35 結界


 朝起きるとクリスティアン王子はもう起きていた。

 早い時間に驚きながら、怠い身体を起こす。

 食事の後、テラスに誘われた。

 今日の殿下はいつもの軍服姿だ。

 離宮のテラスを出て、街道に向かう小道を少し歩く。


「アルモンド帝国軍が砦を出陣したと、サボーナ侯爵から、出陣の要請があった」

 クリス殿下が乾いた声で言う。

「リナ、腕輪を──」

 何気ない様子で言われて、ジェリーの細胞が付いた腕輪の嵌まった手を差し出すと、殿下はそれを外して胸のポケットに収める。


「これから出陣する」

 行く手の木立の側に馬がいる。青鹿毛の綺麗な馬だ。

 兵士が一人、手綱を持って待機している。

「私も行きます」

「ダメだ、来るな。置いてゆく」

 思いがけない返事だった。

「どうしてですか?」

「お前が一緒だと、お前ばかりに目が行き、正常な判断が出来ない」

「そんな」


「馬車で襲撃を受けた時を思い出せ。あの時のジジはイレギュラーだ。戦場では、いつイレギュラーが起きるか分からない。お前が攫われても、私は戦場を抜け出せない。お前はここに居てくれ」


「いや」

 首を横に振る。

「私は必ず戻って来る」

「いや、いや、いや」

 涙だけがあふれる。

「殿下が怪我をしたらどうするんです。弓も槍も魔法の攻撃もあるんでしょう!? あの大きな水棲魔獣だっているんでしょう!?」

 不安で、心配で、こんな所でのうのうと待っていられるものか。

「私も行く!」

 大体、ずっと一緒に居たではないか。

「どうして──!」

 梨奈は一歩、クリス王子に詰め寄った。


「一緒にいる方がいい」

 王子が一歩下がる。

「一緒にいる方がいいのよ!」

 王子の手に魔力が籠められる。

「ついて行く!」

 梨奈はクリス王子の方に足を踏み出した。その途端、彼の手が前に出る。バチッと光が弾けて、梨奈を引き留める。

「あ」

 目の前を金色の光が遮った。光は縦横無尽に走って、梨奈とその後ろの離宮をすっぽりと覆って消えた。

「な……に、これ……」

 呆然とクリス王子を見る。王子の金の髪が風に揺れて、青い瞳を遮る。白い彫像のように整った容貌は、何の表情も映さない。


 クリス王子はこの離宮に結界を張った。

 十重二十重に、外から何かが入ってくるのを防ぐのではなくて、梨奈が外に出られないように。

「ひどいじゃない。人を何だと思っているのよ! まるで動物園の檻じゃないの! 猛獣じゃないのよ?」

 梨奈の詰った声が、風に千切れて流れてゆく。


 王子は手綱を受け取って馬に跨り、梨奈を真っ直ぐ見る。

 馬が嘶いて、棹立ちした。

 くるりと向きを変えて、そのまま走り去った。


 梨奈は、置いて行かれてしまった。



  * * *


 呆然と佇む梨奈に『主ー』と、スライムの姿になったジェリーが聞く。

 スライムの姿になったジェリーが聞く。

「行って、クリス殿下に加勢を──」

「主殿」

 三人の魔族が聞く。

「行って、殿下を頼んだわよ」

 三人と一匹は森を駆けて、あっという間に見えなくなった。


 梨奈は怒っていた。非常に怒っていた。

 何に対して。自分にだ。この期に及んで、まだ温い夢を見ていた。

 平和な世界など、ここにはありはしないのに。



 何故クリス王子は腕輪を外したのか。腕輪には転移の魔法陣が仕込んである。一方通行の梨奈の許へ飛ぶことだけができる。彼はそれを封印した。

 それが王子の覚悟なのだ。


 クリス王子は疾走する馬に跨り戦場に行く。戻って来れるか、いや絶対に戻って来なければならない。梨奈を誰にも渡さない。その為にも──。

 そんな彼の想いも、置いて行かれた梨奈に届きはしない。



  * * *



 さあ、みんな行った。梨奈は一人になった。


「私は残るよ。ユースフに頼まれているからね」

 ニコニコとダールグレン教授が言う。とても頼もしい。

「奥様、お屋敷にお戻りになって」

 ミランダが心配そうに言う。後ろに家令、従僕たちや侍女たちがいる。

 そっか、まるっきり一人でもないんだな。


「お見送りなさらないんですの? 皆出発しましたわ」

 クロチルドが、優し気なご令嬢と侍女を引き連れて、離宮に来た。


「あいにく、ここから出られないんですよ」

 あっさり梨奈の言葉を流して、側の令嬢を振り返った。

「ご紹介しますわ、スチュアート様の婚約者のイルマ様」

「ようこそ、梨奈ですわ」

「初めまして、イルマと申します」

「フォルカーがこちらが安全だと申しますの。しばらくお願いしますわね」

「はい、お引き受けいたしました」

 なかなかに大人数であった。



 離宮に戻りかけた梨奈だったが、バラバラと騎乗した一団が現れて立ち止まる。

中の一人が鞭で指して言う。

「貴様が、リナと申す悪女か? 王宮にて詮議をする。この者を捕らえよ」

 この前、ランツベルク将軍と一緒だった兵士と同じ軍服を着ている。

 兵士たちが馬から降りて剣を抜き近付いて来た。


「王国騎士団の方々かしら」

「引き立てよ」

 問答無用のようだ。

「加勢がいるかな?」

 ダールグレン教授が、一応という感じで聞いた。

「うーん、分かんないんで、見ていて下さい」

「リナ様!」

 誰かが声をかけたが振り向かない。



 クリス殿下はいない。行ってしまった。

 ジェリーもいない、魔族もいない。

 殿下の取り巻きも皆行ってしまった。

 梨奈は離宮から出られない。


 教授を戦闘に引っ張り出す訳にはいかない。

 令嬢方も、使用人も、梨奈が守る立場だ。

 梨奈の前には刃の壁。



 ──さあ、どうする?

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