第19話 「更級日記」 菅原孝標女
退職してすぐのころ、平安時代の幾つかの女手による日記や物語を熱心に読んだ時期がある。源氏物語の壮大華麗な物語自体が
「いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、『京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、ある限り見せたまへ』と、身を捨てて額をつき祈り申すほどに・・・車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ」
簡潔に訳せば、「なんのあてもなく、人の大きさほどの薬師様の像を作って、きちんと手を洗い、人の目を盗んで「京の都に上らせて、たくさんの物語を全部よませてください」と必死にお願いしたんだけど(その願いが叶って、京に向かう)車に乗る段になってふと見れば(引っ越すことになった家には)人目を盗んでお参りした薬師様の像がつくねんと立っておられて、それを見捨て申し上げるのが悲しくて、人知れず涙がこぼれました」という意味である。
自らの願いを託し、それが叶うと同時に別れる定めになった仏像にすまないと思う・・・何という優しい心の移ろいであろうか。
端々に
出立してすぐ訪れた産後の乳母の住む家が、夫を亡くしたこともあってか粗雑な様子なのを悲しみつつ、一方で「紅の
次いで語られる竹芝の言い伝えなどは、この人が書いたとされる「濱松中納言物語」を
また、おそろしげな「足柄」の山で出会う三人の遊女の不思議な態度と美しい様子を描いた翌日に、山中で見つけた
そんな叙情溢れた旅路を終え、ようやくに都に着いて、望んでいた「お話(物語)」の本を、不十分ながら母(実母)にせがんで手に入れたばかりの頃、田舎で一緒に暮らし共に旅をしてきた継母が父と別れることになる。実母と継母がいれば、どちらかと親しくなり、どちらかを
京へ上る途中に見舞った乳母の訃報が舞い込み、都で流行った病によって侍従の大納言(藤原行成)の娘も死にも接する。鬱々と日々を送る中、望んでいた物語を叔母からもらい受け、とても嬉しくなり、昼夜ともなく読み耽って「われはこのころわるきぞかし、さかりになれば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりけむ」(私は可愛かった時期も過ぎ今は醜いけれど、女盛りになれば、容姿もとても良くなり、髪もとても長くなるだろう)などと考える。その姿はコロナ禍で鬱々と日々を送っていた現代の女子中学生が恋愛漫画を読みながら妄想する姿と相通じるものがある、かもしれない。
かくて、読者は読み進めるほど、作者の溢れるような感性に触れることが出来るだろうし、その姿に時代や場所を越えた普遍的な女性の「愛らしさ」を感じ取ることが出来よう。
この物語を逐次解説するのは目的ではないので、ストーリーについては興味ある読者の方は是非本を手に取って読んでみて欲しい。作者は父の再度の任官(残念ながら思っていたような都近在ではなく今度は更に奥深い常陸国への任官となった)、不本意な(というのは作者が夢見ていたのは「白馬の王子様」みたいな結婚であったのだから、そもそも本意のような形は望むべくもないのだけど)結婚、夫の任官(これも遠地の信濃で作者にとっても夫にとっても本意ではなかった)とその帰国、病気と死などを経て、作者の「物語」への気持ちや、「寺社参り」「友人との交流」「親や夫、子供への気持ち」などが「やわやわ」と描かれていくさまは、ついつい「恨みがち」な文章が多いこの時代の女流文筆の中では特異である。いや、状況に対する「納得がいかないわ」という気持ちが、この人にあっては「恨み」までには昇華していかないのである。
そんな愛らしさを抱えたまま、この文章を書いたのは既に五十を超えた頃であり、逆に言えば五十を超えた年にも、この人は幼い頃の感受性を保ったままでいたのであろう。そう、冒頭の文章は十代に書かれていたのではなく、五十になった女性が十代の頃の思いをそのまま描いたのである。彼女の中には瑞々しい十代の頃の感情がそのままの形で残っていたのである。その事実こそがこの書の一番の驚きである。
別の場所に「豊饒の海」について書くときに触れようと思っているのだが、この作者は「濱松中納言物語」の作者に擬されている。「豊饒の海」の第1巻の末尾に三島が自らの転生の物語がこの「濱松中納言物語」に触発されたと書いていることは
「更級日記」を発掘した藤原定家は作者の死後、150年以上後にこの日記を見つけた訳で作者も日記も随分と長い間忘れられたまま放置されていたのである。彼女が「濱松中納言物語」や「夜の目覚め」の作者であるというのは、定家の記述に基づく推測でしかないのだけど・・・。
なぜそうした物語の作者であれば自らの書いた「物語」の話を「日記」に書かずましてや、「その後は、なにとなくまぎらはしきに、物語のこともうち絶え忘られて」などと書いたのだろうか?紫式部は「源氏物語」の話を「紫日記」に記しているのだから何の遠慮することもあるまいに、とは思うが「濱松中納言物語」は「源氏物語」ほどの評判をえることもなく、その屈折した思いが「光源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは」(光源氏のような人はこの世にはいない)というような、自らの結婚にも、著作への絶望にも通じるような言葉を作者に吐かせたのかもしれない。
「更級日記」では始まってまもなく「しもつさのいかだ」(下総の池田)という誤記があり、これは転写の間違えかも知れないが、「しもつさのくにとむさしとのさかい」にある「太井川」という表記は明らかに「隅田川」の間違えである。
それ以前に冒頭の「あづま路の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる」(あずま路の果てといわれる常陸の国より更に先にある場所で生れた<自分>)という表現は、実際は作者は上総で育ったのであり、京都から見て上総(千葉)が常陸(茨城)より遠くにあるという事はないのであり、この表現が自らを卑下する気持ちから生れたのか、地理的誤解から生れたのかという点で、後者の可能性も否定しえない。
一方の「濱松中納言物語」では冒頭(本来は冒頭ではないが1巻が失われているために残されたものとしては冒頭に位置する)に主人公の中納言が唐に渡るときに最初に着いた場所が「もろこしのうむれい」(唐の国の雲嶺)という表記があるが、雲嶺は遙か内陸であり中国に到着する最初の土地としては適切ではない。またその直後の記述の「花山(華山)」と「函谷関」の順序も逆である。このように両者には「結構地名を出してくる割に間違えが多いし、場所の位置が逆転することもある」という共通性を感じるのだ。
だからといって「濱松中納言物語」が菅原孝標女の手によるのは間違えない、とい強弁するつもりはないけれどこの物語が彼女の手であり、それが三島の手で「豊饒の海」に結実したとしたら「物語のこともうち絶え忘られて」と血を吐くような告白をした作者には望外の喜びであろうに違いあるまい。
「更級日記」 菅原孝標女 原岡文子 訳注
角川ソフィア文庫 13196 ISBN 978-4-04-373401-6
(日本古典文學大系77 「篁物語 平中物語 濱松中納言物語」 遠藤嘉基 松尾 聰 校注 岩波書店)
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