼運転手の伊野樹(ミイラ)や司書メイドのヴィオレッタ(バンシー)、さらにキョンシーの門番リンフォウまで招いて、お茶会めいた集まりも催す。

 ──もっとも、場所は厨房の片隅で、まともに飲食できるのもキララだけだったが。


  * * *  


 一通りの仕事をこなしたのち、伊野樹に断ってキララは少し早めだが風呂を湧かして入ることにした。

 すっかり慣れた手つきで、キララはメイド服、そして女物の下着を脱いで脱衣籠に入れ、屋敷の規模の割にはやや小さめ(と言っても家風呂と考えると十分大きいが)の風呂場に足を踏み入れた。


 浴室で、改めて鏡に映る“自らの裸体”を凝視する。

 普通なら“彼女”の年頃──12、3歳といえばいわゆる育ちざかりなはずだが、一年経ってもその華奢な肉体には何ら変化が見られないのは、さすがは半分人形ということだろうか。


 それでも、この一年間で慣れ親しんだはずの「自分の身体」に、久々に軽い違和感のようなものを感じる──ような気がした。


 『気のせいじゃありませんよ。今夜の“別離”に先立って、わたしと貴女の魂が分離しかかっているからです』

 バンシーメイドとの会話以上に鮮明な“声”が脳裏に響く。


 「誰……って、聞くまでもないか。あなたが、例のメイドの子?」

 『はい、いろいろご迷惑おかけしています』

 「迷惑と感じたことはないですよ。なんだかんだでこの一年、楽しかったし充実してましたから」

 それは、去り逝く者に対する追従や気休めなどではなく、間違いなく事実だった。


 「もともと受け身で保守的な性格タチですからね。この“メイド”って仕事は割と天職だったみたい」

 『そうですか。“間借り”している立場で言うのも烏滸がましいですが、メイドのお仕事を楽しんでいただけたなら幸いです』

 「はい……(クシュン!)」

 『風邪を引くとけませんね。お風呂に入ってください』


 脳内(?)の少女メイドの声に促されて、そのまま浴槽に浸かるキララ。

 そのまま、遠いようで近く、近いようで遠い、不思議な存在とのおしゃべりを続ける。

 直接言葉を交わすのは初めてのはずなのに、まるで物心ついた頃からそばにいる幼馴染か姉妹のような気安さと親しみを覚える相手だった。


 『ちょっとのぼせてきたみたいですね。そろそろ上がっては如何です?』

 「そうしますか」

 湯船から出て身体や髪を洗いながらも、会話を続ける。


 「そう言えば──今更ですけどすみません、私なんかが裸をこんな風に見たり、触ったりして」

 『いえ、お気になさらず。この身体はわたしのものであると同時に、キララさん自身のものでもあるのですから』


 やがて浴室から出たキララは、脱衣場で丁寧に濡れた身体を拭き、新しい下着を身に着けた後──寝間着ではなく着慣れたメイド服に袖を通す。

 口には出さなかったが、たぶん、それが少女の願いだろうと思ったからだ。


 「──そう言えば、あなたの名前を聞いていませんでしたね」

 『……名前は、ないんです』

 「え?」

 『より正確に言えば、わたしは自分の名前を対価に、あの方と契約を交わしましたから』

 あの時のわたしに支払えるものはソレくらいしかなかったので、と少し寂し気に微笑う様子が、キララの脳裏によぎった。


 低温にしたドライヤーで長い黒髪を乾かしたうえで、ホワイトブリムを着け、完全にいつものメイドスタイルを整えてからバスルームを出ると、廊下にはキララの主である死神悪魔が立っていた。


 「ちょうど身を清め終わったようだな──では、始めよう」

 「『はい』」

 キララとメイド少女の返事が重なった。

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