第6話 トルーマン カポーティ 村上春樹訳 「ティファニーで朝食を」

 この小説を最初に読んだのは高校生の時であった。翻訳者は龍口直太郎氏で、その翻訳では主人公である「僕」とその相方である「ホリー・ゴライトリー」が住む「イーストサイド七十二丁目」には「褐色砂岩かっしょくさがん」の建物があったのだが、今回紹介する村上春樹氏の訳では「ブラウンストーン」の建物になっている。

 初読の際に「褐色砂岩」とは何だろう?といきなり最初のページでつまづいたことを今でも鮮やかに覚えている。ブラウンストーンだったら読み飛ばしてしまったかもしれないけど、「褐色砂岩」?こういうのは躓いた方が良いのか、そうでないのか微妙な感じがする。躓きというのは往々にして不快な感情と結びつくものだ。ただ、読み飛ばすという思考の怠惰たいだいさめる機能もあるのは間違えない。

 僕個人としては「ティファニーで朝食を」と「褐色砂岩への疑問」はとても強く結びついていて、その意味ではちょっと残念な気がしつつ、改めて新訳を読み進めた。

 ちなみに褐色砂岩、即ちブラウンストーンはコネティカットのポートランド採石場で採れた石で1700年代からニューヨークの建物で使われ始めた。採石されたばかりの時、ピンク色の石はやがて徐々に褐色に変色しながら街に馴染んでいった。残念ながらポートランド採石場はとっくの昔に閉鎖されたし、ニューヨークの新たな建造物はこんな柔らかい形質の石ではとても持たないほどの高い建物になりつつある。それでも今なお市内に多くに存在するこの石材で出来た建物は古き良きニューヨークの象徴である。

 そんな大都市の一昔前の風景を僕らはたった1つの単語で辿たどることが出来る、そんな読書も楽しいものである。


 一説によるとカポーティはホモである(本人もそう宣言している)。しかし、そんな彼にどうしてホリー・ゴライトリーのような魅力的な女性を描けたのだろうか?その謎を明確に解いてくれる説明を僕は未だに持たない。おそらくカポーティ自身も持っていなかったのだろう。或いは「僕はアル中、でヤク中で、ホモだけど天才だからだ」と答えたのかもしれない。

 自我意識が驚くほど肥大し、異常に繊細で、親に見捨てられたことが原因なのか攻撃的で、周りの人間から蛇蝎だかつの如く忌み嫌われ、でも確かに彼は天才であった。

 うん、彼の言うとおりホリー(ホリディ) ゴライトリーのような繊細で魅力的な女性を「天才だから描けた」のであろう。だが、それと同時に彼が抱いていた人間とその愛への渇望、ゴライトリーのように自堕落じだらくで、奇妙で、おそらくは金と色情に弱く、それなのに魅力的な女性、限りなく男を惑わすけれど単なる娼婦とはどこかで一線を画すことの出来る女性・・・それが彼を虐待し、男に狂った上に自殺した母親の影を映し出しているのかは不明だけど、そんな人間であってもその対象へのじりじりするような渇望かつぼうが心の奥底にあったからだと僕は思っている。だが彼の渇望は叶えられることはない。ちびであたまでっかちの、性格の悪い人間なんて愛する人はそうはいないのだ。おそらく彼がホモセクシュアルになったのは彼自身の性向というよりは、彼を「最初に愛してくれた人間が男だったから」なのだろう。

 男であろうと、女であろうと彼は彼を愛してくれる人間を求めた。それも純粋に・・・。だからその裏返しで彼は攻撃的で、嫌みで、アル中で、ヤク中でもあった。恐らく僕が彼のそばに居ても彼のことを一目で嫌いになったに違いない。そして・・・それでもなお彼は音楽におけるモーツアルトと同じくらい「天才」であった。


 Miss, Holiday Golightly, Travelling

 もし、人生で初めて借りた「褐色砂岩のマンション」の一室にそんな札が掛かっていたら、うぶな若者はどれほど好奇心をそそられるであろう。

 「『休日は気軽に行こうぜ』嬢です:旅行中だけど」

 なんて素晴らしい響きとニュアンスなのだろうか。それと同時に漂う危険な香り。その香りを嗅いだ途端に夢中になる男と眉をひそめ遠ざかる男の二種類がくっきりとさせるような女性。

 彼女の名はHolidayでもHollyでももちろんHolyでもなく、ルラメー(Lulamae)であり、舞台俳優でも娼婦でもなく本当は馬専門獣医(horse doctor)「気軽に行こうぜ氏」の少女妻(実際に婚姻しているのかは不明、おそらくは違法)なのだけど・・・。親に捨てられ、兄と共に拾われた男に「妻」にされた彼女は独自の人生観をコアにして夢の中で紡ぐように彼女の特異な、非現実的なパーソナリティを作り上げていったのだ。

 その人生観はしばしば世間とだけでなく、この小説の主人公である僕の価値観と衝突し、主人公の書く小説を彼女は幾度となく否定することで主人公を傷つける。

 最初の場面では、出会ったばかりの彼女は主人公に自作を朗読して欲しいという作家にとってあらがいいがたい誘いをかける。だが・・・主人公が震える声で読んだ短編を聞き終えたのか終えないのか僕ら読者さえ判然としない時に「それでおしまい?」、彼女は『目を覚ました』ように尋ねるのだ。つまりは少なくとも意識は眠っていたのだ。言い訳のように「レズの女性は好きよ」、と言いながら。オールドミスが二人一緒に住んでいるという景色はその時、彼女の中でレスビアンというかたちで結晶化している。作家が読者に結ばせたいと願う像は遙かに遠い地点であるのにも関わらず・・・。

 そればかりではない。

 ようやく連載された小説を俳優エージェントの男に紹介した彼女は、その男の感想を上書きするそぶりの中で、再び「ガキと黒んぼ(と訳にはある。本来黒んぼという表現はNワードであるが、この小説の時代を考えたらその訳しかないのだろう。オー ヘンリーなんかもそうなのだけど、ある時期のアメリカの小説で庶民を描いているときの表現が現代のポリティカルコレクトネスと合致しない場合は往々にしてあり、それは致し方ないことだと僕は思っている)。そよそよと揺れる木の葉。描写ばかり。そんなのつまんない」と言い放つ。(因みに書いた小説を好ましいと思っている女の子に読ませると大抵おんなじような結果を招くことは誰にもある経験かもしれない。残念ながら僕にもそんな経験はある、ああ括弧が多い、すまぬ)

 だが、主人公はそんな彼女が結婚するという誤報(というより誤解)に動揺し「僕は確かに彼女に恋をしていた」事は認めるのだ。もちろん、数々の留保をつけながら、だけれども。その留保は自分の心を守るためのよろいに過ぎない。

 おそらく・・・主人公は彼女とつきあっても幸せに決してなれない。それどころか、えぐるような痛みと悲しさに突き刺され続けることは明白なのである。だが、それでも心が揺れる、そんな若い時代というのは誰にもあるもので、だからこそ僕らは共鳴するのだ。

 だから・・・映画の方のエンディングはちょっと違うのではないか。

 彼女の魅力・・・。猫を拾っても「名前をつける権利はない、私はなんにも所有したくない」という彼女の言葉は彼女の人生にカウベルのようにずっと鳴り続ける言葉の筈だ。彼女は所有されたくない代わりに「所有もしたくない」はずなのだ。だから映画で示唆されるオードリー・ヘップバーンと主人公の関係は決して成立しない筈なのだ。つまりオードリー・ヘップバーンはとても魅力的だが、映画はこの小説の主人公と大きく異なった人物にされてしまっている。もちろんそれは彼女の責任ではないのだけど。

 そして、もう一つ彼女の謎の言葉・・・「いやったらしいアカに染まりたくない」(村上春樹訳)という表現は時代背景を考えると微妙である。1950年から始まったマッカーシズムは急速にアメリカ国内に蔓延はびこり、様々な効果と問題を引き起こし、この小説が書かれた時代にはその毀誉褒貶きよほうへんが盛んに論じられていた頃である。

 You know those days when you've got the mean reds ...

 Same as the blues?

 彼女の言葉に主人公がそう返すこの遣り取りにその時代背景が全く関わっていないとは思えない。

 そもそもカポーティは共産主義からもっとも遠くにいる小説家である。(共産主義の中で彼のような人物が生きていけるとはとても思えない)そして主人公がmean reds(貧乏たらしい、みすぼらしい、不快な 赤)というのがblues(憂鬱)との対比でangst(不安・煩悶はんもん)のこと?と尋ねたときに「そんなときにはティファニーに行くのが最もいいの」と彼女が答えるとき、やはりその「ティファニー」という資本主義のシンボルの対極に、共産主義があるという匂いが微かにしてくるのは致し方あるまい。誰もがこのbluesとredsという「感情」を表す言葉であると捉えようとしている(或いは意識的にそれ以外の意味合いを排除しようとしている)が、逆に1958年という時代でmean redsという言葉にその意味を重ねない、ということがおかしいだろう。もっともカポーティがその意味を強く指定しているとも思えない。全体主義に本能的に反応した「いやな感じ」、というどこか漠とした感情だけがそこにある。ただそれだけのことであると思う。

mean reds.・・・そんな本能に任せた言葉を発する彼女は彼女自身が言う「野生のもの」であり、「野生の生き物にいったん心を注いだらあなたは空を見上げて人生を送ることになる」その彼女の人生の行き先が恋人の故郷であるブラジルでなく、アフリカであって何の不思議もない、と主人公やバーのオヤジであるジョー ベルや読者である僕らが思うのはどこか必然的なものがあるのだ。そんな自由奔放じゆうほんぽうな女を僕らは捕まえることなど出来ない。僕らはその魅力を遠くから見ることしか出来ないのだ。

 カポーティがホリー役に望んだ女優はマリリン モンローであったという。オードリー・ヘップバーンで撮り終えたものを見てもなお、彼は不満であったらしい。ヘップバーンは日本では大変人気がある女優だが、彼女の少女っぽさが仇になる文化もあるのであろう。かといって主人公がマリリンモンローであったとしてもどこか違和感が残ったような気がする。

 とはいえ、不幸にして僕はこの主人公に似合う女優を知らない。だがもし挙げるとしたら、ひとりだけ・・・一昨年69歳の若さ(?)で亡くなってしまった島田陽子さんが渡瀬恒彦さんと共演した十津川警部もので(「上野駅殺人事件」)、彼女の演じた娼婦がどこかホリーと似たものを感じさせた。

 「どうでもいいの」人に裏切られるたびにそう呟く彼女の姿は、もっと強く人生を生きているホリーと正反対、表裏をなすようでありながら、同じほど魅力的であり、同時に二人が発する同じような「匂い」を感じたのである。

 なんて書くと、二時間ドラマのファンみたいで恥ずかしいけど、あの島田陽子さんには惚れてしまったなぁ。すいません、通俗的で。でも僕が感じるホリーの最も魅力的な姿・・・。それは「P.J.クラーク」の前にタクシー運転手たちが群がって見物しているその目前で、オーストリア陸軍の将校と踊っている姿であって、その彼女が島田陽子さんに変わっても何の違和感もない、僕の感想にはそう言う理由があって、それはきっと誰か共感してくれる人が居ると確信しているのだ。


 さて、最後にティファニーが象徴する物とは何なのか?についてだ。先ほども書いたとおりティファニーはmean redsな気分になったとき、タクシーで乗り付け気分を変える場所、である。

 そのティファニーという名前はこの小説の素敵なラッピングであって、まるでクリスマスプレゼントの包み紙のようにきらきらと小説を飾ってくれる。それでいながら、そのプレゼントの中味は決して安っぽくなく、ラッピングに相応しい素敵な物語なのだ。作者がティファニーで買った聖クリストフォロスのメダル(素晴らしい旅を祈るためのメダル)ほどには素晴らしく、骨董店の鳥籠とりかごよりも自由を表象するような・・・。


「ねえ、違うかい?僕はそう思うんだ」

 そう僕は彼女に語りかけた。ベッドに腰掛けたホリーは小さく欠伸あくびをすると、その欠伸のせいでうっすらと涙が浮かんだ瞳で僕を見て

ながら

「それでおしまい?」

 と尋ねてきた。まるで僕の話を聞いていなかったに違いあるまい。アフリカに行った時の颯爽さっそうとした彼女の後ろ姿を思い浮かべながら、僕は困惑する。仕方なく一読者である僕はホリーの向こう側でうるさくタイプライターのキーを打つ作家をる。

「どうなんでしょう?」

 そう尋ねた僕に彼は振り返りもせずに不機嫌そうに答える。

「それでおしまい」


「ティファニーで朝食を」

トルーマン・カポーティ著 村上春樹訳

新潮社 ISBN 978-4-10-50147-0 C0097

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