第3話 アーウィン ショー「夏服を着た女たち」「80ヤード独走」 

 今、アーウィン ショーを読む若者って、いるのだろうか?

漫画の焼き直しのような小説が溢れる世の中、アメリカンカジュアルの雑誌から抜け出たような瀟洒しょうしゃな小説に目を遣る若者がそんなにたくさんいるとは思えない。そう・・・彼の小説は「とりまく雰囲気やファッション」と言う意味で僕らが若かった時代の方が似合っていたような気がする。


 「夏服を着た女たち」は戦前から戦後まもなくまでの短編を集めた物で、発売されたのは1979年の事だった。それにもかかわらず出た当初人気を集めたのは、この小説集に僕らがアメリカに感じていた「思い」と共鳴する物があったからだろう。あの時代、ニューヨーカーやブルックス ブラザーズ、Jプレスなどというファッションブランドと共に僕らの視線の中に「若々しいアメリカ」が確かに存在した。

 1960年代以降、アメリカにはベトナム戦争に対する厭戦えんせん気分、それと共に育まれたヒッピー文化、グリニッジヴィレッジ、ロックを初めとする様々な文化の枝分かれはあったけれど、その大本には「アイビーリーグ」を始めとした「確かな幹」があるのだと信じていた。

 アーウィン ショーの小説はそんな文化の中で少し道を踏み外した人々の生き様を描いている。だからこそ、少しほろ苦く、でも現実的な「アメリカ」がそこに描かれ、僕らはそれを等身大の物として見ることができたように思える。


 「夏服を着た女たち」。

 タイトルを見ただけで興味がそそられる小説だ。英文のタイトルはThe girls in their summer dresses。つまり「女たち」はladiesではなく「女の子たち」で、かつin summer dresses ではなくin "their" summer dresses のtheirを挿入することで「彼女たちめいめいの、それぞれの」という意味が込めている。

 女性が夏服を着るようになった季節、ある日曜日の朝、マイクルとフランセスは手を取り合ってニューヨークの五番街を散策している。結婚して五年、傍目から幸せそうに見えるこのカップルに存在する「明らかな」亀裂は、夫のマイクルが「十人並みの女性」だと七秒、美人なら「首が折れるほど」見つめるという単純で、しかしながら妻にとってシリアスな事実に起因している。フランセスは彼に「自分だけ」を見ていて欲しいと願うが、そのことについて会話をすればするほど二人は噛み合わなくなっていくのだ。

 では・・・夏服を着るgirlsの中にフランセスは入っているのだろうか?それを知ることが出来るのは小説の掉尾ちょうびの一文である。

 「マイクルは彼女が歩いて行くのをじっと見ながら、なんて可愛らしい女だろう、なんて素敵な脚なんだろう、と思った」

 彼女とはフランセスである。しかし「彼女」という単語がgirlなのかlady(woman)なのかはこの本では分らない。それが翻訳というものの欠点である。実際のところは この小説の最後の一文の原文は

 As she walks away, Michael thinks to himself that she is a “pretty girl” whose legs look “nice.”

 ということなのでフランセスは彼にとって魅力のあるgirls in their summer dressesの一人であり、つまり彼にとって魅力的で・・・おそらくは最も魅力的なgirlなのだ。

 でも、それはフランセスにとって好いことなのだろうか?

 いや、そこにこそ、このカップルの悲劇があるのだ。フランセスは自分が彼女のgirlであることが幸せなのではなく、「自分だけ」が彼のgirlであることを望んでいるが、マイクルは絶対にそれを理解しない。彼が浮気をしている訳ではないことを知っているが、それは彼女のポイントではない。だが彼がそのことを絶対に理解しない、そして別の女に目を遣ることを止めないことを彼女も知っている。彼らはニューヨークの朝、散歩の後に口論をしつつ朝だというのにバーへと向かう。そして二人はクールヴォアジェ(もちろんブランディーだ)を注文する。

 その風景はやがて妻がアルコール中毒になることでカップルが破綻することを予感させる。

 肌の中に潜んでいる悪性黒色腫がやがて幸福を破壊していくような予感。ニューヨークの朝という明るい景色の中、夫が妻に課す「意図のない悪意」はその風景の中に無色の毒のように溶け込んでいる。 


 「八十ヤード独走」・・・Eighty Yard Run。

 八十ヤード、72メートルである。ゴルフならサンドウェッジで軽く届く距離・・・。その距離を独走することの意味を知っているのはアメリカンフットボールかラグビーを競技として真剣に行った人だけだろう。アメリカンフットボールならばゴールライン同士の距離100ヤードの80ヤード独走すればタッチダウンをほぼ確実に奪えるのだ。しかし滅多にそれができないからこそ競技が成立する。それは小さな奇跡である。

 二十歳の大学生、アメリカンフットボールの補欠選手であったダーリングは恋人ルイズの面前でその奇跡を起こして見せた。

 そして、それが彼の人生における頂点だった・・・。そんなことはよくある話だ。恋人のルイザはやがて妻になり、彼はその父の会社に勤め贅沢な暮らしに明け暮れる。時折、浮気もするが軌道を脱することはない。しかし汽車が軌道を走っていたとしても、軌道自体が崩壊する事だってある。1929年10月24日、木曜日・・・前月から予兆を示していた株式市場が崩壊した。

 世界恐慌は義父のインク会社と義父の頭を文字通り吹き飛ばし、彼の手元には数ガロンのインクを除いて何も残っていなかった。

 そこからネジは逆回転していく。そんなこともよくある話なのかもしれない。いつしか妻は有能な編集者になり、彼はどこに勤めても長続きしない。それでも彼を愛し続けるルイズの誠実さの前で彼は苦しみ始め、そしてそれが続くほどに彼は彼女への愛と自分の無力さの中で雁字搦がんじがらめになっていく。妻の周りには自分より彼女に相応しい男たちが集まってくる。でも彼女を失う気になれない。そして最後に彼に手を伸ばしてくれた会社に勤めれば、彼女と離婚しないまでも別々の場所で暮らさざるを得ない。

 彼女がそんな暮らしを拒絶してくれることを願いつつ、彼はそのことを彼女に話す。結果は・・・。

 最後の景色は彼が80ヤードを独走した思い出の場所だ。そこで彼は再び走り出す。80ヤード・・・走りきっても彼は少し息が切れただけで、彼を不思議そうに見守っているカップルに昔の事を話すだけの力が残っている。そこに再生の物語を見るのか、或いは諦めを見るのか、人によってそれぞれだろう。この二人がこれから元通りになるのか、別れるのか、それも人によって意見が分かれるであろう。

 だからこそ、小説なのである、と僕は思う。そこには「巨人」やら「呪い」やら「勇者」やら「錬金術師」は出てこないが、それを遙かに超える味わいという物があるのだ。



「夏服を着た女たち」アーウィン・ショー 常盤新平訳 講談社文庫

ISBN4-06-183248-4 C0197


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