第18話 サリンジャー 「ライ麦畑でつかまえて」

 先日、とあるNHKの番組でこの書物が、一時アメリカで「禁書」扱いされた背景を解く番組をやっていた。

 「禁書」・・・。焚書坑儒とか、戦前の治安維持法とか余り好ましい連想を産む言葉ではない。それも自由の国であるべきアメリカで・・・と、一瞬思ったが、アメリカも1950年代、レッドパージを行っていた国である。そういう意味ではいささか乱暴な部分があった国で、世界大戦を終えたばかりのころは大層いきんでいたが、ベトナム戦争の処理に苦心し、公民権運動で犠牲者を出し反省したころから漸く少し丸くなった。実際のところ、それがアメリカの真の姿であろう。


 「禁書」ではないが、中学生の時、学校で映画鑑賞会があるというので(取り分け映画のファンでもないのだが)楽しみにしていたら、突然中止になってしまった。

 「いちご白書」という映画である。後で観た限り、とりわけ危険な映画でもないけれど学生と学校、ないしは学校がrepresenteする体制が対立する映画であり体制という面からは望ましくないと判断されたのであろう。勢いはそがれてしまっていたが、安全保障条約の自動改定があった1970年代、安保反対運動があった時代背景を考えれば致し方ない結論であった。(そうした検閲めいたことは望ましいとは思わないが、若し実施されていたら一部のものから強い反発があり、結果として望ましくない処置が行われたのに違いないという意味で)

 それにしてもあの時映画鑑賞会を企画した教師たちは何を考えてこの映画を候補に選んだのだろう、と後に映画を鑑賞してからはむしろ、そっちの「英断」に感心してしまった。もしかしたら教師の中に「体制批判」を許容する人間がいたのかも知れない。

 あえてそういう事をする、そういう懐の深さというものも悪くはない。


 いずれにしろ、禁書とか観覧禁止などという処置はろくな結果を生まない。むしろ、「興味」をそそる「マーク」になる効果の方が大きいように思える。 

 良い子はどうせ見ないし、悪い子は何をやっても見るのである。大人は「もしかしたら良い子がby chanceそれを読んだり、見たりすることによって悪い子」になるのではないか、と考えるものなのだろうけど・・・。否定はしないがそういう子は、遅かれ速かれそれに代る「何か」によって「悪い子」になるのであろう。それに「良い」「悪い」はあくまでその時点に大人にとっての判断基準であって、それが正しいすけーるであるという保証はない(どちらかというと大抵間違っているものである)

焚書坑儒をやるような大人が正しいのか?

 エロ本も読んだし、「共産党宣言」も読んだし、「ライ麦畑でつかまえて」もランボーの詩集も読んで、僕は大人になった。ま、たいした大人にはならなかったけど。

 

 実は最初、僕はこの小説を読んでいる途中に挫折した。その責の一つは「ライ麦畑でつかまえて」という訳語にあるのではないか?

 どこかふわふわとした恋愛小説にありそうなタイトルであるが、The Catcher in the Ryeの訳は本来「ライ麦畑の捕獲者」が正しい。なんで「つかまえて」なの?これでは女の子がちょっと気がある男の子に「私をつかまえて、そして・・・」松田聖子の歌の歌詞みたいじゃないか?しかし、これには深い理由がある・・・のかもしれない。

 読み終えた人は既にご承知とは思うけど"The Catcher in the Rye"というのは主人公であるホールデン コールフィールドの誤った記憶によって生み出された歌のタイトルである。

 だがその歌の本当のタイトルは彼の妹であるフィービーが兄に指摘したとおりロバート・バーンズというスコットランド詩人の”Comin thro' the Rye"(この訳文では「ライ麦畑で会うならば」となっているが本来なら「ライ麦畑をかきわけて」という方が適当に思える)なのだ。

 英文をそのまま引用すると

O, Jenny's a' weet, poor body,

Jenny's seldom dry:

She draigl't a' her petticoatie,

Comin thro' the rye!

(ちぇ、ジェニーったらいっつもびしょ濡れで貧相な体。体が湿っていなかったことなんてめったにない。いつも着ているペチコートを引き摺って、ほら、ライ麦畑をかき分けてやってくる)

 なんだか恋人に失礼極まりない歌詞(貧相でいつも体が湿っているという事を男が歌にするというのは、ね)ではないか?

 だが、この歌詞を日本語にした歌こそが、

「誰かさんと誰かさんが麦畑、いちゃいちゃしているいいじゃないか」

なのである。うん、昔ドリフターズが歌ったあの・・・有名な。ならば「ライ麦畑でつかまえて」も強ち間違えではないかぁ、と感心してしまった。松田聖子的ではないけど、ドリフターズ的に。


 で、なんで主人公がこれを"The Catcher in the Rye"と勘違いしたかというと、それは主人公のこんな科白に集約されるのだ。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが・・・(中略)。そしてあたりには誰もいない。-誰もって大人はだよ-僕の他にはね。で、僕は危ない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転げ落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」

 ライ麦畑という一見、長閑のどかではあるが実は危ない状況の中にいる子供たちが転げ落ちるのを救わねばならない・・・その姿は「子供であり続ける」ことを願ったピーター・パンではなく、子供たちを救うという義務感を持った大人に脱皮する姿なのだ。でも、ホールデンはその気持ちとは裏腹に「大人になれない」。まるで脱皮に失敗した蛹のように中途半端な姿を社会に晒す。退校処分となる学校のフットボールのチームの遠征では、備品を地下鉄の中に忘れ、退校処分を報告に行った恩師には説教され、列車で鉢合わせた級友(友ではないのだけど、実際)の母親とは妙な会話をし・・・ニューヨークでは美人局紛いのカップルに騙され暴行を受け、信頼していた教師からは性的な扱い(この場合は教師側のバイセクシュアル的な)・・・そんなみっともない中途半端な姿でありながら、ぼこぼこになぐられたボクシングの試合でもファイティングポーズをとり続けなければならない。心は純粋で、愛する物に何かをしてあげたいのだけど、崖から転げ落ちそうなのは自分自身なのだ。

 そんなホールデンにとって最も守りたい存在なのは兄弟だったのだけど、弟のアリーは死に、妹のフィービーは今でこそ、兄を愛してくれているけれど・・・。

 まるで砥石のように彼を傷つける社会、彼を敵視するクラスメートや寮生、彼を馬鹿にしたり、良いように使おうとするガールフレンドたち、彼を愛してくれていない両親、そしてやがて失われることの運命が見える兄弟愛は彼の最後の心の砦でありながら、その消失が見えている。


 これはヨーロッパの「教養小説」とは対極にある小説なのだ。だからそうした小説を読み慣れた人にとっては、ほんとうにわかりにくく読むのが辛くなる小説でもある。だが、僕らは社会という「粉挽き器」にかけられた青年の断末魔のような叫びを聞かねばならない。その断末魔はあらゆるところで響いていたし、今でも響いているのだ。そうした青年たちは「根っからの悪」でもあろうし「根っこは良い奴」なのかもしれないし、でも「そうした善悪」とは関係なしに「響き渡る断末魔」の存在を「禁書」にしても何も変わらないのだ。

 サリンジャー自身、この小説が「社会現象」を引き起こすなどとは全く考えていなかったに違いないし、ましてや「レーガンやジョンレノンに銃を向けるような存在」を惹起じゃっきするようなものだとは考えていなかったに違いあるまい。

 なぜなら彼にとってホールデンは「実は良心の塊のような好青年」であったから。でも彼のような境遇は「好青年」にだけ起こるものではない。そして意図せずに開いてしまった「パンドラの箱」の底に「希望」が存在したのか、どうなのか。サリンジャーはその結論を示さぬままに生を終えた。


 この小説は例えば前に触れた「若き芸術家の肖像」などとは対極にある小説なのである。主人公は自分のために悩んでいると言うより常に他者との関係を重要視し、もちろん「いやなやつ」や「いやなこと」に動物的に反応し、拒絶はするのだけど、でも他者に何かの「良さ」を求め続けている。絶望的な環境でも「絶望」しない、或いはしたくない「優しさ」を持ちつつ、それを削り取られている。

 そんな意思や状況を僕は感心するものではないけれど、でもその状況を否定はしない。サリンジャー自身だって否定はしない。でも、彼が引きつけてしまった弱い心が起こす事態に作者自身も驚いているのだろう。

 僕らはさまざまな発明や研究や創造が意想外の状況を招くことを知っている。鉱山開発の為に作った爆薬は戦争に使われ、(イノセントではないにしろ)英雄譚を描いたワグナーの楽曲はナチスの宣伝材料として使われ、そしてサリンジャーの小説は間違った解釈の下に「人を殺す」理由になってしまう。


 もちろん、僕はそうした優しさという「蜜」を求める若者を無条件に認めているわけではないし、そもそもサリンジャー自身も「そんな若者」がぞろぞろとこの作品に群れてくるとは想像していなかった節がある。

 ただ一つ言えること、それはこの小説は「打ち拉がれた人」の救いだということ。ジョンレノンを殺したチャップマンやレーガン大統領を襲った がこの本を読んでいたからといってその理由がこの書物にあるとするのは「本末転倒」なのであり、「打ち拉がれた人」はこの本を読んで犯罪に走ったのではない。

 戦争や社会、様々なことに「打ち拉がれた人」は救いをこの本に求めただけである。彼らの犯罪は「打ち拉いだ」ものに帰するのであり、一冊の書物に求めるべきではない。その意味でサリンジャーの息子が「聖書を読んだ人間が犯罪を犯したからといってその責を聖書に求めるのか」という言葉は本質をついたものである。この本は「聖書」ではないが「打ち拉がれた人」の杖だからこそ、彼らに読まれたのであり、それ以上でも以下でもない。

 つまりこの本を禁書にするのは、「打ち拉がれた人」の心の慰めを奪い取るだけのつまらない作業に過ぎないのだ。

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