第9話 マックス ヴェーバー著 脇 圭平訳 「職業としての政治」

 「キケロを短編小説として扱うのはどうか」と言う指摘があたっているとしたら、マックス ヴェーバーのこの著書などは更に範疇外であろう。(この本は岩波文庫で白帯「政治・法律」にカテゴリライズされている)しかしよく考えていただければ、この二冊は量的、質的に学術的著作というほどのものではなく、どちらかというと「読み物」としての性格が強い。著者自身もそうした認識であろうし(そもそも表題の書物は講演記録である)「読み物」として扱われることを望んでいたと思える。

 政治学を勉強した者としてはこうしたベーシックな書物を読み返すと昔日、情熱を(ある程度は)もって学んだ時代を思い出して血がざわめく。

政治「学」といってもこの書レベルのものは政治に関わる人間であれば国会議員であろうと、地方自治体の議員であろうと或いは官僚だろうが地方公共団体の職員であろうが、必須の「読み物」である。いや、こうした書物さえ読んだことさえない人間が政治に関わるからおかしなことが起きるのだ。自ら下らない講演をしたり人と握手したり不倫したりパワハラをする暇があるなら、この書を読むべきである。でないなら、或いは読んでも理解できないなら政治などに関わるな。なぜなら政治は「単なる職業ではない」からである。

 この書が「最低限」であると述べるのには理由がある。マックス ヴェーバーが自ら述べているとおり、この書は政治のsollen(あるべき姿、理想)を述べているわけではなくsein(ある姿、現実)を書いているわけで、本来sollenのない政治は「単なる統治」でしかないからである。

 しかし世の中には「単なる統治である政治」はいくらでも存在する。だから現実を分析する際にはseinからアプローチせざるをえないる。それゆえ、ヴェーバーは「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」というトロツキーの言葉を前提とし、「政治をおこなうものは権力を求める」そうした現実の統治の形態として3つのタイプを挙例する。

 「伝統的支配」「カリスマ的支配」「合法性による支配」がその3つである。

 ヴェーバーが生きた1864年から1920年という時代に於いてならともかく、第二次世界大戦が終結して約80年、今なおその形態が続いているという事実には驚くべきかもしれないが(北朝鮮や中東、アフリカにおける「伝統的支配」、ロシアや中国などにみえる民主的主張の仮面を被った「カリスマ的支配」)更に驚愕すべきは民主国家において「合法性による支配」をくつがえそうとする幾つかの試みである(トランプによる議会襲撃などはその典型である)。

 ひるがえれば、政治の現実はおそらくはギリシャローマ時代(既に民主主義とか共和制という合法的支配の形態が存在していた)から(形式的にはともかく本質は)少しも進歩していない。恐らく世界の国家の80%の政治家の思想はプラトンやキケロより遙かに後退しているのだ。科学・技術といったものがこれだけ進歩しても、人間の本質は(否定的な意味で)変化しない。戦争を、貧困を、飢餓を個人的に幾ら否定しても現実の世界ではそれを容認するのが実態なのであり、残念ながらそういう政治・政体を容認している国民が(政治的に未開な国家に居住しているかどうかに関わらず)存在しているのである。そうした現実をマックスヴェーバーは直視しつつ安易に理想を語らない。「現実を直視しない理想論」は単なる痛みを軽減するモルヒネに過ぎないというsternな視点から彼は考えているからであろう。

 そうした現実論から発した著者の視点は「国家という収奪者から政治手段と政治権力を収奪しようという動き」の一例としてドイツ革命(キール軍港の水兵による反乱から発した大衆の蜂起とそれによるヴィルヘルム2世の退位に至る一連の政治的変動)を挙げているが、もちろん同様の動きは前年度に発生したロシア革命にもあり、それが伝統的支配からの脱却(その先がいかなる政体であるかは別にして)という意味でエポックメーキングな事象として見ているのである。ただ、著者がそれを単なる「時代的推移としての伝統的支配からの移行」としているのではなく、被治者に意思を求めるアンシュタルト(簡単に言えば「本人の意思とは無関係に所属する社会に属し、その社会が合理的に(法秩序自体に合理性を求められているわけではない)制定された法秩序によって機能している」そういう状態・・・但し、支配の形態はいずれであろうと、この状況は近代国家にのみ成立する)状況下での支配・被支配関係によって正統性を確保しよう、という一点に収斂しゅうれんしていることに着目すべきである。つまり、同様の収奪はあらゆる政治形態の中で発生しうるのであり、またアンシュタルト的な仮面を被れば実体的・結果的にはどのような政体にも移行しうるのである。

 つまり僕らは支配者の意思と共に被治者の視点が重要であるということに気づかされる。実は支配者が実質的に「伝統的支配」であろうと「カリスマ的支配」であろうと「合法的支配」をしていようと、被治者側がアンシュタルト的な形で支配され、支配者側が「合法的」と主張すればアンシュタルト的支配は成立しているのである。だからこそ、合法的に支配されている筈の国家(いわゆる民主主義国家)における民衆が不満を持っているのに、実はその前段階に過ぎない政体の国民(アジア・旧ソ連の幾つかの国家、アフリカ、中東)が自らの政府を許容するという奇妙な事態が成立しているのだ。

 戦前の日本も同様であり、だからこそ国民は「鬼畜米英」と叫んでいたのが途端に「民主主義」に方針変更されたときに「反省をする」とより「騙された」と感じたのである。

 残念ながら「国民」は常になんらかの「不満」を持つ「集団」であり、何らかの形で「不満」を解消すれば、それが粛正であれ抗争であれ戦争であれ容認するというのが実体なのであり、そうした集団の「愚かさ」を冷徹にコントロールするのが現実の(sein)の政治なのである。もちろん、そこに止まっている限り我々は暗黒へ通じる世界を歩まなければならないリスクを強く抱えている。だからこそsollenの理想論は(譬えそれがパンドラの箱に残った最後のespoirであったとしても)捨てきれないのだけど、この書物はそこを語っているのではない。従って、「職業としての政治」が教えるのは「理想論は別として現実世界における政治に関わる人の身だしなみ」になり、だからこそそれは最低限のルールなのである。

 さて、著者は通常の学問の手法に従って、様々な政治的要素を「分類」する。その「分類」は時代の要請に基づいてなされる分類であり必ずしも現代に通ずるものではないが簡略的に見ていこう。まず政治に携わる者が「政治のために(fur)」生きるか、「政治によって(von)」生きるか、という区分である。マックスヴェーバーはこのカテゴライズにつき、その生き方が背反するものではないと注釈を加えているが現実問題として、政治家がそのどちらのスタンスを腹にもって政治に携わるのかは結構重要なことである。

 vonの政治家は政治をビジネスとして捉えているわけであり、統治される側の視点からは「彼」が「政治というビジネス」に生きるために様々な手段を使って「政治」の世界に居残るであろうと推察する。それは例えば「あらゆる手段」を使って選挙で当選する姿勢であり、当選の後は様々な方法を使って猟官(政治的な任命、即ち大臣、副大臣、政務官など)活動をし、そこで得た権力をもとに「自らの当選を後押しした、或いは今後その可能性のある選挙民に何かしらの還元をすることによって、更に選挙地盤を強化する」といった極めて普遍的な「政治家の日常的な姿」を彷彿とさせる。

 だが、マックスヴェーバー自身はそこまでのカリカチュアを描いているわけではなくて、単に「金儲けをするための手段としての政治」を選ぶ人間の姿として捉えており、furの政治家が政治を「それによって生きようとせず」「彼個人の私的経済的利益のために利用しない」などといっているわけでは、「全然ない」と喝破している。


 次いで彼は官僚と政治家について述べる。官僚の本分は「憤りもなく偏見もなく」「政治的闘争に巻き込まれることなく」もし、自分の意見具申にも関わらず、上級官庁(官庁というより権限の上位)が間違っているという命令に固執する場合、「命令者の責任において」誠実かつ正確に「執行できることが名誉」だとする。

 この定義に於いてマックスヴェーバーが「何に」重点を置いているのかについては多少の議論の余地は残る。「憤りも偏見もなく自分の正しいと思った意見具申を先ずすること」も官僚に要求されている必須の任務であるはずだ。しかし、それが受け入れられなくても「自らの責任ではなく命令者の責任において(つまりその場合意見具申をした事実を残したことによって免責される)」誠実にかつ正確に執行する、のが官僚の仕事であるとされる。そこには「人間的な配慮」はつけいる余地はない。「人間としてどうなのか?」という問題は上級官庁に向かい、最終葉的には「政治的闘争」を行っている政治家に行き着くべきものなのであって、この構造は下手をすると「無責任の連鎖の構造」を生みかねない(丸山真男が戦中の日本について書いたとおり)が、マックスヴェーバーの生きた世界では少なくとも責任の所在がはっきりしている。

 このメカニズムを屡々しばしば発生する「政治家に強要された官僚」の悪事に適用すると、先ずその官僚が「憤りも偏見もなく自分の正しいと思った意見具申を先ず」しているか?という疑問がある。そこを「忖度」とやらでスキップしてはいけない。だがそれにも拘わらず上級官庁から「命令」されたらその官僚は「誠実かつ正確に」執行することを要求される。なぜ、個人の判断を排除しなければならないのかというと、そこに個人の判断基準を持ちだせば官僚制度という機構が機能しなくなるからで、もしも「個人の意見をなお優先する」場合は辞職を余儀なくされる。それをすればおそらく官僚は一生で数十回の辞職をせねばならない可能性が、おそらく日本の現状では「ある」。(現在日本の国家公務員試験を通った人間が「簡単に辞める」理由の一つにそうした事情があるのかもしれない)だが、それをせずに飲み込んで個人の意見を排除して執行することこそが官僚の「名誉」であるということでマックスヴェーバーはこの危機を回避してくれるのだ。

 しかし一方でこの仕組みは「上位官庁やそれに影響を及ぼす政治家」が変わったとき、官僚は同時に態度を翻すか、ないしは退場をすることを要求する。(この定義における官僚はアメリカのような「猟官運動」による官僚ではなく一般的に欧州や日本で「行政を担うために国家によってリクルートされた官僚」である)そのため、官僚は一般人からは節操がないとか、ご都合主義とか言われかねないが、官僚には逆にそれが必要な「機能」なのである。

 従って森友学園で「意見の具申が通らずに自死した」官僚とそれを命じた上司の官僚は、その意味ではどちらも間違えとなる。ノイローゼになり自死を選ばざるを得なかった官僚は明らかに人間的に正しい考え方を持っていたと思うし、気の毒な限りではあるが、官僚としての考えは貫徹すべきだった。

 一方それを命じた上司は「それを命じたことを否認する」という点で卑怯であり、それを命じた政治家はもっと卑怯である。そして既にその命令系統が外れたにも拘わらず当該官僚が答弁拒否をしたり、真相を語らないというのは本来の官僚のあるべき姿ではない。官僚は行動に関して命令系統が責任を負うことで免責されるが、真実を語らないという事に対して免責はされないのであって、それを混同(おそらくは意図的に)するのは許されるものではない。

 斯様かようにマックスヴェーバーは事例を通じて職業としての政治の在り方を説いているのであり、その事例は当時のドイツ及び比較対象としてのアメリカやイギリスのものであって、その部分に関しては現代の読者にとってやや冗長であると感じるかもしれないが、どうした箇所を読み飛ばしたとしてもこの書物には今、なお読むべき十分の価値があるし、政治家や官僚は心して読むべきものである。

 但し、政治というのはseinに止まってはいけないと僕は思っている。官僚(取り分け国家公務員であれ地方公務員であれいわゆる上級職の官僚)はこの本を読んで得るところが多いだろうし、その職務に骨格を与えてくれる書物であろう。だが、日本の政治家にとっては一つのマニュアルではあるかもしれないが、この本以外にも読まねばならぬ本は多くある。なぜならば日本の政治家は「伝統的支配」でも「カリスマ的支配」でもなく民主主義国家における合法的支配を求められているわけであり、その理念となるべき書物を読まねば片手落ちだからで、ルソーの「社会契約論」やモンテスキューの「法の精神」など、取り分け民主主義の初期に現れた書物で「民主主義の本質」を理解する必要がある。そうした理念を涵養してこそ、政治家は政治語るのであり、選挙で当選したから政治家であるわけではない・・・とまでこの著者が言っているわけではないし、現実を直視している著者がそうした果敢ない希望を抱いているわけでもないが、逆にだからこそ「これからやってくるのは花咲き乱れる夏の初めではなく、さし当たっては凍てついた暗く厳しい極北の夜」と見えてくるのではないか。現実的に著者はとりわけ政治的倫理とか理想論とかそうしたものに冷えた眼差しを送っているのだが、本来それを否定しているわけではない。もし、そうした理想論に基づく政治が眼前に現出していたら彼は温かい目でそれを祝福したであろう。

 だが現実は違う。だから彼は信条倫理家に疑念を抱き騎士道精神リッターリッヒカイトの行方を危ぶみ、寧ろ現実的即物主義ザッハリッヒカイトにおける責任倫理を重視するスタンスにあるのであろう。

 だから彼のこの書における最後の叫びのような痛切な言葉「政治とは情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」であり、「現実の世の中が、どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けず、どんなに自体に直面してもそれにもかかわらず、と言い切る自信のある人間だけが政治の天職ベルーフを持つ、ということばは大きな痛みと意味を持つ。もちろん、それは政治家擬きが、勝手な信念を貫くことではなく、世間よりも遙かに卑俗な人間が何かを語ることを許すものでもない。当たり前の話だ。


「職業としての政治」 マックス ヴェーバー著 脇 圭平訳 岩波文庫 白209-7

ISBN978-4-00-390003-1

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