第8話 キケロ 「老いについて」

 この書を短編小説と呼ぶのは相応ふさわしくないという考え方もあろう。事実岩波書店は赤帯(外国文学)ではなく青帯(哲学・教育・宗教)のカテゴリに入れている。恐らくは「哲学」扱いなのだろう。

 しかし記述は「老人が訪ねてきた若者に話をする」という会話の体裁であるから、短編小説として紹介しても構わないと僕は考えている。哲学というのは最低「体系を備えた」物であり、哲学的なものと哲学は少し違うのである。この書は哲学的ではあるが、哲学書ではない。その点ではカミュとかカフカとか大江健三郎の著書と似通っている点がある。

 読みにくい点があるとしたら、作者であるキケロが弁論を大カトー(本編の主人公である老人、ローマの政治家)小スキーピオー(武人、若者)に託したことにある。この二人がローマやギリシャの哲学者や文学者から盛んに引用をするので、その辺の知識に欠ける現代の日本人にとってはわかりにくい。その上その引用には迂遠うえんな表現が詰め込まれ、註を参照しなければ読解が困難である。註を必要とする書物は(少なくとも現代では)余り好まれない。

 また人物名についていえばカトーやスキーピオくらいまでは知っていても書の最初に登場する「ティトウス様」や「アッティクス様」って誰よ、というような所から、読み手の気持ちをえさせるのである。

 まあ、実際は誰でも良い(現実的にはこの二人はキケロの友人で書の献呈先である)ので註と共に読み飛ばしても差し支えない。キケロはこの頃、意図的にギリシャ・ローマの先人の知恵を彼らに語らせようとする書物をたくさん著わしている(これは恐らく自分の死・・・それが自然死かどうかに拘わらず・・・が近づいているという予感があったのであろう)が、本来読者が読み取りたいのは「キケロ自身の考え・言葉」なのである。


 この書物で著者が先ず喝破かっぱするのは人間の望みの非合理性であり、それは大カトーの最初の一言に存在する。その明瞭さにまず瞠目どうもくして欲しい。

「人は皆、老齢に達することを望むくせに、それが手に入るや非を鳴らす。愚か者の常なき心、理不尽さはかくも甚だしい」

 要は「長生きしたいと言っているくせに歳を取ると不満を言う馬鹿者たちは一貫性もないし、非合理だ」

 うん、その通りです。人間というのは幼い頃から背骨を持って物事に対処するものと、クラゲのように生きているものの二通りがいる。背骨を持って生きているものたちは人生において矛盾するような言辞げんじろうする愚かさはない。キケロは明確にそれを指摘しているし、キケロ自身はもちろんクラゲではない。

 この書をしたためたのはキケロー62歳の時、訳者による解説に従うと、家庭的には前妻と離婚し(前々年)、仲の良かった弟と離反し、娘を失うと共に新しく迎えた妻とも別れる(前年)と言う立て続けの不幸に襲われ、公的には味方についたポンペイウスがカエサル(シーザー)に敗れたためにローマの執政を取ることは断念せざるをえなくなるという不運に見舞われている。その不運を糧に膨大な著作を重ねていく中でこの書も書かれた。62歳といえば、その当時では既に深い老年期であり、キケロ自身、大カトーに託して認めたこの書を読んで自らの老いをかえりみたことがあるというのは誠に懐の深い話である。

 キケロは対立する専制者であるカエサルが暗殺された時、その暗殺で自らがローマの政治に復帰する可能性が高まったにも拘わらず(現実は三頭政治によってキケロは政界から排除された)、暗殺自体は「子供じみた」ことだと批判したという。その批判は政敵を暗殺するという手段のいままわしさに対する感情と同時に(暗殺の横行はキケロには恐怖であり、現実に彼は政界から排除された後、最終的に暗殺に近い形で殺される)、カエサルを倒したとしてもマルクス・アントニーウスという野心家が継ぐという非合理性(実際はオクタヴィアヌスが皇帝アウグストゥスとしなってカエサルの遺志を継ぐことになった)を見抜いていたためで、既にローマが共和制を貫徹することが不可能だと考えていたからであろう。

 その明敏な思考と一貫性は政治という現実世界において取り分け抜きん出たもので今の日本の政治家など束になっても叶うまい。・・・というか日本の政治家など束にしかなれないし、束になったらなったでろくな事はない。

 科学や数学、哲学などを含めて時代と共に少しずつ、或いは飛躍的に進歩するものがあるのだが、政治家の志や能力に限っていえば古代のキケロに比肩する政治家が現代にいるとも思えぬ。これは日本に限った話でもなく、残念な話である。

 この書物に満ちている考察は一貫しておりかつ深い物である。青年は将来への希望に満ちているが老いは既にそれが満たされている状況(であらねばいけない)という意味で「老い」の論だけではなく「青春をいかに過ごすべきか」という青年論でもあることを察しの良い読者であればすぐに気づくであろう。

 そして最後に大ガトーに託して作者は「魂たちの寄り集う彼の神聖な集まりへと旅立つ日の、そしてこの喧騒と汚濁おじょくの世から立ち去る日の何と晴れやかなことか」と語る。魂はあの世で集い、先人で賢人たる人々と共になることこそが自らの望みであると。それを述べることでこの現世(つまりはローマが最も栄えた時代、つまりピークとなった時の専制時代)こそ、ローマの凋落への転換点であると喝破しているのだ。そして、

「しかし仮りに、われわれは不死なるものになれそうにないとしても、やはり人間はそれぞれふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから」

 と言う言葉は自らの老い、そして死と共にローマ共和制という制度の死を予言しているのかもしれぬ。

 この書物の読者はダイアログの中に含まれている箴言と共にキケロという明察と深い知恵に溢れた「生き方」を学ぶことが出来るだろう。またキケロがちりばめた様々な先哲の言葉の一々を云々しても致し方ないし、読者は銘々にそれらの言葉の中から自分に感銘を与えるものを選べば良いのだ。だが敢て一つだけ、引用された先人の言葉を選ぶなら、僕はやはりカエキリウス・スターティウス(パッリアータ劇の名手と言われた人物:本書の註による)の語った有名な言葉

「次の世代に役立つようにと木を植える」

を選ぶことにしよう。

 今の政治家たちは次の世代に役立つようにと木を植えることなど一切考えないで、自分が選挙に勝つために平気で「今ある樹木」さえ伐採しようとしている。その木を切ってはいけないという諫止にはフェイクだと平気でほざく愚か者さえいる。政治家は明敏で深い洞察力を備え、なおかつ謙虚でなければならない。そうしたあるべき姿を自らの中に映し出すために政治家にはぜひこの本を読んで頂きたい物である。特にアメリカの前大統領には是非・・・・。(この文を書いている時点でのアメリカの現大統領はJoe Baidenである)



「老年について」キケロー著 中務哲朗訳 岩波文庫 青611-2

ISBN 4-00-336112-1

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