第13話 「老子」 小川環樹  訳・注 

 以前、マックスヴェーバーやキケロ、ないしはカミュの著作を「哲学ではない」とか、「この書は基本講演だから」と、少々強引な理屈をつけて「短編」に組み入れたことがある。申し訳ない。さて、今回紹介する「老子」に関しては、これは間違えなく「哲学書」である。言い訳の利きようが無い。というかむしろ「哲学」に分類される書の方が遙かに少ない。

 なぜならば哲学は体系を備えた世界観をもって、事象を全体構造の中で顕わにする性格を有して居ねばならないからだ。例えばニーチェとか、カントとか、デカルトなど西洋の近代哲学のみならず、プラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ、老子や孔子などの古代中国などにもこうした構成を有した「学」が存在する。

 そもそも「哲学書」が存在する時代というのは極めて限定的(前述の通り古代中国、古代ギリシャ、近代ヨーロッパなど)で、社会がそうした知的探究心を重要視する土壌にしか育たない「センチュリープラント」のような性格をもったものでもある。

 こうした定義を論じるに当たっても「世界観」などの言葉の定義について書かねばならないのは実にややこしいことで、つくづく現代は哲学からほど遠い時代なのだと嘆息する。

 最近はやたら「世界観」という言葉が使われているが、だいたい「ストーリーの設定」という程度のもので、世界観やら神やらがやたらと衒学的ペダンティックかつ粗雑に登場する近頃の知的レベルにはうんざりするが、最近ふと視聴したNHKの番組でも「世界観」を濫用(乱用ではなく濫用である)していたので、もうこれは現実を直視するしかない。日本で言葉を最も大切にする機関はNHKなのであることはこれは間違えない。ということで日本というのは八百万やおよろずの神とほぼ同数の「世界観」があるのだと思うしかない。まあ人一人に一つずつの「世界観」みたいなものですね。


 もちろん哲学における「世界観」は少なくとも今流行するアニメとか漫画で使われている一人一個所有可能な安手の「世界観」とはかけ離れている。(注:ただ、その漫画の書き手が手塚治虫だとちょっと引っかかるところがあって、事態を複雑にしている。手塚治虫という漫画家の存在はそれほど厄介なもので、彼が存在しなければ切り捨てて一向に問題もないものが、彼の存在によって救われているのだ。救う必要など金輪際ないのだけどなぁ・・・。とにかく漫画の世界では手塚治虫とそれ以外と区別する必要があるとだけ言っておきたい。手塚を「哲学」とか「哲学的」という気は毛頭ないのだが、凡百ぼんぴゃくの漫画及び漫画家とごっちゃにするのは気の毒な気がする)


 さて敢て「哲学」それも老子をここで取り上げたのはこれが実に「短編」であることに起因する。世の中の哲学書というのは実は結構長い。プラトンにしてもアリストテレスにしても・・・孔子、カント、ニーチェ、ハイデガー。哲学者は往々にして雄弁である。

 しかし「老子」が「短編」である事は間違えない。短編の哲学書として勧めるのは「老子」とデカルトの「方法序説」の2冊で、これだけは最低読んでおいて欲しいと常々若い人には勧めてきた。加えて哲学書ではないがアランの「幸福論」を読んでおけば、最低限の「哲学的思考」の訓練となるし、生きる方針も確立できる。

 勧めて読むような若い人はいるまい?まあ、その通りだが哲学的思考の訓練をしているのとしていないのとでは、人生の様々な点に於いて判断が異なることになる。人生なぞ悩む前にきちんと己を律する手段を講じる。その手段の一環として今回「老子」を取り上げてみたというのが本当のところである。


 中国の哲学、取り分け老子あたりの考えは「中国医学」と通ずるものがあって、逆に近代哲学が「現代医学」に呼応していると考えると少し分かりやすいかもしれない。「老子」と聞くと敬遠しても「中国医学」と聞けば親近感が湧く人もいよう・・・。そんなにいない?あ、そうですか。じゃあどうすればいいんですか?

 閑話休題。

 老子の説く「道」というものが中国医学が説く生命になぞらえたとき「気」のような、説明しかたいが「自動的に正しい方向に進める構造に内在するロジック」を構成するのに対し、近代哲学や現代医学はそれぞれの部分的なものをミクロに捉えて分析していく。

 老子の説くものの根本は実は「非常に単純」な存在なのだが、「単純」なものは捉える際に誤りやすい。だからこそ、老子は「非常にわかりにくくそれを説明することによって人をしてそれを考えせしめる」という方向に導く傾向が強い。

 一方で近代哲学は特定の現象や事象に光を当ててそれを「分かりやすく」説明しようとするが、そもそも「その特定の事象」は人々の生活とずれた所に存在していて(つまりは人々が所与の事象とか「考えても仕方ない」ようなレベルの所に存在している)ので、そもそもそれに対する関心が高くない。(それと結果的に哲学者は親切に説明していることでより難解にしているケースが殆どである)

 そうしたミクロの世界を引き上げるのは医学にも存在していて、例えばmRNAは存在しており重要な役目を担って居るのみならず、人間のみならず全ての生物に存在している。にも関わらずその役割は誰も意識していないし、余り関心も引かない。

 観念とか判断とか、様々なものも同じでそれをカントとかショーペンハウエルが論じているのをガン無視しても、老子の説く直観的真実などはなに引っかけなくても普通の生活には(目に見える)支障はないわけで要は「運さえ良ければ」人生は八十年でも百年でも問題なく過ごすことが出来、「ぼーっと生きているんじゃない」と五歳児に叱責されてもニヤニヤしているだけでやり過ごせてしまうのである。いや、普通のケースでは寧ろそこにこそ「幸せ」は存在するのかもしれない。ぼーっと死ぬまで生きていければそれが最高の幸せと言えば言える。それは全く哲学的ではないし、「運」が悪ければ自助の道さえ自ら放棄することになるのだけど。わかりやすく纏めると哲学の構造は西洋的な分析論と東洋的な構造論の二つに存在し(もちろんその中間も亜流も存在するが)、その狭間で分析も構造も無視したままで人間は(その生命を全うすると言うだけの意味でなら)悠々と生きていける。

 親切な西洋風の哲学者たちにとっていかにも無念なことであろう。

 一方「老子」などは書いている方も「どうせ、殆どの人には興味ないのだから」と書いている側も達観していてさほど親切ではない。故に「老子」の方でもそういう人間たちを斜めから見て鼻で笑っている。

 洟にも引っかけない衆生と鼻で笑っている哲学者を繋ぐ努力は歴代成された訳で、微力(過ぎはするが)ながら僕らもその助けをするのが正しい生き方である、筈だ。


 そういう観点から幾つかの言葉を揚げてみれば、まず第一章

道可道 非常道 名可名 非常名 無名 天地之始 有名 万物之母 故常無欲

以観其妙 常有欲 以観其徼 此両者 同出而異名 同謂之玄 玄之又玄 衆妙之門

は「老子」の基本的な思考のベースを表している。

「説くような道は道とは言わず、名付けるような名は永遠の名ではない。天地の始めにあっては全ての物に名はなく、万物の母によって名付けられる。拘ることがなければ本質がそこに顕わになり、何かに拘ればそこから見えるのは枝葉末節である。見える二つの物は同じ源を持ちながら名をたがえる。この本質を玄という。玄とはまさに見ることの出来ないものであり、そこから妙という表象が顕れる。(これは原本の訳注とは異なっており、とりわけ「欲」の解釈が異なっている。以下の解釈も原著を必ずしも参照していないので興味のある方は参照してください)」

 この考え方こそは老子の一つの本質であり、「眼下に見える浅いもの」に対する強烈な疑念と本質への希求こそが老子の哲学の本質である。その思想は従って、凡庸の方向と異なる方へと向かう。

 第四章

道沖 而用之或不盈 淵兮似万物之宗 挫其鋭 解其紛 和其光 同其塵 湛兮似常存 吾不知誰之子 象帝之先

「『道』というのは空っぽの器のようなもので、これを使うとき必ずしもいっぱいにするものでもない。(しかし)その底は深く全ての物の始まりのようであり、その中では尖りは鈍らされ、ややこしいものはときほぐされ、光は和らぎ、塵の中に隠れたようになる。常に淵に水を湛えたもので、何から生れた物か誰も知らず、この世を司る何物よりも先に存在した」

 或いは第十一章

三十輻共一轂 当其無有車之用 埏埴以為器 当其無有器之用 鏨有牖以為室 当其無有室之用 故有之以為利 無之以為用

「車輪においては三十のふく(スポーク)が中央のこく(中央)に集まって、その何もないような構造によってこそ車として機能する。ねた粘土で作った器は、その空っぽの中空こそが器として機能する。戸や窓の穴を壁に空けて部屋を作る、その取り去った空間によって部屋が機能する。何かがあって利便性があるとも言えるが、何かがない事によって利便性が生れるとも言えるのだ」

 深い洞察である。十一章などは「無用の用」などと言われているが、本質は「無用の用」でもなく、無用と用の境を勝手に決める「無知」を指摘しているのである。こうした複眼的思考が気づきを与え知の盲人の目を開ける。謦咳けいがいに出会うことこそが哲学に出会うことなのだ。しかし世の多くの人の頭脳はもっとかみ砕いたような柔らかい食べ物を好む。だからこそ宗教が世の中に蔓延はびこり、哲学は痩せ細る。桜田通りを通れば怪しげな宗教のビルばかりが建ち並んでいるのを見ずにいられないのである。

 念のため論じると、哲学と宗教の違いは哲学が知的な体系を提示するのに対し、宗教は「行動体系」を要求するところにあり、ひいては「その行動を踏み外す」ことに対し「罪と罰」の概念を提示し、(あまつさえ)それを強要することにある。

 その結果宗教はその意味で極めて「政治的な」性格を持つ。だからこそ、宗教は「政治と分離」しないと大変なことになるので、既に散々「間違え」を起こした「キリスト教」や「仏教」の経験をしてきた国民や民族が「イスラム教」や「マルクス教」を制止しようとするのは極めて当然で的をた行為なのである。(もちろん、十字軍や魔女狩り、宗教戦争、宗教による大量虐殺などの過去の多くの誤りが許されるものではないが、少なくてもそれが過ちであったことを認める限りに於いて正しい方向にある)哲学は人の知性における蛋白質で、宗教は糖質である。糖質は甘く、生きるエネルギーを与えてくれるが過剰に摂取することで人を治すことの出来ない病(糖尿病)に陥れる。過剰に攻撃的で狂信的な態度は宗教のもたらす恐ろしい病である。

 僕らは「聖書」やら「仏典」やら「コーラン」などの基本的な精神をおとしめる必要はないが、時に明示的に或いは隠喩的に語られる「異教徒の罪とそれに対する罰」の部分を「特に」本気にしてはならない。それを本気にすると中世におけるキリスト教における十字軍や魔女狩り、現代の一部イスラム教徒による異常行動、スケールは小さいがオウム真理教のような悪魔集団が出現する。逆に世俗的になれば、従来は救いのために存在した善意の「喜捨」を逆手に取った詐欺集団紛いの教団がそこらに産まれ、脅迫と同調圧力で信者を絞りとり、宗教が語るべき態様と全く逆の性の強要までするクズの集団と成り果てる。

 宗教は凡そその二つになり果てるのが必然的であり、いくつかの宗教、例えばキリスト教とか仏教が、一定のおぞましい時期を経て、宗教というより道徳という性格を得て定着する。

 残念ながら宗教というのはそういうものである。なぜなら宗教は人間の「カルマ」そのものに対峙たいじし、衆生を助けようとした挙げ句、中途半端な衆生の「業」に翻弄される宿命を負っているからだ。キリストも仏陀もムハマンドも決して非難されるべきではないが、そこにくっついた有象無象うぞうむぞうにたいていの場合「やられちまう」のである。

 だからこそ人間は宗教に助けを求めるのではなく、哲学で自らをたすける必要がある。だから老子くらいは読んでみたら?というのが僕のお勧めであり、また後に書くかも知れないけど「方法序説」なんかも参考になるよ(知の在り方に関しては特に)と思っているのであります。


 さて・・・老子の書は「哲学」となる基礎的な世界観と人間に関する懐疑的な洞察だけではなく、そこから「政治」を説くという性格を持つ。これも老子という人間と書物を複雑なポジションに置く一つの理由である。確かに古代中国思想は全て、世界観、人間観と同時に「政治」について語るのが常で、逆に言えば「政治」という「厄介な」しろものがあるがために「世界観」と「人間観」を掘り下げて論じなければならない、という要請があったのかもしれない。

 そこには「政治をする側」にも何らかの不安や懸念が存在し、もちろん「統治される側」にはもっと逼迫ひっぱくした「命」やら「地位」やら様々なリスクが存在し、互いに何らかのプリンシパルが必要であった。だが、それは中国では「法」という明確な縛りではなく、「思想」という曖昧な(統治する側にっとっては都合のいい)形であり続け、そこに孔子も老荘も存在するのである。そして今なお「法治」面をして「人治」であり続けているのだから、「2000年やら3000年やら」を誇り、恥じるのは中華料理だけではない。

 ただ、近代政治の本質から視ると老子の政治観は政治学の基本さえ成してはいない。良く言っても「政治を行う者の心構え」を説くのが精々で、それは政治の「原初」が「必然的でも望まれてもいない」支配と被支配という構造しか持っていなかったことで、そうした原初的な政治は今なお、「老子を生んだ国」でも「レーニンを生んだ国」でも、羊の皮を被った狼や蛇や熊として厳然と存在し続けている。まあ、だからこそ老子もレーニンも生れたのであろうが・・・。だからこうした国では「老子」は依然として貴重な書であろう。例えば、

 第十七章

大上下知有之 其次親而誉之 其次畏之 其次侮之 信不足焉 有不信焉 悠兮其貴言 功成事遂 百姓皆謂我自然

「(主従の関係で)最上なのは下のものたちが主の存在を知っているだけの場合である。次にまともなのは下の者が親愛の情を抱いている場合である。その次はおそれている場合である。最低なのは下が侮蔑している者である。主が信頼されていないのは、そこに疑いがあるからだ。悠然として自らの言葉を高めれば、功は成り、事は成し遂げられ、全ての人々はそれこそはなるべくしてなったのだ、と語ることであろう」

 残念ながら今の老子の生れた国の状況は下から2番目のようでいて、1番目というのが現実であり、老子が逝って既に2000年を超えるが、残念ながら政治的には無駄な2000年を過ごした挙げ句、今、またマルクス教に侵されているのである(ちなみに個人としてのマルクスやその書物はムハンマドなどと一緒で「教徒」による被害者である。マルクス的な観点に立った「思考方法」そのものを否定する積もりは一切ないし、そのアプローチは近代社会や現代社会で有用だと僕は考えている。問題は愚かな回教徒であり愚劣なマルクス教徒なのである)

 そもそも老子は「政治」は本来、不要なものであるという視座を心の裡に持っていることは否定できない。なぜなら老子にとっては政治は一種の災害であって、災害であるならばなるべく被害の少ない災害を心がけるべきだというアプローチが根本にあるからである。確かに・・・往々にして政治は災害である。或いは日本のように経済的損害である。

 残念なことに人間の本質は何年経っても変わらないのかも知れない。まあ、ぜひ他の章も読んでみてください。


 因みにこの書の編者である小川環樹氏の兄は小川芳樹氏(冶金学者)貝塚茂樹氏(歴史学者)湯川秀樹氏(物理学者)の三人であり、この兄弟に共通する老荘思想は祖父の小川駒橘から学んだものらしい。僕が知る限り「知」という側面ではその深さと言い、そのカバーする領域と言い最強の兄弟である。老荘を知るとそういう良いこともあるのだよ。


「老子」 中央公論社(中公文庫)

(所有している物が昭和48年に刊行された物で、それ以上の情報はない)

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