第11話 筒井康隆 「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」そして「ププリカ」
現存する日本の小説家の中で、未だに、かつ最も
まだ日本が元気だった時代の人々である。だが星新一も小松左京もとっくの昔に逝ってしまった。日本の土地評価額がアメリカのそれを超えた、という嘘か本当かわからないような話がまことしやかに囁かれ、日本の製品がアメリカの労働者によってたたき壊され、このままにしていたらどこまで伸びるかと思われていた日本は、彼らの活躍した時期をピークとして、それ以降ずっと退潮のまま行くべき道を失い、ただ一人筒井康隆だけが途方に暮れたように生き残っている。
とはいえこの三人の中で「文学的」に最も評価されるべきは筒井康隆だと僕は思っているし、彼は単なる「SF作家」という範疇を超えた作家であると考えている。そろそろ100歳になるのではないかと思って調べたら今年90歳になったばかり(?)らしい。
思ったより若い。風格と存在感は100歳を遙かに超えているのだが・・・。ちなみにSF小説家としては小松左京が、そして星新一は未来に至る過程を鋭い目で観察した風刺作家としての側面がもっと評価されるべきであると思う。小松はジュールベルヌと並ぶ存在感があるし、星新一に関しては「おーい、出てこい」などを始めとしてその端的で的確な未来予測がもう一度評価される時期がいずれ来るだろう。
筒井康隆に話を戻そう。この御仁、最近は随分落ち着いてきたが、以前はインターネットもない時代だというのに炎上したり、喧嘩や裁判をしたりと忙しい人であった。小説家としてもナンセンス小説を書いたり、SF小説を書いたり、奇妙な生物の出てくる短編を
インターネットのない時代に炎上するというのは大変なエネルギーが必要なことで、その一事をもってしても「なかなかの大人物」であり、規格外の才能を持っている。その上並外れた行動力をもつ、なんだかしょぼい現在の日本文壇においてまことに尊敬できうる小説家である。
彼は「時をかける少女」の作者として有名だが、それはこの小説が映画になったことに起因するのだろう。魅力的とは言え、主人公はまだ中学三年生であり、小説も短編である。なぜか「魅力的な女性」を描かせると抜群の才能を持つ(漫画家の江口寿史とその点に於いては
女性としてはやはり中学三年生では花開いていない。しかし花開き始めたばかりの
七瀬と一番花として
作家もこの二人を愛していたのではないか。その証拠に火田七瀬はこの作家として珍しく連作の対象になっている。千葉敦子はシリーズものになっておらず、七瀬のように超人的な能力は持ち合わせていないが、そのかわり医学者として人の夢の中に忍び入る装置を用いるという点で人の心を読むと言う点で共通した設定となっている。いや、火田七瀬を主人公とする事への限界を踏まえた上で千葉敦子は「後継者」としての設定ではないかとさえ思えてくる。
強靱な精神と魅力的な外観と、節度を兼ね備えた女性・・・それが筒井康隆を始めとして僕らを虜にするタイプの女性なのだろう。その上彼女たちは僕らの心を読む能力を持っているのだ。それをどう使うかは彼女たち次第ではあるのだけど・・・。まあ、人の心を読むどころか、場の空気を読むことさえ拒否するタイプの人間が増えている現代に於いては、「自分自身の心を読まれても差し支えない節度を保った人間」にとっては「心を読んだ上で自分を好ましく思ってくれる女性」は望ましい存在なのかも知れない。喋らなくても分ってくれるし・・・、あ、やっぱりちょっと怖いか。なんだか落ち着いてそばにいることはできないかもしれない。
ともかく、七瀬というのはそんな畏れをも吹き飛ばすほどのとても強烈で、そして魅力的なキャラクターであった。
しかし・・・よく考えてみると彼女の初出は1972年、時代設定からして彼女のような歳の女性が「お手伝い」として「尾形家」や「桐生家」のような中流家庭、あるいは没落した家に入るというのは、やや不自然に思える。時代的には「市原悦子のようなお手伝いさん」が上流階級や、相当高給取りの共働き、或いは家族の多い自由業の家庭に存在するというくらいで、戦前のように若い女性のお手伝いさんや「書生」のような存在が完全になかったとまではいわないが、小説のように次から次へと家庭を渡り歩くという設定はさすがに無理があるのではないだろうか。
その上七瀬のような「心を読む」女性にとって、閉鎖的な空間である「お手伝いさん」という職種が、望ましいものとも思えない。というか寧ろ閉鎖的な空間であるからこそ、七瀬は連続して家庭を「崩壊させる」ことによって勤め先を移っていくことになる。
とどのつまり、この設定は不自然であるが、「小説にとっては必要」なものだったのだろう。確かに彼女がどこかの企業に勤めていたら、その企業のある部門が「奇妙な形」で崩壊させざるを得ないという「結果」が不自然なストーリーになってしまうに違いない。小説が崩壊することに比べれば、多少設定に無理があってもごり押しした方が望ましい結果になる。
家庭であれ企業であれ、そこに属する人間の心理はおそらく極めて「グロテスク」であることには変わらずその奇形がどういう人間に、どのような形で存在しているのかを明確にするには閉鎖的な空間であり煮詰まりやすい「家庭」の方が適していたわけで、即ちそれは「破壊兵器」になりかねない七瀬を「破壊兵器」として使用する目的が最初から作者にあったに違いない。
最初に七瀬が「破壊」する家庭である「尾形家」は現実逃避型の妻、小心者であるくせに横柄で女好きの夫、セックスに溺れる娘、父にコンプレックスを抱き父と女を共有している息子という家庭。作家はこれらの家庭を「いままでに出会ったことがない」ほどひどい家族という設定にしている。そしてこの家族を皮切りに「とんでもない家族」に連続して出会うというのを読者に気づかれないように、しかし平然と図太くこの作家は設定しているのである。
それがいかにもこの作者らしい。ある程度の図太さを持って設定しなければこうした小説は成立しないのも事実である。
その図太さと共にこの作品集で有効なのは、「なんとなくありそう」な筋書きがをもたらす「読心術」の存在である。科学の発達は様々な小説上の「夢」をぶち壊してきたが、そのおかげでぶち壊されていない「夢」は寧ろ「現実の中に浮上」している。「読心術」がその一つまでとは言わないが、人間の思考が
もちろん、現代の科学では否定されている。否定されていても「現代の科学」は所詮「現代」という限定を伴っている。常識の地平を離脱しなければ僕らは未だに「地球を平面」だと思って生きているだろう。その限定のギリギリで存在する可能性こそがSFを作り、面白くさせるのである。
だから今は「少なくとも超巨大エネルギーを伴わない」錬金術はSFとして成立しなのだが、(少しお手軽かも知れないけど)「読心術」はありえそうな話であり、そしてその「読心」が持つ威力はグロテスクな人間の思考を顕わにするとても良いツールなのである。
そんな破壊的なツールを持ち、自らに襲いかかる「性的」な危機を始めとした様々な危機を乗り越えるという設定は少なくとも若い読者の共感を得るものに違いない。そうした設定を作る事が出来るのが筒井康隆の天才たる所以であり、それは夢と現実が融合していく「パプリカ」にも踏襲される。
ただ、この小説群の困難さというのはやはり相当なものがあったのだろう。「家族八景」が純粋な「読心術」の設定であったのに比較して、「七瀬ふたたび」は「超能力」の集団という新たな設定が加えられ、そうすることによって「その集団に敵対する存在」というものも生れた。それが、人間の内心の醜悪さを曝くという当初の設定と齟齬を来すのは仕方ない。そして「エディプスの恋人」では「原初の存在」ないしは「神的」なものが現出する。そういうものが現われるほど「設定」の面白さは崩れて行かざるを得ない。
「読心術」で全てを貫くことの困難さは理解しつつ、だからこそ僕は「家族八景」の構成がいちばんしっくり来るし、畏れつつもその中で強く生きる七瀬を愛おしく思うのである。
「家族八景」 筒井康隆著 新潮文庫 つ 4 1 ISBN4-10-117101-7
「七瀬ふたたび」 筒井康隆著 新潮文庫 つ 4 7 ISBN4-10-117107-6
「エディプスの恋人」 筒井康隆著 新潮社 つ 4 13 ISBN4-10-117113-0
「パプリカ」 筒井康隆著 新潮社 ISBN4-12-002236-6
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