第20話 「近代経済学の再検討」 宇沢弘文著
大学で経済を学んだ
残念ながら近代経済学は実体経済を説明すると言う経済学に固有の学問の義務に対応していく過程で、様々な部分で継ぎ接ぎが発生した結果、一貫性を保つのが難しくなってきた。社会的な問題を解決するには幾分役立ったが、体系としての学問が抱える問題はどんどんと増えてきているというのが実情であろう。
実際の所は、近代経済学は「需要と供給」を始めとした静態モデルから骨子が発生したいわゆる分析のアプローチが本質であり、様々な事象に対して「事象固有の分析の骨格」を作るところに強みがあるのであって、そもそも経済をマクロで説明するようなものではない。だがマクロで説明できないというのは、実体経済を捉えるのに本来、致命的なのである。一方マルクス経済学は、資本主義を批判的にマクロで説明するというのが源流なので、精度に欠けるし、そもそも考え方にややバイアス(資本主義への批判)が掛っているという欠陥がある。
僕は基本的に政治学を学んでいて、経済学はその周辺学問として勉強をしてきただけなので、その意味では専門ではない。しかし政治学・経済学を含め人文系の学問は本質的に「科学的」にはなり得ないというのが大学での学びの包括的な結論で、その意味では人文科学においては「行動科学的なアプローチ」しか「最終的には説明が出来ない」という風に考えている。それは心理学だろうが犯罪学だろうが、人文科学においては皆共通していて、「1+1=2的な定理」、「全ての直角は等しいという公理」も化学式も「存在し得ない世界」として先ず把握しないといけない。人文科学というのはそれが過去のものであろうと、未来を志向しようと「経路と確率」の探求であり、或いはそれでしかない。
つまりある事象はどんなに「それがスタティックとしても自然な反応」と捉えられても、最終的にはあくまで「行動科学的に」しか捉えられなければ説明がつかないのである。スタティックに「正しい」のはあくまで因果を無視したもので確率的には確度が高くても必然ではない。
故に、経済の世界では矛盾することが結構平気で語られる。例えば、円高は株式市場に「高値」を齎すことも「暴落」を齎すことも「あり得る」複雑系なのである。だが複雑系は別に物理学でも存在するのであって、別に「科学的」でないからといって「学問として無価値」ということではない。そもそも物理学においても「観察」することで条件が変化すると言う事態は往々にして存在する。逆に言えば複雑系であるが為、経済学に物理学をもちこむという一見乱暴な手段が正当化されるのである。
だが本来、近代経済学は「経済学」における「分析のフレームやツール、概念」といった道具を供給してくれる点で非常に有用な学問であり、今試みられているアプローチとは本来かなり性格が異なるものであるがその有用性を否定すべきものではない。そもそも近代経済学はそれによって「全ての経済的な活動」を説明したり「政策の決定」に援用できる万全のものではない。実際、気まぐれな実体経済を説明できないのは経済学の問題ではないのである。
それを始点としなかった事に近代経済学の苦悩はある。多くの人文系の「学問」は現実問題を解決する(事に資する)という事を前提として研究が許される(それは「許可」ではなく「学問としての存在意義であり、それに投じられるリソースの問題」である)。逆にそれができないなら、意味がないとしてリソースが閉ざされかねないという矛盾が存在するのだ。
この著書でも冒頭に「現実に起きつつあるさまざまな経済的、社会的問題がもはや、新古典派的ケインズ経済学というこれまでの正統派の考え方にもとづいては、十分に解明することができなくなり、」と述べている。ここでは、そもそも経済学が政治経済的枠組みのフレームワークを未来に向かって作ることが出来ないと言うことでは無く、現状を解明することもできないという意味を含みかねず、学問としての存在意義に対する大きな懸念を孕んでいることを示している。
ちなみに断って置くが、この書物を「小説」というのに抵抗を覚える人はたくさんいるだろうけれど、この書物は専門書ではない。ある程度興味と知識があれば、難しい小説などよりは遙かに読みやすいし、面白いのでぜひ手に取って見てください。
さて、著者はまえがき(iiiページ)に敢て(近代経済学ではなく)「現代経済学」というワード(これはケインズ的経済学がそれまでに一定の役割を果たした近代経済学から脱皮しようとしている状況を表す物ととらえよう)を使い、それに対する二つの類型的批判を挙げている。
一つはそれが分析対象を「市場」という狭い領域に絞ったことで他の経済的事象、すなわち経済活動が齎す負の側面である環境や貧困などを無視していること(つまりそれを幾ら研究しても、そうした社会の諸問題を解決する糸口になり得ないこと)。
もう一つはその分析手法が静態的に過ぎ、ダイナミックな不均衡状態に関する説明ができないこと(ある事象がなんらかの形でコンバージェンスする事を所与としても、その過程の中で経済的活動は行われているし、実際に同じ形で集約するとは限らないこと)
そしてその二つがインタラクティブで「ありうる」という事を踏まえた上で、マクロ的視点の「近代経済学」を構築する試みを行い、或いはそれが何らかの政策的インプリケーションを新たに持ちうるかという考え方がそこにある。これは近代経済学の使徒としてはかなりあけすけな告白であり、その限界を何らかの形で消したり言い訳をしたりする事に終始する学者とはかなり対照的なアプローチである。
その背景には恐らく著者がそもそも経済学を志したときに信じた「経済学は人間の発展にとって有用な学問である」という信念と、正反対の「近代経済学、とりわけ新古典派理論が規制することを許さない」「市場機構の持つ非人間的な性格」を目の当たりにしたからであろう。その事例は著者にとって
排ガス規制の直前の自動車メーカーと消費者の行動、ポンド切り下げが確実視されたときの経済学者の行動(空売りの申し込み)、日本列島改造論のさなかに田中首相の周辺でおきた土地の転売、そして南アルプススーパー林道という愚行・・・。
インフレーションによる所得分配の不公正化という問題は、この著書の書かれた1977年以降、バブルの崩壊、エンロン及びアーサーアンダーセンの破綻・リーマンショックなどを経て、寧ろデフレの長期化が進んだが、所得分配の不公正が是正されることはないまま(寧ろ悪化するまま)、インフレを待望するという更にいびつな構造を招いた。
中流階層は空洞化し、日本では今や生活保護の受給者が急増するという事態が発生し、社会(その多くは政治に使嗾された社会)はそれを「自己責任」という言葉に閉じ込めようとしていて、この書が書かれたときよりも事態は深刻化している、というのが実情なのだ。
またその間、カスケード効果に名を借りた富裕層の所得増大やら
残念ながら、テレビなどに出てきて愚論を展開する「自称経済学者」とは雲泥の差と言って良いのだが、そうした妙な輩が変な言説を国民にばらまくという意図は那辺にあるのだろうか?妙なレトリックを使って現実から目を背けさせるという学者として行ってはいけない最低限の規律は今や底を割ってそこここに溢れでている。それも・・・だいたいは名前も知らないような大学の教授によって・・・。(名前も知らない大学の教授の質が悪いのは絶対的ではなく確率的である事は申し添えておきたい。またその裏も)
まあ、医者も学者もだいたいテレビに出てくるのは仕事をしていない二流か三流なのだが、稀に非常にまともな人が出てくるので大変困る。そうでなければテレビなぞに出てくる医者や学者の言う事は信じるな、と言えるのだけど。
因みに、手に取って頂ければおわかりだろうが、この書は後書きまで含めて全体で230ページであるが、その40ページが序章に費やされており、著者はそこに近代(ないしは現代)経済学がなし得なかった「国民にとって有益な政治に資する経済学」の失敗を綴り、それを新古典派経済学の枠組みを解説しながら解き明かしていくのである。
それはここでは近代経済学の中では包括的なワルラスによる「一般均衡理論」や貿易に関する「ヘクシャーオリーン理論」などを基にその外観的な説明が施され、それが政策的決定に一定程度の助言を
こうしてみると近代経済学というのは、実際はかなり静態的な分析を拡張し、更にその上に現代特有の事象を説明するために揺れ動く土台に更に基礎を重ね建物を建てていく、そうした作業の繰り返しに見えてくる。ならば最初の出だしが誤りかというとそう単純な物ではない。
つまり動態的なものを静態的に全て説明しようとする試みは「まるで写真を積み重ねて動画を作るようなもので、その一瞬、一瞬はフォローしても全体の動きはまるで予測できない」といった感じに見えてくる。だが、その一瞬の動きは説明が出来る。貿易論にしてもリカードの有名な比較優位論(確か、ポルトガルと英国における繊維の製造に関する)は、ある状況、ある時点では「正しく説明をつけられる」ものではあるが、動態的な状況が理論を「押し流す」ことをとめることはできないのだ。それは「ヘクシャーオリーン理論」として成立してもやがて、その前提やら、そもそも理論が出来たことに対して何らかのリアクションが成されることで「押し流される」。近代経済学はそうした状況に合ってもシーシュポスが岩を動かすように「それを説明することを成し続ける」運命にあるのかもしれない。
そうした理論の変遷が、この書では「新古典派理論の輪郭・基本的枠組み」から「ケインズ理論の展開」を通して「動学的不均衡理論の構想」へと繋がっていき、これによって著者は指摘した問題の2番目である「その分析手法が静態的に過ぎ、ダイナミックな不均衡状態に関する説明ができないこと」への近代経済学の取り組みを解説しているのだが、僕にはとりわけこの議論の発展の中で出てきた
例えば、円安に振れたからといって「海外に展開する工場を国内に移転する」には時間がかかる。そのため経済的活動はすぐに最適解に達しない。そうした時間の中で別の事象(例えば政治的な不安定が国内外に発生する)が発生し、その事象にも対応するのに別に時間がかかる。
つまり「合理的に動こうとする意志があっても、それを阻害する粘着性が経済活動には伴っており、それをどう解決するか、またその将来をどう動くとみるか、などの要素が絡み合っている内に結果として非合理的な活動が極めて多く発生する」としたら、それに対する活動というのは、本来ノイズの除去こそが合理的である、などという別の「概念」に結びつく、という
或いはこの可塑性における粘着度を以てシミュレーションすることで幾つかの経済事象は説明できる事になるかもしれない。経済における生産要素の「即時性」は明らかに否定されている中で、少なくとも研究するに値する要素ではないか。
最後の2章で著者は「社会的共通資本」の概念を説明する。これは著者が「自動車の社会的費用」という別の著書でかなり詳しく指摘していたと思うが、この書物は残念ながら手元に残っていない。
いずれにしろ、この「近代経済学の再検討」が上梓された1977年には、「社会的共通資本」のあるべき姿というのは幅広く議論されており、例えばバーゼル大学のK.W.カップによる「環境破壊と社会的費用」(日本語版初版:1975年)などの著書も出版されていて、大方は近代経済学が加担してきた(とされる)効率至上主義の経済が引き起こし、社会を破綻においこみかねない「環境問題」に対応することを迫られた経済学者たちの懺悔のような様相を呈していたのである。
この「社会的共通資本」の考え方は「基本的に自由な個人が最大利潤を追求する」ことを原則とする近代経済学をある意味否定する。つまり個人の利益の追求という前提が誤りである、ないしはその外部効果は想定していたより遙かに大きな不利益を招くということが実態として起こった事による経済学の方からの修正である。しかし、この修正は「修正以上」の問題を孕んでおり、なまなかに「近代経済学」が消化できる問題ではない。例えばアメリカの共和党が、アメリカを良くするには国家が個人の安全、医療、社会生活になるべく介入して不平等を是正する、と言い出すようなものなのだ。しかし一方でそのくらいのコペルニクス的転回をしないと経済学は倫理的見地から「無意味な学問」と捉えられかねなかった。
そしてそれから既にほぼ半世紀が経った。公害問題は一見、解決したかのように見え、先進国で発生した様々な問題は沈静化しているように見える。だが、世界を見渡せば、海洋にはプラスチックが散乱し、海洋生物より既に質量は大きい。開発途上国では公害が公害と認識さえされていない。地球規模の温暖化と天候不順はさまざまな災害を引き起こし、それはフェイクだと言う大国の大統領と無視してかかる大国の書記長が角を突き合わせている。小国は小国で窮鼠猫を噛むが如く、ミサイルを発射し国民の貧困を顧みようとさえしない。政治のみならず経済的問題は様々な形でこの惑星を蝕んでいる。そして更に悪いことに、政治も経済もそうした状況をもはや「見ぬ振り」をしつつあるのである。
もういちど、再検討をするべき秋は来ているのではないか。秋を時と読む意味をもういちど考える秋としたい。
*宇沢弘文著 「近代経済学の再検討」
岩波新書(黄版) 7 岩波書店
*K.W.カップ著 柴田徳衛 鈴木正俊訳 「環境破壊と社会的費用」
岩波書店
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