第4話 谷崎潤一郎 「少将滋幹の母」

谷崎潤一郎は、ノーベル文学賞受賞の可能性があった日本人最右翼の作家である。1965年に死去し、チャンスを現実化することが出来なかったのは大変に残念なことだった。(ノーベル賞は原則、死者には与えられない)

 1958年に受賞者候補になっていたことは後ほどノーベル財団による情報公開で明確にされたので、もし1968年まで生き残っていたら川端康成ではなく谷崎潤一郎が日本初のノーベル文学賞を得ていたかも知れない、と僕も世間と同じように思っている。源氏物語に始まった日本文学の伝統が行き着いた先は(今のところ)谷崎潤一郎と僕は思っているので、その意味ではわれわれは日本文学をより由緒正しく世界に伝えるチャンスを失ったともいえる。

 と言っても川端も日本の文学をあの小さな体躯たいくに背負って立った立派な作家であった。その最期はずいぶんと残念であったけれど、ノーベル賞の重圧やら弟子の三島の想定外の死やら、川端の繊細な精神には大きな負担になっていたのだろう。あの明晰めいせきさにも関わらず晩年は夢現ゆめうつつの中で「幻の日蓮聖人」を随分と見たような話がある。図太い神経の持ち主であった谷崎潤一郎ならば、仮令たとえノーベル賞を受賞したとしてもそんな幻と死を迎えずに済んだに違いあるまい。なんせ、妻を友人の佐藤春夫に売ったような男である。日蓮聖人だってよりつきはしまい。

 もっとも親鸞聖人なら・・・分らないけど。


 そうした神経やら精神に相違があるせいか、同じ「日本的なもの」を描いても川端康成と谷崎潤一郎ではずいぶんと小説の様相は異なっている。その理由が那辺なへんにあるのかは専門家に任せたい。僕は読んだことはないが、もう一人有力なノーベル文学賞の候補であった三島由紀夫がこの二人について文章を書いているので参考になるかも知れない。

 私見では、単純に「依って書く題材」がやはりこの二人は随分と違うし、小説に登場する人々の運命もだいぶに違う。感覚的に言えば川端康成は風景が日本であり、谷崎潤一郎は情緒が日本である。とはいえ、川端康成の小説の登場人物が日本的な情緒を書いているというのではなく、小説の題材としてフォーカスされたものが何か、という事である。谷崎潤一郎は日本人に(しか、とまでは言わないが)特有の男女の機微を見事なまでに描いた小説家であった


 「少将滋幹の母」はその意味でまさに谷崎らしい小説である。そして主人公の女はいかにも谷崎の好みの女性である。小説のタイトルになっているにも関わらず、在原の女(在原業平の孫にあたる)、少将滋幹の母の本性はその容貌と共に最後まで(つまり、最後歳を重ねて尼の姿として眼前に現れるまで)読者にとって曖昧な姿でしか現れてこない。にも関わらず、この小説に出てくる男たちは彼女に軽々と翻弄ほんろうされている。


 この小説の最初の登場人物である平中、即ち平貞文たいらのさだふんは小説の中で狂言回しの役を演じさせられているが、平安時代のプレイボーイとして有名な人物である。平安時代においてプレイボーイは「正義」であったわけであるから、時代の寵児ちょうじである、と言えよう。何せ源氏物語にも登場する人物である。

 もっとも源氏物語においても、またこの小説の中でもどこか間抜けで、お人好しの人物に描かれているが、桓武天皇に繋がるこの人物は藤原北家に牛耳られていたとは言え宮中でしかたかに泳いでいくことの出来た男である。仕事を怠け宇多天皇の勘気かんきこうむり、左遷された愚痴を和歌に零してもなんだかんだと平然と生き残って、最後には一応殿上人にまでなった。この時代天皇は世継ぎを絶やさないためにたくさん子供を遺す必要はあったが、たくさん生き残れば残ったでその食い扶持を与えねばならない。「王」と呼ばれるみかどの子孫たちは既にその頃国家財政にとって頭痛の種であり、失礼な言い方だが厄介叔父みたいな存在でもあった。その中で一応殿上人まで上り詰めたのは単にプレイボーイであっただけではなく、和歌の才能があったからである。プレイボーイで和歌の才能があるというのはこの時代に於いては非常に恵まれた才能の持ち主と言うことである。

 その平中が「現在」執心なのは、本院の侍従、即ち藤原時平に仕える女房であり、在原の女ではないが過去にはほのかな関係があった。この時代、人妻であろうと、口説くことも口説かれることも罪ではない。作者である谷崎潤一郎にとってもよほど羨ましい時代であっただろう。平中は、まるで時平の太鼓持ちのようにしてその邸に出入りし、本院の侍従を狙うのだが、さっぱり相手にして貰えぬ。なんとか女の機嫌を取ろうと四苦八苦しているうちに女の主人である時平から、在原の女について関わりがあったかを問われ、口を濁しているうちに時平の策略になんとなく巻き込まれていく。

 ちなみに在原の女は時平の伯父にあたるそちの大納言、藤原国経の妻である。帥の大納言は八十ちかく、その妻は二十代という「年の差婚」というのもはばかられるほどの年の差がある。そうした情景は今の世であっても、男にとって若い女をかどわかかす格好の口実になる。

 結局平中はこの権力者である甥が伯父の妻を奪うのに手を貸す。関係が薄くなったとは言え、手を貸している内になんだか女が惜しいような気分にもなるし、自分がその女との関係を絶ったのは帥の大納言の年に遠慮してのことであったのに、と時平に対してもなんだか割り切れぬ感情を抱く。

 こういう感情描写は谷崎潤一郎だからこそできるのであって、川端とか三島はもっとさっぱりしてしまうか、逆に理屈っぽくなって面白みに欠ける。平中は谷崎潤一郎の化身である。女心を描きつつその鏡に映る男心を谷崎潤一郎はくまなく筆で映し出す。


 やがて時は経ち、この小説を彩っていた男たちは一人一人、谷崎の筆で丁寧に殺されていく。

 最初の男、平中は諦めきれずに在原の女にも手を出そうとし、本院の侍従にも忍んでいくが前者は時平にはばまれ、後者は(これも時平の術に依るのかも知れぬが)女に翻弄される。そして本院の侍従を憎もうとあの有名な事件、即ち女のお虎子まるを奪いその中を見て女を嫌おうとし、却って女の策略に引っかかり恋死にをするのだ。

 ここで描かれるスカトロジーめいた話は谷崎潤一郎その人の趣味かどうかは分らぬが、谷崎がそうした悪趣味を忌避きひしていないのは明らかで、その点では川端や三島とは隔絶かくぜつしている。嫌おうとした女のお虎子の中に収まったものを味見し、なおその香しさに酔い痴れる・・・そんな「痴れ」者へと平中は墜ちていく。そしてそ「れ」の中で病におかされ死ぬ。その死は左大臣の悪戯心いたずらこころに依るものかもしれぬ、と谷崎は結論めいたことを書いているが、仮令そうだとしても平中が死んだ訳は女への執着しゅうじゃくである。

(ちなみにべつのところで三島を論じるが、例えば「午後の曳航」で三島が詳細に描く少年たちによる子猫の殺害のシーンは逆に谷崎や川端には描けぬ物であろう。そうした平凡な読者たちの想像を超えた情景を描くのも大作家の一つの特徴かもしれぬ。谷崎は更にこの小説に於いて国経の不浄観の中で死体の腐乱の相を描いていて、とにかくエログロが凄いのである)

 さて、国経は妻を奪われ、なお三年生きた。だがその生は単なる死よりも更に死に近い。妻に捨てられた(と子供、滋幹は父を突き放して見ている)男は白楽天の詩を経のように読み、不浄観と称して都の近くで客死した生々しい死体を観ずる。死体を観ずる事によりこの世の無常に慣れ、人間の本質を死相の中に見る。その所業を子は恐れと共に哀れさをもって見ているが、妻を土産として差し出した男の心は既にあの世へと旅立っていたのであろう。

 国経の死の翌年、道真の霊に祟られた時平は往き、その一族郎党も絶える。その中には在原の女と時平の間に生まれた敦忠も含まれる。けだし、菅丞相、即ち菅原道真の恨みは凄まじいのである。国経と違って生きることを強く望んだ、権勢に富んだ男は霊にしいされる。

 

 略奪婚による最大の被害者は国経と女の間に生まれた子である少将滋幹であろう。彼は、男の中で只一人生き残る。菅公に恨まれることもなく、不浄観の死の相に取り込まれることもなく、そして女に誑かされることもない。ただ母を恋い慕う。その生は誰よりも平凡で、異母弟の敦忠が死ぬと尼になり最後まで自分を顧みることのなかった母をなお慕い続けるのである。その凡庸さが死んでいった男たちと激しく対比する。

 彼が尼になった母を西坂本の庵に訪ね、母の膝にもたれ掛かり涙を流した場面で唐突に谷崎は筆を措く。滋幹に母がどんな態度で接し、どんな言葉を掛けたのか、全ては読者の想像に投げ出される。

 ある人は母が滋幹を優しく抱きしめたと考えるかもしれぬ。僕なんぞは、母はか弱い手で滋幹を押しのけようとすると思っている。だが、それは史実にはない、書き手と読み手に任される類いのものなのだ。そしてそれはこの小説の主人公である「母」に委ねられる。

 だからこそ、この小説のタイトルは彼女自身、それも滋幹の母と言う形で最後に突如小説の表層に登場する。だからこそこの小説は「平中の密かな恋と死」でも、「時平の生涯」でも、「国経の後悔」でも「滋幹の思慕」でもない。

 白い帽子の奥にある小さな母の顔こそが読者に与えられる最後の強烈なイメージなのだ。その鮮やかな手法に脱帽しつつ僕らは平安時代から背負い投げを食って現代へと投げとばされ、そのあまりの手際に負けの悔しさと言うよりただ感嘆するのである。



「少将滋幹の母」谷崎潤一郎作 新潮文庫  [た 1 8]

ISBN 978-4-10-100509-6  

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