愛は人を変える

折原ひつじ

愛は人を変える

 夜をそのまま掬い取ったような黒髪を彼は何度夢に見ただろうか。撫でればミルクのような頬を寄せて唇を綻ばせた彼女の肌の熱を伯爵が最後に感じたのはもう十年も前のことになる。


 伯爵夫人は最愛の夫と子どもたちを残し、二十五の若い身空で亡くなった。


 幸い世継ぎは残されていたものの伯爵の慟哭はあまりに深く、長い時が経った今でも彼女へ操を立てている伯爵を「誠実だ」と称賛する者もいれば「憐れだ」と嘆く者もいた。

 しかしもうそろそろ新しい妻を迎えてもいいのではないだろうか、と屋敷の内外から声が上がり始めたその時だった。


「初めまして。わたくし、本日よりお嬢様の教育係を務めさせていただきます」

 

 伯爵夫人に瓜二つの女が家庭教師カヴァネスとして屋敷に現れたのは。






 暖炉の薪が小さく爆ぜる音が静謐な部屋へと響く。他に音を立てるのは遊び疲れてソファで寝落ちてしまった幼い令嬢の寝息のみで、彼女に膝を貸している家庭教師の女はただただ静かに様子を見守っていた。


 そんな二人の様子を伯爵も何も言わずに眺めている。否、何か言葉にしようとすれば涙が込み上げてしまいそうな程に求めていた光景を邪魔したくなかったのだ。

 今は学園の寮にいる息子と違い、生まれたばかりだった娘はほとんど母親との思い出を持たない。きっと彼女はおぼろげな記憶の中の母に似た女に面影を重ねているのだろうと思えば、可哀想でたまらなかった。


「お嬢様、本日もとても良く頑張っておいででしたよ。旦那様もきっとお喜びになるとお伝えしたら、はしゃいでしまわれて……」

「君の教え方が上手かったんだろう。けど、明日起きたらうんと褒めてやらないとな」


 先に口を開いたのは女の方だった。その時のことを思い出しているのか、微笑ましそうに頬を綻ばせながらまだあどけない令嬢の髪を撫でる。心地よかったのか微睡みながらも少女はくふくふと笑いをこぼした。


「……君には本当に感謝している。娘の教育だけじゃない、以前よりずっと笑顔が増えたんだ。この子も君が母親に似ていると何と無くわかるんだろうな」


 伯爵の言葉に、彼女に似ていつも笑顔を崩さないカヴァネスが珍しく目を丸く見開く。

 驚くのも無理は無いだろう。伯爵夫人が亡くなってから仕えた者も多く、彼女の顔を知る者も随分少なくなってしまった。初めて家庭教師を家に迎えた日、伯爵と同じように息を呑んだのは息子と年配の使用人くらいなものだった。


「旦那様、それは違いますわ。お嬢様がよく笑うようになったのはきっと、旦那様もよく笑われるようになったからです」

「…………私が、か?」


 今度は伯爵が驚く番だった。

 最愛の妻を亡くして以来、自分の笑みはどこかぎこちないものになっていると言う自覚があった。ただでさえ無愛想な自分が笑わないのだから、子ども達も怖かろうと足を遠ざけてしまっていた。

 そんな自分が自然と笑っていただなんて、理由はきっと──


「それならきっとそれも君のおかげだろう。君のおかげで私も娘も変わったんだ」


 半ば無意識に言葉にしてからハッと伯爵は自らの口元を覆う。こんな風に妻以外の女性を口説くような台詞を吐いたことへの戸惑いと、「雇用主に迫られたと彼女を怖がらせてしまったんじゃないか」という恐れがじわりと胸の内へ広がってゆく。

 けれどおそるおそる女の方に視線を向けた伯爵が目にしたのは、今までで一番幸せそうに笑う女家庭教師の姿だった。


「光栄ですわ、旦那様。でしたらわたくし、もっと笑顔になっていただけるように頑張りますね」







 ぱたん、と自らにあてがわれた部屋の扉を閉めた瞬間、堪え続けていた笑いが喉の奥から絞り出される。ひきつけのような、悲鳴のような、それでも確かに歓喜の色が滲んだ笑い声をシーツに吸わせるようにして女は顔をベッドに埋めて笑った。


「アハ、ハ、うれしい……やっと……やっと…………!」


 笑いすぎて頬が引き攣って、一番新しい縫合痕が僅かに違和感を訴える。慌てて鏡を覗き込めば幸い歪みもなく、やっぱり伯爵夫人に生き写しの女がこちらに微笑みかけていたのだった。


「良かった。やっぱりだったわ」


 初めて「この顔」に出会ったのは彼女がまだ中学生の頃。友人に勧められた恋愛ゲームの攻略対象……の亡き母親として出て来たのが「この顔」だったのだ。同時に彼の父親である伯爵に一目惚れしてから、彼女は変わっていった。


 水泳で色の抜けた髪を何度も黒く染め直し、日に焼けていた肌を白くするために様々な方法を試した。たった一枚のスクリーンショットを元に整形を繰り返し、足りない部分はメイクで補った。費用を稼ぐために馬車馬のように働いた。

 ただただ画面の向こうの彼の好きな人に近づきたかった、その一心で。


「ああ、ほんとに夢みたい……このあとはどうしようかな。ううん、なんだっていい! 一緒にいられるなら……!」


 このまま家庭教師として振る舞って家族の仲を支えるのも良いし、彼が望むのなら新しい妻として迎え入れられるのもかまわない。好きな人が笑ってくれるなら今まで通りなんだって出来るような気がした。

 だって一番の難題だった「次元の壁」を超えること以上に難しいことなんてないのだから。


 ふふ、と心から満ち足りた笑みをこぼしながら女は愛しの彼の言葉を胸の中でリフレインさせる。「自分たちが変わったのは君のおかげだ」と伯爵は言ってくれたけど……

 

「変わったのは私の方ですよ、旦那様……」


 穏やかな家庭教師の仮面を脱ぎ捨て、女は恋する少女の素顔でにたりと頬を緩ませたのだった。

 

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愛は人を変える 折原ひつじ @sanonotigami

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