第5話 アルベール カミュ 窪田啓作訳 「異邦人」


「きょう、ママンが死んだ・・・」

この出だしに釣られて、この書物を手に取って見た読者も大勢いるのではないだろうか?これは訳者である窪田啓作氏の大きな功績である。もちろん、「母」或いは「母さん」「ママ」などいろいろな訳が考えられたのだろうけど、「ママン」と訳したことによってこの小説のフランスの香り(実際はフランス占領下のアルジェの香りなのだけど)が一挙に漂ったのだ。その一事いちじだけでこの翻訳は名訳と言うことが出来る。


 「ママン」という女性の死とその葬儀に伴う彼の行動が、主人公ムルソーの運命を決める・・・というストーリーは読み始めたばかりのこの時点で、読者には全く知らされていない。

 しかし・・・ママンの死、というどこか美しくはかない響きはやがて彼を徹底的に打ちのめす。ママン、即ちムルソーの母親は三年前に経済的な理由でムルソーと別れて養老院へ入った。今ではごく普通のことかも知れないが、その時代、養老院とは「家族や係累のない老人」が入所するところであったのだ。つまり彼の行為は母の社会への遺棄いきと捉えかねない要素を最初からはらんでいるということを読者は所与の前提として理解しなければならない。

 とはいえ、彼は決して母の死をなおざりにしたわけではない。葬式に行くと休暇を願い出たときに不満げな態度を取った雇い主こそ非道ひどうではないか?知らせのあった日、ムルソーはバスに揺られて80キロ先にある養老院を訪れたではないか。現代、彼よりもよほど冷たい仕打ちを親に対して行う子供はいくらでもいる。

 でもそんな風に思ってはこの小説の本質は理解できない。ジェネレーションの境目とその意味が時代によって少しずつ動いていくからこそ、僕らはそのわなに容易にかかってしまうのだ。そしてこの主人公ももちろんそんな罠に捕らわれてしまっている。


 「異邦人」という小説において、「同胞(非異邦)」と「異邦」の境目は作者によって巧妙に点々と配置されている。例えば養老院の院長、院に住む老人たち、母の友人(或いは恋人である)トマス ペレ、そして判事・検察官・新聞記者・法廷に集まった「何という大勢の人」・・・そして極めつけとしての「御用司祭」は主人公を「異邦のもの」とする側に配置される。

 一方で、例えば養老院の門衛はそうではない。母の葬式の後に知り合ったマリイという恋人も、そのために殺人を行ったレイモンという知人も、レイモンの友人でカップルを快く受け入れてくれたマソンという男も「違う側」にいる。彼らはムルソーを心配し、裁判にも列席し、彼のために証言することをいとわない。だが彼らは残念ながら「社会」を動かすためには何の役にも立たない。「法廷」に代表される「社会」、それは人を裁きその生命をも左右する構造であるのだが、は彼らの影響の埒外らちがいにあるのである。

 この小説を理解するためには読者はピンセットで、” その社会”の中で「異邦人」に属する人々とそうでない人を選り分けていかねばならない。

 一方でそうした小説の構成上において、この主人公であるムルソーが「決して孤独でない」という構成に僕らはもうすこし刮目かつもくすべきである。この小説は個人と社会を対立させているのではない。不条理は「社会と個人の境目」だけで発生する構造にはなっていないのだ。それでいながらムルソーは「社会」から弾かれた「異邦人」として裁かれる。その社会の構造に関する視点はカミュを理解するために必須であろう。カミュにおいては「異邦」も「不条理」も社会の中に夾雑物(社会の側からの視点としてではあるが)として織り込まれている。

 

 もちろん、ムルソーは殺人を犯し、その嫌疑によって社会によって裁かれているのである。彼の住んでいるアパルトマンの同じ階に転居してきたレイモンと仲違いし、でも「その体に未練を感じているモール人(ムーア人)」の女性がいさかいの種であり、その女性の兄が彼とレイモンを追って旅先に現れる。きらきらと輝く太陽が彼らを照らし、その太陽の下では「殺るか、殺られるか」の舞台が次第に形作られていく。本来なら殺人者はレイモンであるべきだ。彼こそがいさかいの張本人である。拳銃を持ってきたのも彼であったのに。主人公はレイモンに向かって「『このまま打ち倒すのはきたないな』とだけ言ってやった」のに、「いいや、素手でむかいたまえ。そのピストルはこっちに渡しといたらいい」と気負っている友人からピストルを取り上げた筈であったのに・・・。

 その状況自体が既に「不条理」である。だがその不条理は時間と景色の中で彼の体に流れ込んでいく必然的な存在なのだ。それは蹉跌さてつといって良いほどのものに違いない。その蹉跌が彼を死刑台へと導くのだ、という事実。ムルソーはL'etrangerであるが、Les etrangersの一つの要素なのである。そのles etrangersの世界の中では不条理は「条理」なのである。

 同じ不条理の世界を描いても、カフカは違った世界を描く。主人公が不思議な宿に閉塞された「城」、家族とさえ対立する「変身」、観衆のみならず時代を含め全てと離反する「断食芸人」・・・カフカの描く人物は常に「孤独」を背負わされている。その差は「対立するものの違い」を顕著に表している。

 同じ不条理という言葉であってもカミュとカフカでは異なっている。いや・・・、不条理が溢れ出た20世紀の社会ではその定義は明確でなくても「不条理」にさらされ、生き方を脅かされた人々はごまんと存在する。いつのまにか不条理という言葉は一人歩きし、独立し、そして時代を象徴する言葉へとなっていった。


 もう一つ指摘する必要がある。カミュの不条理には「遍在する」不条理であるという特質がある。カフカの不条理が「特殊な不条理の状況」を描いているとしたならカミュのそれは「誰もが遭遇し得る」不条理であり僕もあなたも次の瞬間に出くわすかもしれない類いの不条理である。

 恐らく世の中には「数限りない」不条理があり、世代や性別や貧富などによって不条理に出くわす確率は変わるものの王でも貧民でも不条理を避けては通れないという。それは「生活」であり、だから「哲学」ではなくnovelとして描かれていく。カミュの目では、不条理は「時代が起こした新たな状況」ではなく、「過去から存在していた状況を現代人が認識した」ものに過ぎない。だが「不条理の存在」を認識したことによって恐らく人々は幸せにならない。

 不条理の解決は「不条理」という概念を無視する事である。そもそも条理と言うこと自体が本質的に「後付け」の合理であるから「不条理」であることは現実なのである。あるいは現実は不条理であり、人はそれをなんらかの理屈を付けて否定する、だけのことである、と考えれば良い。

 哲学的に見ても「不条理」は常に存在し、そのよろけた航跡を哲学という直線が否定しつつ正していくのだが、大凡おおよそに於いてそれは「後」験的に得られるものである。それを先に直線を引いてから経験を照らせば、「不条理」になるのは当然で、全てが「不条理」になりうるのである。その状況を哲学者の視点で見るか、生活者の目で見るか、全く見ようともしないか、そうした視座の違いがこの問題を複雑にしているわけで、「不条理」などというものは20世紀になって突然出現したものではない。不条理は20世紀になって「意識」されたのである。不条理がある意味、社会の必然的な構成要素であるにも関わらず、それを「意識」しだす事の不幸。

 だが、「個人」にとって不幸を齎すかもしれない「不条理」はそれを認識し、社会に提示することによって「そうした状況」が存在することを明確にする事で自浄作用を社会に導入する事が出来る。たいていの人にとって「条理」こそがって立つべき規範であり、不条理が蔓延する社会は否定すべき社会である。それを否定する事が増え、不条理から抜け出す、不条理を叩き潰す、そうした事を可能にする「道具」として不条理という「概念」が成立したということで僕らは救われているのである。


「異邦人」 アルベール カミュ作 窪田啓作訳 新潮文庫 [赤 114 A]

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