第15話 O. HENRY "The Green Door" from "The Big City"
O.ヘンリーの手による短編は僕がまだ中学生の頃は普通に国語の教科書に載っていたが、今はどうなのであろう?
僕と同じジェネレーションの人なら彼の短編を一度ならず読んだ経験があるに違いない。そうした人々には容易に同意して貰えると思うけど、「賢者の贈り物」とか「最後の一葉」などは、今なお、純真な青少年に心に響くものがあるはずだ。
これらの小説を読んだ人間が「おれおれ詐欺」などを計画したり実行したりする筈もあるまい。しかし世の中にこうした詐欺に加担したものたちの数は、下っ端まで含めれば途方もない数に上る。そんな彼らはこうした小説を読んではいないのだろうから恐らく教科書から外されたのに違いない。
ちなみに最近世間を騒がしているMLBでの例の通訳氏の賭博問題のニュースのおかげで、「大谷選手が道徳の教科書に載ったのだけどその教科書にも通訳が登場していたために大変なことになっている」という事を知った。
まず、感じたのは「大谷選手が教科書に載り、O.ヘンリーが教科書から外される、そういう時代になったのだ」という素朴な感想である。(「同じオーで始まるのに」という洒落ではもちろんない)言うまでも無く大谷選手は素晴らしい人物だ。僕も大ファンである。去年など、心がポジティブになるニュースの大半は彼の活躍だった。政治家など足下にも及ばない。その意味では道徳の教科書に載せたいという気持ちはわからないでもないが、すぐにそういう安易な方向に飛びついてしまうところが今の時代の
とりわけ道徳という「価値観」を刷り込む教育(その全てが悪いとは言わないが、押しつけの「価値観」は恒に国民の監視下に置くべき性格のものである。「道徳」によって為政者が国民を「誘導、監視」する可能性を考え、同じ熱量で国民は為政者を監視しなければならない。その最大の理由は最近の政治家の余りにも愚かさに起因している。金に穢い、パワハラをする、ろくな政治理念をもっていない、そんな政治家が述べる道徳観など糞の価値もない)を無理やり教育現場に持ち込んでこの体たらくなのは笑止なのである。
大谷選手は仏ではない。彼の行為の本質の全てが善であるかのように評価して「道徳」の教科書に載せようとするのが「迂闊」だといっているのだ。
僕らがテレビを通して、メディアを通して、人の評判を通して知る大谷選手は「善人」、或いは「イイ奴」である。だがイイ奴なら道徳の教科書に載る資格があるか、というと「そんな単純な思考をする人間は教育に携わるべきではない」と
かつてイチローさんや王貞治さんも教科書にのったことがあるらしいけど、申し訳ないがそういう安易な教育法が今の社会の問題の一因である。彼らは成功者であり一角の人物である。もちろんそういう人物を目指すことは間違えではない。しかし、もういちど指摘しよう。彼らは成功者であり素晴らしい人物の可能性はあるけれど「道徳」の対象ではない。今のところ「経済的成功者」の教育の対象でしかないのだ。王貞治さんは政治の世界に接近して(或いはその逆で)コロナ禍のときに政治家と会食をした。今では記憶している人は少ないだろうけど、その時にも「危うさ」を感じたものである。王貞治さんを批判しているわけではない。そこに集まる有象無象との対峙に於いて道徳性というものが発揮されるのだ。寧ろイチローさんの方が、そういう有象無象を断固として受け付けない潔さがある。幾度となく国民栄誉賞を拒絶したのはそういう性格の表れであろう。彼はその危うさを理解しているという点で王さんよりは数等上である。
だが、そうすると彼の周りに「賞賛」が集まってくることは少なくなる、少なくともそう感じる。「清き水に魚は住まない」というが、所詮魚などは水に集まるものではない。「餌」に集まるものなのだ。餌に集まる道徳などは余り普遍的なものではない。通訳氏も結局餌に集まった”だぼはぜ”に過ぎない事が判明し、だぼはぜを教科書に載せようとしたものたちが笑いものになった。それ自体は笑い話に過ぎないが、そんな人たちが教科書を作っているという事実は考えれば恐ろしいことなのだ。
通訳のせいで検定に合格した教科書はおそらくみんなおシャカになるのだろうけど、それは自業自得なのであって大谷選手のせいではない。もう少し道徳の本質を文部科学省も教科書会社は考えるべきだ、という良い機会である。
ではO.ヘンリーが「人物」として或いはその「表現」として道徳に適正かというと議論がありうるだろうし、なされたことは承知している。
O.ヘンリーが教科書から外された理由はPCのせいであろう。PCといってもパーソナルコンピュータではない。ポリティカルコレクトネスである。はっきりとそうは言われていないけど、時代背景からして彼の小説にはしばしば、"ニグロ/ニガー"という黒人の蔑称が使用されている。これはO.ヘンリーが意図的にそういう表現をしたわけではなく、彼が生きている時代がそうさせたわけで、とりわけニューヨークの世俗・庶民の小説を書いたO.ヘンリーにはそうした表現が散見される。
もう一つはO.ヘンリー本人の経歴である。彼は横領(銀行の金を自分の事業資金に使った)やら逃亡(横領が発覚した結果、比較的同情的な被害者の銀行やら周囲の説得に関わらず逃げたらしい)など、あまり
そして翻ると、そうした正義と犯罪の境を歩んだからこそ、彼は「正義」「正しさ」「適法」「適正」について・・・即ち「人の道」に関わる深遠な小説(小説そのものが深遠と言うより、その小説を読むことによって正義やらについて深く考える機会を提供する)小説をたくさん生み出したのだ。だから、彼が犯罪を行ったことを公然とし、なおかつ彼がこういう小説を書くに至ったその経緯全体が「道徳」を考える基盤になりうる。そういうプロセスを経て、ニガーというような表現の「時代の不適切さ」を指摘してこそ「道徳」を考える基盤になる。O.ヘンリーを教科書に戻せという主張をしているつもりはない。道徳とかいう偉そうな教育をするならば、ちゃんと考えて欲しいというだけなのだ。
そういう意味ではここに揚げた一編より、同じ短編集の中にある"The last Leaf(邦題:最後の一葉)"とか"The gift of the Magi(邦題:賢者の贈り物)の方が道徳には期する小説である事は疑いを入れないのだけど、敢て"The Green Door"を挙げたのは(もう歳を取って道徳とかは余り縁も亡くなったし、今更道徳に問われる事も無い僕が)道徳とは関係なしに”人生の機微”とかそういうものに触れていたいからである。うん、こんなアドベンチャーがもしまだ僕の目の前にあるならば・・・ね。余り道徳的ではない短編かも知れないけど。
ちょっとだけ、粗筋を挙げておこう。もし興味があったならば、英文(さして難しいものではない。掲出したもの以外にもおそらく別の版も多く出版されているだろうし、手に入れるのはさほど困難ではあるまい)でも日本語訳でもいいから手に取って見てください。僕が中学の時に読んだ大久保康雄さんの訳もまだ残っているらしい。
We should admit that true adventures have never been plentiful but Rudolf--- Rudolf Steiner was surely one of them. He believed that what might be most interesting thing life might lie just around the corner. As a result, twice he had spent nights in a station-house, and had series of dupes. But real adventurer did not mind.
One day, while he was strolling in the older central part of New York, he bumped into a tall Ethiopian who wore a red embroidered coat and that guy handed him a dentist's card, which after receiving it, turned out not be a dentist's card but a card with an inscription of "The Green Door" on it. He found that all other cards that the guy handed to passengers was dentist's cards so, he tried to get another one...and the same words were on it. He was sure that the tall guy invited him to an adventure.
He identified the building in which, he believed, his adventure should lie and got into it. There at the top floor, was a green door dimly lighted by jet gas. Hesitantly, he knocked the door. A faint rustle came out from the door and it slowly opened.
A girl was standing there with white-face. She was tottering....
(世の中に真の冒険家というのは殆ど存在しなかったことを僕らは認めなければならない。しかしルドルフ---ルドルフ スタイナーはそうした冒険家の一人である。彼は人生で最高に面白い事というのは思いも掛けない近くに存在しているという信念を持っていた。その結果、二度ほどブタ箱で夜を過ごし、なんどか間抜けな事態に陥ったことはあるが、しかし真の冒険家はそんなことは気にしないものである。
ある日、ニューヨークの昔からある中心部を散策している最中に彼は真っ赤な
その冒険の場所と思われる建物を見つけると、彼はその建物に入り込んだ。建物の一番上のフロアにはケロシン灯の淡い光に照らされた緑の扉があるではないか。
よろめいた・・・女の子。おーっ。どんな展開が待っているのでしょう。続きは次週・・・ではなく本を買って読んでください。
二度ほど"station-house"所謂ブタ箱に入ったという経験を持つRudolf Steinerという主人公は作者そのものを投影しているのかもしれないし、だとしたら作者はそんな自分の人生を肯定しているのだろうなぁ。
ちなみに、この小説に出てくるエチオピア人をO.ヘンリーはnegroと表現しているが、同時にthe Ethiopian displayed a natural barbaric dignity(そのエチオピア人はごく自然に野生的な威厳を備えていた)とも表している。少なくとも作者が軽侮と共に人間を登場させているわけではない、ということを読者は悟るべきだと思うし、軽々に言葉遣いだけでのPCを持ってこの短編の名手を
抹殺されるべき対象はたいてい世間で考えられているものとは「違う」のである。
41 STORIES by O. HENRY 150TH ANNIVERSARY EDITION
SIGNET CLASICS of Penguin Group
ISBN 978-0-451-53053-0
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