第17話 ジェームス ジョイス 丸谷才一訳「若き芸術家の肖像」

 ジェームス ジョイスの小説は難解と言われるが、少なくともこの「若き芸術家の肖像」に限っては難解な要素はない。

 この書物は自伝のようなものである。ただ童話や小説、宗教的随想、政治的見解、民族の心情の告白、日記などの様々なスタイルで著わされているので、読み易くはない。こうした形式を重ねること自体、ジョイスが「語らずには居られないが」「余り語りたくない」アンビバレントな状況にあったことを示しているのではないのかと思わせる。

 「むかし、むかし、そのむかし(童話形式)」で始まり「四月二十七日 古代の父よ、古代の芸術家よ、永遠に力を与えたまえ(日記形式)」で終わる文章の構成形式はそれだけで飛躍の嵐が予感される。彼自身が書いている・・・イギリスのバラッド『英雄タービン』が一人称で始まり、三人称で終わるように。


 しかし・・・「読み易くない」というのと「難解」というのは少し違う。

 起伏に乏しい(起伏はあるのだけど、敢て起伏は平坦に処理されているので)人によっては退屈な小説だと思われるだろうし、平明な「ストーリー」が存在しないことに苛立つ向きもあるだろう。

 だが、難解ではない。所謂いわゆる「意識の流れ」的な物にさえ寄り添えば、目と共に読者はその流れにのって「理解という川下」に下っていく。たよりないカヌーような乗り物で途中でしがかみはあるけれど、乗り越えられないほどではない。読み解こうなどと肩を怒らせる必要はない。だが、読みようによっては退屈にもとらえられよう。

 残念ながら読み手をためす小説というのはこの世にはたくさんあるのだ。


 とりわけこうした小説というのはヨーロッパの小説に多い。僕は平行してプルーストの「失われた時を求めて」を読んでいたこともあって、両者に共通する要素を様々に感じることになった。「意識の流れ」というと大仰だけど、プルーストの小説もそう言われてみれば「意識の流れ」に溢れていて、それが結構な大河であることを読みながら感じ、そして読み終えた途端にその「流れ」が実は終わっていなくて「これから始まるんだ」という構成になっている・・・。14巻を読み終えてから読者はその事に気づかされるのだ・・・。まあ、その話は別のところでしよう。

 さて、両者に共通する1番の要素は「自伝」的であるという点であろう。そして自分を描く時、ほのかに香るスノビズムはいかにもヨーロッパの小説の一部を形成する要素である。スノビズムと聞くと眉をひそめる人もあるが、それを嫌ってはヨーロッパというものを理解する「とば口」にもたてやしない。

 もちろんスノビズムそのものは「余り高級な感情ではない」のだけど、人間には必ず他者との人間関係において優位に立つという本能があって、それが「暴力」や「いじめ」や「マウントをとる」など様々な様態を取るだけである。安易に「スノビズム」を否定する人間ほど、もっと下品な形でその感情を充足させる人間が多い。スノビズムというのは「余り高級でない感情」の「もっとも洗練された発露」であり、それがヨーロッパの文化の本質を形成しているということもできる。

 だからヨーロッパの小説を読むには、教養を試されるという試練を避けることはできない。その上明示されたり隠喩や仄めかしによって作者から提示を受ける様々の知識を結びつけたりそれによって何かを推し量ったり、などの作業を強いられる。それなりの覚悟が居るし、まあ、だからこそ面白いのだという、多少マゾ的性向が必要なのだ。

 ジョイスとプルースト。両者の文章に共通するスノビズム的要素には政治への強い関心、文学以外の芸術への言及などがあるけれど、ジョイスの方が「ちょっと面倒」である。キリスト教、ラテン文学、文学、音楽・・・どの知識をとってもなまじっかではないので、それを一つ一つ取り上げていたら、読み続けるのがつらくなる。絵画や音楽に創作を多用し、どちらかというと比較的汎用性の高い知識が散りばめられているプルーストに比べて、ジョイスの知識は熱帯雨林のように絡み合っていて惑わせる。

 例えば・・・音楽でいえば、ショパン、ワーグナー、ベートーベンや同時代のフランスの有名な作曲家たちが引用されるプルーストに対し、ジョイスの小説ではウィリアム バードとかジョン ダウランドとかが登場する。そのバードが英国国教を忌避した人間であったり、ダウランドがエリザベス1世の暗殺計画を持ちかけられたり、などという歴史的背景まで知らなければこの小説を「読めない」などということにしたら、これは確かに面倒だ(だいたいバードなんて、僕だってグールドのCDがなければしらなかった作曲家である)

 でも、実はそんなことに気を遣わなくてもこの小説は読了できる。(確かに様々な知識を持っていればより楽しむ事は出来るだろうが、そんなことは二回目以降、三回目から先にとっておけばいいおまけのようなものなのだ)

 小説の本質的な骨格はタイトルにあるとおりであり明確で、そこから別の意味を読み取る必要もなければ、おそらくは著者もそんなことは望んでいない。むしろ肝要なのは著者のhumilitation的な感覚で、これは小説を通して掴んでおかないといけない。若さゆえの傲然ごうぜんとした恥辱感こそがこの小説の味であり、その感覚は誰もが一度は通ってきた道に生えている苦い草なのだ。

 ジョイスの小説に明らかにあって、プルーストの小説には薄いものそれは宗教への強い感情である。(逆に言えばプルーストの小説に根強く繰り返されるユダヤと性的倒錯はジョイスにはない)もともと「若き芸術家の肖像」の基本的な構成は主人公、スティーヴン ディーダラスが本来進むべき(だと周りから設定され、本人にも刷り込まれた)聖職者への道を忌避し、芸術への道を歩んだ事への「告解」の性格を持つ小説である。読みにくさの根源は、それを宗教的儀式の一つである「告解」という形で発表するという行為をするにあたり婉曲的に様々な形式を駆使した文章に遁れたことに起因するのではないか。

 その結果として、作者の「恥辱」が至る所に「苦み」と「晦渋」を伴いながら散りばめられている。それを表現するときの対話相手は神学校の神父たちであり、教会そのものであり、彼が希求しながらも快楽に繋がりかねない「一人の娘の明るい声」と対峙する「峻厳」である。少なくとも主人公はそう思っている。

 「この善きあがない主を傷つけ、彼の怒りをかりたてていいのでしょうか?」という問いに「上顎にねばりついて離れない舌」のために言葉さえ出せず、「決して御心に背かず」「生活をあらためる」と心の中で祈りつつ、主人公はどうしてもその道に進むことは出来ないのだ。

 そんな僕を理解せよ、という自伝に対して読者はyesと言いながら読み進めれば良いだけだ。そこに自分と共通する物、全く新奇なものを選り分けながら。そして若き芸術家が若き聖職者になぜ「なれなかったのか」なぜ「ならなかったのか」を読み解けばそれでこの小説を読んだ価値があるのだ。


 ただ、もう一つ著者の目論見は存在する。ジョイスは自伝の中に芸術論を語っているのである。それはそうであろう。若き芸術家が芸術論を語らずして何を語るというのだ?

 「彫刻は程度の低い芸術」「いちばん高級でいちばん精神的な芸術である文学」などと主人公は彼の友人たちに語りかけていく。それは宗教的な話とは別で受け身ではなく、「攻め」として。つまり宗教から遁れ、そして芸術を希求するという二つの組み合わせが、「性」を触媒として成立しているという構造は注意深い読者であればそれとなく把握できるであろう。


「天使を堕落させた美しい人よ」

「闇が空から落ちてくる」

 この小説は引用に溢れている。その引用はやがて、宗教と芸術の択一への解を求めていく。そして・・・宗教を拒絶した芸術は背徳にならざるを得ないのか。だが、違う。

 本当は「光が空から落ちてくるのだ」、と悟った瞬間に彼を捉えていた性的な欲望も弾け飛び思考は止揚するのだ。うん、本当は僕らは誰もがそんな経験をしているのだ。だけど、誰もジョイスのようにその構造を認識して小説に書けたりはしないのさ。


「若い芸術家の肖像」 ジョイス 丸谷才一訳

 新潮文庫 シ 3 2 ISBN4-10-209202-1


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