第7話 倉田百三 「親鸞」

 倉田百三くらたひゃくぞうは文学史において特異な位置にいる。代表作は「出家とその弟子」と「親鸞」の二編。51歳の若さで死去したが実はそこそこの量、著作があることは余り知られていない。どこの閥にも属さないが、敢て言えば白樺派に近い位置にいたと言えるだろう。だがその作風は白樺派と同一のものではないし、日本では珍しく(というのは欧米に於いてはキリスト教を題材にしている小説が極めて多い・・・アンドレ ジッドやスタンダール、ロマン ロランだけではなく、また反面というかたちでマルキ ド サドもその一人である)宗教を題材とした小説を多く著わしている。

 その著作における最高峰は最初に出版した「出家とその弟子」であり、今、ちまたで手に取る事の出来る書物は上記二編に加えて「愛と認識との出発」がある程度、残念ながら社会から少しずつ忘れられつつある。そこらに溢れている新刊などよりはよほど読みでもあり、読む価値もある小説なのだけど、価値と人気は比例しないのが現代の社会である。まあ、現代に限らず古今東西その状況は共通であるのかもしれないが、その中で残っていくのが真の作品であるのかもしれず、僕としては倉田百三の小説の「出家とその弟子」「親鸞」にはそうなって欲しいと願っている。さはあれ、現状を見るとその願いはもしかしたら叶わないのかもしれない。そして・・・だからこそ、ここに挙げる気になったのかもしれぬ。


 倉田は実家が浄土真宗の檀家だんかで、その影響で親鸞の著書である歎異抄たんにしょうかれた。しかし学生のころにキリスト教に興味を持ち、当時のフランスの大作家であるロマン・ロランに認められることになる(このことはもしかしたら白樺派の面々の嫉妬を生み出したかもしれない)。しかし、やがてその多妻主義(現実には妻を含めた女性三人との同居)は批判されることになる。浄土真宗とキリスト教という宗教的背景を持ちながら三人の女性と(倉田本人に言わせれば仲良く、つまり性的な目的ではなく、という意味であろう)同居していた。なんだか平和な人間かと思えば戦時には国家主義へと転ずる。三次みよし中学校(現三次高等学校)首席卒業後、一高という知的な進路を進んだにも拘わらずややもすると生活、思想或いは主張にはコンシステンシィを欠いた作家であった。

 もっともこの戦前戦中の時代は、一貫した主義主張を持ち続けるというのは厳しい時世で、哲学に憧れ(西田幾多郎を尊敬していた)をもっていたとしても、哲学者でもなければ思想家でもない、どちらかというと感情に流されるタイプであった倉田百三の考えが「時代」に流されたというのは、致し方ないことであろう。同時代の作家の殆どは同じような道を辿り、思想を譴責けんせきされ、場合によっては物理的な力で転向を求められたのだ。従わなかった作家は小林多喜二や伊藤野枝のように命を失う危険があった時代なのである。(因みに倉田自身は軍部からの検閲などは受けなかったが一高時代に学内検閲で快楽主義を責められ鉄拳制裁を受けそうになったことがあるらしい。またそれが一高を中退する原因となったといわれている)「親鸞」を書き終えた彼は赤松克麿あかまつかつまろの設立した国民協会という国家主義団体に属したが、その主宰である赤松も吉野作造の弟子で、義理の息子でありながら左翼と右翼の間でぶれまくった人間であった。

 そう書くとなんだか頼りない作家のようにも聞えるが、そういう一方的な見方では真実を辿ることは出来ない。時代はどんな人間にも試練を与える。それは天候のようなもので、豊かな稔りをもたらす天候もあれば、不作を続ける天候が何年も続く時期もあり、それによって政治や経済、文化そのものが影響を受け、それに属する人々も時代の影響をこうむらざるを得ないという事実を忘れてはいけない。もちろん、そういう厳しい時代だからこそ、人間の本性が露わになると言うことも忘れてはならないのであるけれど・・・。


 さて・・・この「親鸞」を初めて読んだのは20年ほど前になるだろうか、その頃は娘もまだ高校生であったのだと思う。やはり親としては悩みもあり、年頃の娘が奇妙な形で反抗をしたり、心にわだかまりをもっている気配に心配をしたことも少なからずあったわけで、親という者は多かれ少なかれそうした試練を味わってそれまでと別の形で人間として成長するものだと思う。子供の居ない夫婦は必ずしもそれを望んでchildlessになっているわけではないので、言い方には気をつけねばならないとは思うが、やはり子供が居るといないとではだいぶ親の方の人生にも違う点があるのは間違いない。結婚というのは「全く知らない同士」の出会いであるが子供というのは「知らない同士なのに知らないとはいえない」関係なのであるといえば良いのであろうか?結婚は離婚という形で解消できるが子供は義絶という形を取っても解消は多分出来ないのであろう。だからこそ、なんと言うことなく人生には違った彩りというか多少の深みも出てくるわけである。

 しかし、もちろん先述したようにそれに伴う悩みという物もあるわけで、それを抱えたり引き摺りながら人生という道を歩いているときに「親鸞」という仏に帰依し、大変な数の宗徒を率いた僧がやはり同じような悩みを抱え生きていたことを知り、ふと助けられたような気がしたのも事実である。親鸞の一生に於いては娘も息子も思い通りにならず、奥さんとは単身赴任に近い別居・・・まるで現代のサラリーマンの姿と一緒ではないか。

 もちろん親鸞が親を戦乱で失い発心して、比叡に入り、やがて虚飾、虚偽を排するがために法然の元へ向かう。院の女臈が信徒になり、逃げたことで迫害を受け日本を転々と逃げつつ布教を続けていくその姿に尊さを覚える読み方もあるのだろうけれど、この書が時代を超えて読み継がれるべきなのは人としての親鸞の姿、僧なのに結婚をし、子供をもうけ、その子供に苦労する。そんな姿が一通りの宗教生活を送った別の名僧と異なった共感を生むのであろう。

 この中公文庫版の末尾には武者小路実篤の感想が書かれている。解説とか書評と言うより感想というのが適切な文章で、倉田の死後に書かれた物(というのは「なつかしい友達の一人だった」と過去形で語られているし、「倉田がいきていたら」という表現もある)であるが、温厚な武者小路実篤(かどうかは本人を知らないから分からないけど、あの野菜やらキノコやら達磨を描いた色紙を見る限り温厚篤実な人間に思える)にしては温かくも辛辣しんらつな感想である。

 「慾をいえば、もう少し表面的でなく」「親鸞が妻子をすてる気持ちは十分にかけていると思わない」「息子と親鸞の関係も・・・ひととおりの見方で」「作者は終わりの方の・・・僕には一番つまらなかった」「求道の精神を満足さして読んできたものは、少しがっかりすると思う」

 などと短い文の割にはけっこう作者をくさしている。腐していながら、フォローをしているところのアンヴィバレントが面白く、武者小路実篤に本心を聞いてみたくなるようなところがある。

 ただ一言言わせて頂ければ、「作者は終わりの方の・・・僕には一番つまらなかった」という部分は「照阿弥陀仏とひんがしの女房との事績」という小説の終わりを飾るエピソードを指すのであるが、倉田百三が「この部分を最も描きたかった」事を知りながら武者小路実篤は意地悪を言っているのである。倉田がこれを描きたかったのは自分を照阿弥陀仏と重ね合わせているからで、武者小路実篤はそれに気づいていながら不快を表しているのであろう。

 この本の本質を親鸞の伝記として捉えることなく、あの高僧として名高い親鸞でさえ一人の人間として一人の親として、どこか道をふらふらと踏み外しながら情けなくそれでいて高貴に生きていたとのではないか、とやっぱり「ふらふらと生きていた」倉田百三が描いているのを読むと、不思議なことに、人間というのはそうした側面があるのだよ、それでもいいじゃないか、と思えてくるのだ。


「親鸞」 倉田百三著 中公文庫 B 2 13

ISBN4-12-204728-5

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