第2話 トーマス マン 浅井真男訳 「ベニスに死す」

 角川文庫の奥付に記された出版年月日を見ると昭和五十二年とある。となると、成人式を迎えた頃にこの本を買ったことになるが、その記憶が全くない。

 ドイツ文学を買う場合、普段なら新潮文庫で買っていた(高橋義孝さんの訳がしっくりくる事が多かったので)のになぜ角川文庫にしたのだろう?果たして本当に自分で手に入れたものなのか、という疑問に付きまとわれているのだが、欧州との間を二度も往復した挙げ句にちょこんと本棚に収まっている以上、僕と一緒に長旅をしたバディに違いあるまい。その文庫本のおもて表紙には美少年アドジオを演じたビヨルン アンドレセンが「読者である僕」の右手側をじっと眺めており、僕は思わずそちらにくびを巡らしてしまう。まさかこの写真に魅せられてこの本を手にしたと言うことはあるまいな?いや、若い頃から僕にはその性向はなかったはずである。

 読者の右手背後を見つめている、「世界を魅了した美少年」は僕らと共に、だが遙かに過酷な歳を取り2年前に「ミッドサマー」という映画で不気味な老人役を演じた。世の中には小説や映画と同じくらいbizarre(奇妙)でcruel(残酷)な現実が存在するのだ。


 つい最近、読み返すまでこの小説の最初の舞台がミュンヘンである事を忘却していた。というか、そもそもベニス以外の舞台設定を無視して小説を読み終えたのであろう。この訳本が発売された八年後に僕はミュンヘンに移住し、この小説の主人公フォン アッシェンバッハの住むPrinzregentenstarasseや、Englishen Garten近くのAumeisterというビアガーデン傍からSchwabingへと向かうS-Bahn停車場という物語の舞台の近くを毎日のように行き来することになった。その停車場の傍、墓石屋越しに建つビザンチン様式の建物の階段にアッシェンバッハは彼を結果的に「ベニスの街」と「突然死」にいざなう事になる、「挑戦的な目を向けてくる奇妙な」男を見たのだ。そう思うと不思議な感慨にとらわれる。


 老年を迎え、それなりの栄誉を得、vonという貴族称号を得た主人公が向かった先であるベニスは、華やかな旅先という仮面の裏にコレラが蔓延まんえんしつつある、という秘密が隠されている。

 小説の主人公は、ミュンヘンから直接ベニスを訪れたわけではない。トリエステ(ト)経由でプーラ(ポーラ)へ赴き、その島(そこは「あの」ジェィムス ジョイスが同じ頃英語の教師をしていた場所である)に違和感を抱いてベニスへと行き先を変えるのだ。その舟の中で出会ったみすぼらしい老人は、不似合いにも船に同乗している若者と共に見苦しいまでに泥酔し、別れ際にアッシェンバッハにからんでくる。「どうそ、よろしく、かわいい人に、いちばんかわいい人に、いちばんきれいな、かわいい人に・・・」

 ろれつの回らないまま、外れた義歯ぎし下顎したあごに落とし呟いた老人の言葉はアッシェンバッハにとって「呪い」であった。そしてその呪いは、「かわいい人」を主人公が滞在する海水浴ホテルに共に泊まっているポーランド人家族の一人、タドズオという奇妙な響きの名を持つ美少年へと、「呪いを吐いた」見苦しい姿の老人は、主人公を文壇に押し上げた小説のタイトルである「みじめな男」という名と共に、主人公のその後の姿へと重ねていく。


 ポーランド人の美しい三人姉妹に母親が課した厳格さが少年に及んでいなかったのはもちろん、まさか、男の子に・・という気持ちが働きかけていたに違いない。同性愛・・・。アンドレ ジッド、オスカー ワイルド、トルーマン カポーティ、マルセル プルースト僕らが目にする文学の多くには同性愛者が出てきたり、或いは作家自体が同性愛者だと言うことが判明したりする。

 だが、どうにも落ち着かないこの感じをどうしたらいいものか? 音楽の世界に逃げ込んでも・・・例えばウラディミル ホロビッツは同性愛者だったという。ピアニストのタイプを聞かれたとき、彼は「ピアニストには三つのタイプがいる。ユダヤ人、ホモ、そして下手くそ」と答えたという。その答えの趣旨が、下手くそでないピアニストとは「ユダヤ人でかつホモである自分」という趣旨なのかは分らないが、プルーストを揶揄やゆする人々が彼を「ユダヤ人・ホモ・スノッブ」の三点セットだとを陰で悪口を言っていたのを意識しての答えだったのは明らかであろう。ユダヤ人でホモだという事実はプルーストの「失われたときを求めて」の底辺を流れる通奏低音であり、それをホロビッツも知っていたに違いない。芸術の世界はむしろ「同性愛者を許容するか」どうかを時折愛好家に問いかけて、或いは問い詰めてくる。そう感じるのは「どちらでも好い」というこちらの思いと逆に「それこそが芸術には必要なのだ」と言われているような気がしてくるからだろうか?「LGBT等が問われている世界」での立ち位置を僕らは常に問われている。


 話を戻そう。

 街を散策している最中にシロッコとうだるような熱気に晒された主人公は一時、街を去ろうと決意する。それは彼の命を救う唯一の手段だったが、発送された荷物の行き先が誤っていたせいで街にとどまらざるを得なくなる。運命によってベニスにとどめ置かれた彼は居直ったかのように街中や海水浴場で、ストーカーのように主人公は美少年を視姦し続ける。その対象の姿は飽きることのないほどに美しく、やがて少年も彼を見つめ続ける老人の視線に気づく。そして、少年は彼に向かって微笑んだのだ。その微笑みは・・・主人公をベニスという街に虫ピンのように固定した。

 既にベニスを重苦しく覆いつつあったのは病と、病を隠す企みと、病を防ぐ消毒薬の不快な匂いであった。主人公は街の様子から真実を見抜き、その真相を知ることになるが、それを伝えればばタドズオ一家は街を去ってしまうだろう。そう考えた主人公の姿と精神は既に病に冒され死にかけた老人のようで、街に訪れたときに比べ醜く変容している。その醜い姿でまどろんだ彼の夢にはストラビンスキーの「春の祭典」に描かれたような原初的で暴力的な祭典の景色が描かれる。(実際には「春の祭典」の初演は1913年、「ベニスに死す」の上梓じょうしは1912年だから齟齬そごしているのだけど、時代を一にした芸術家は同じ景色を見たのかも知れない)

 そして最後の日・・・主人公アッシェンバッハは海辺へとボロボロの体を引き摺ってでかける。彼はポーランド人家族がその午後、ベニスを去ることを知っているが、もはやその体も精神もむしばまれきっていた。海辺で友人と争って去って行こうとするタドズオを追いかける力は彼にもう残っていなかった。


 その砂浜を僕も一度だけ訪れたことがある。シロッコの終わった夏、残念ながら小説の中に出てくるリドのエクセシオールホテルは満員で取れなかったが、ベネチアの街にあるDanieliと言うホテルに宿泊した。シーズン中と言うこともあって、生涯で1番高いホテルであった。

 ホテルの部屋からは美しい海と、その前に広がる趣のある街路が見えた。海にはヨットが浮かび、ゴンドラが揺蕩っていた。

 街の独特な世界は今でも鮮明に記憶に残っている。陸地から島へと向かう遊覧船、タクシー代わりのゴンドラが水路を伝って旅客を不思議な迷路に迷い込ませ、そこここにそこに住んだ有名人のプレートが嵌め込んである。奇妙な橋、不思議な像や飾り付け、立ちのぼる奇妙な匂い・・・サンマルコ広場はベニスが健全な街であると宣言しているが、一歩入ればアフリカ産のValentinoの偽物がそこここに並べて売られている。リドやムラーノの島々へ渡る船が夕焼けに染まった海に浮かぶ。一度は行くべき場所であり、一度行けばその記憶で一生十分だと思える街であった。


 僕はもう一度、老いたビヨルン アンドレセンの姿をネットの写真で見てみる。その老人は、じっと僕を見つめた後に

「どうそ、よろしく、かわいい人に、いちばんかわいい人に、いちばんきれいな、かわいい人に・・・」

 老人のろれつの回らない唇から唾が飛んだように思え、僕はのけぞってそれを避けようとする。その画面の向こう側に古い本の裏表紙の写真が僕を・・・臆病者を嘲るように笑っていた。


「ベニスに死す」 トーマス・マン 浅井真男訳(収録されているもう一編の「トリスタン」は佐藤晃一訳) 角川文庫 2468 01097-208103-0946(1)

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