29 離宮に待ち構える者


「頭が痛い」

 翌日は、また朝から頭を抱えている梨奈に、クリス王子がボソッと言う。

「昨日は魔王陛下に抱かれて眠っていた」

「え」

 梨奈はぽっと頬を染めた。

「何だ、その顔は」

 殿下の声が低い。

「だって、わっ、どうしよう」

「私が抱いても素面のくせに」

「だって、殿下とは、もう十年も連れ添っている夫婦みたいなんですもの」

「まだ何もしていない」

「あんなことも、こんなこともしたじゃないですか!」


 クリス殿下はチラリと梨奈を見ると、ついと側に寄り耳元に唇を寄せ、

「もっと色々なことを、してみたいと思わないか?」

 と、囁くように言った。

 梨奈の顔どころか、身体中がボンッと染まる。

 くそう。

 口惜しいと思う。恥ずかしいと思う。どうしてこうなるのか。

 その顔を睨み上げると、殿下が澄まして手を差し出した。

 梨奈はその手に、自分の手を重ねてきゅっと握りしめた。



  * * *


 離宮に帰ったのは、次の日の昼過ぎになった。

 ダールグレン教授はしばらく魔領に留まるという。


 魔道具の仕様詳細について魔族の職人ギルド、商業ギルドの人達がお城に呼ばれて、話を詰めるという。大層なことになったがただの電話だし、こちらには伝書鳥とかいう便利なモノがあるし、それがどんな風に使えるのか梨奈には想像が出来ない。


 それより秘密の結婚だが、クリスティアン殿下はまだ立場も不安定な身の上、離宮にて謹慎の身で、婚姻などとんでもない事であった。

 どうせしばらく離宮に居てどこにも行けないし、一緒に暮らしている訳で、盛大なお式や、お偉方への挨拶もなければ、返って気楽かと梨奈は思う。



 ベルナドット伯に西の森まで送ってもらうとシドニーとジョサイアが迎えに来た。のんびり離宮に戻るとお客様が待っている。ランツベルク将軍であった。

 精鋭の騎士20名に、それに従う剣士、従士からなる、もはや変則軍隊を引き連れていて、物々しい様相である。

 離宮で待っていたスチュアートとフォルカーが、クリスティアン殿下を見て安堵の顔をする。


 梨奈ののんびり気分は吹っ飛んだ。



「皆様お揃いで、何をしていらっしゃるのかな」

 ランツベルク将軍が指揮杖を手に、低い威圧感のある声で言う。

「ダールグレン教授は居られないようだが、どちらにいらっしゃったのか」

 きつい目で、順に睨みつける。

「クリスティアン殿下、返答次第では反逆罪にも、問われましょうぞ」

 ジョサイアが引きつった息を吐く。



「それで、リナ嬢とは──」と、鋭い目付きでゆっくり見回した。


「私ですけど」

 クリス王子の後ろから、目立たない茶色の髪の少女が現れた。

 将軍の震えるような威圧を受け止めて、平然と将軍を見返す。

 どこにでもいるような普通の少女だ。


 なのに──、



 声が出ないのはどうしてだろう。身体が勝手に震えるのはどうしてだろう。

 周りの誰もがシンと静まり返って、声一つ、しわぶき一つ立てる者がないのはどうした訳だろう。


「リナ、疲れただろう。部屋で休んでいろ」

 クリス王子の言葉に、ホッとしたのは何故だろう。

 ランツベルク将軍の身体を滝のような汗が流れ落ちる。


 そこに慌ただしい音がして、王家から早馬が駆け込んできた。

「国王陛下が将軍をお探しです。至急お戻りを!」



  * * *



 小さな子猫が、毛を逆立ててフーと威嚇している。

 ただそれだけなのに、人には途方もない威圧を感じるのか。

 ランツベルク将軍が余計なことを言うからだ。嵩にかかって反逆罪だなどと。


『食べる―?』と、リナの陰に隠れた魔物が囁く。

「ダメよ、ジェリー」

 梨奈が小さな声で返す。あのスライムと内緒話も出来るようになったか。この場で囁くだけの分別を身に着けている、この魔獣はどこまで進化するのか。

 その魔獣を従える、この子猫は、少しの怒りで皆を居竦ませている。


 この子猫は『愛とエロスと豊穣の女神』なのだ。



 ランツベルク将軍は少女だけでも連れ帰ろうと思ったが、隣に庇うように王子、その前にシドニーとジョサイア、後ろにスチュアートとフォルカーが陣形を作っていて、離宮の使用人たちも、そのすぐ後ろで固唾を飲んで見守っている。


 捕らえるように命令を下そうと騎士たちを見ると、皆一様に首を横に振る。

 仕方がないのでクリス王子にいう。

「その娘に出頭するように、ご命令を」

「何の容疑で?」

「知れた事、殿下を魅了した咎で」

「私を魅了した男爵令嬢マリアは攫われたのだ。離宮に謹慎する身であれば行方は知らぬ」

「では、今まで何処に行ってらっしゃったのか」

「西の森に」

「西の森で何を」

「謹慎しておった」

「では、ダールグレン教授は」

「あの方の行動など、私が把握することはできぬ」

 目の前に立つ白面の貴公子は、白々と答えるだけであった。


 早馬の使者が焦れて、

「将軍、陛下がお急ぎでございます」と再度督促した。

 もはやこれまで。騎士を残して周りを固めておくか。

 出入りを厳しくすれば誰か引っかかるか。

 ランツベルク将軍は騎士を手配して馬上の人となった。


 将軍を見送って、王子達は離宮に戻った。

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