第15話 特殊な魔法
「おはようで、いいのかな?」
部屋が随分と明るくなった頃に顔を出したボストンテリアが顔を顰めて、水差しを運んできた。
かっちりとした上下のスーツではあるが、初めて会ったときに着ていた軍服ではなかった。今の格好も、水差しを運んでいる姿も違和感が凄まじい。
既に辞表を出しているとはいえ、元将軍にやらせていい仕事ではないだろう。
「朝だからおはようで正しいな。食欲があるなら、朝食を運ばせるが」
「あ、食べる食べる。さすがにおなかが減っちゃった。野菜スープとかがいいな」
昨晩部屋にいた王太子の言葉が正しいなら丸一日以上は何も食べていないことになる。
寝起きですぐにしっかり食事をするのは胃がびっくりするだろうから、何か軽いものから始めたい。
「伝えてくるから、少し待ってくれ」
ボストンテリアは水差しをサイドテーブルに置くと、部屋を出ていった。けれどすぐに戻ってくると、大股で美生の傍へとやってきた。
「それで、ずっと怖い顔してどうしたの?」
「俺は口が上手くないから気の利いたことも言えないし、恋人も婚約者もいない朴念仁で魔法もあまり上手に扱えないが……」
「なになに、本当にどうしたの」
突然の自身を卑下し始めたボストンテリアを、美生はぱちぱちと瞬きをして見上げた。
彼はすっと手を美生の前に翳す。すると視界が覆われて何も見えなくなった。
「目が腫れているから、冷やしたほうがいい」
ひんやりと目の周囲が冷やされていく。
あからさまに泣いたとバレバレだったのかと羞恥が襲ってきたけれど、最初に知らない振りをしてスルーしてくれた彼の優しさがなんだかくすぐったい。
「前にも言ったが、貴女は何も悪くない。だから我慢なんてする必要はないし、これからもやりたいことをやっていい。それが当然の権利だ。俺にはなんの力もないし、貴女が望むことを何一つ叶えてあげることもできないから」
せめてもの償いだ、と彼はぽつりぽつり言葉を落とした。
勝手に連れてきた怒りもあるし、仕事ができない苦しさもある。元の世界に帰れない辛さや悲しみももちろんある。
だからこそ、こうして寄り添ってくれる温もりは大事ではないのかと感じた。
実家で飼っていたマツタロウを思い出す。彼も美生が落ち込んでいると、いつも静かに寄り添って温もりを分けてくれた。
何より無類の犬好きである美生にとって、待てができるおりこうさんを無下に扱うことなんてできるはずもない。
「ひんやり気持ちいい~、ありがとね」
視界が遮られているから、彼がどんな顔をしているのかはわからない。さきほどまでの渋面なのか、それとも少しは彼の罪悪感が解消されて穏やかな表情になったのか。
真面目で堅物そうなボストンテリアには難しそうだな、と現在彼の罪悪感に漬け込んでいる美生はくすりと笑う。
散々泣いて、一眠りした。
まだ胸は痛むけれど、幾分か落ち着いたことは確かだ。
「言いたいことはないのか」
「文句はちゃんと相手を選んで言うから大丈夫」
「そうか」
「そうよ」
くすくすと笑えば、彼の沈んだような声も少しだけトーンが上がる。
それになんとなく安堵しているとばんと荒々しく扉が開く音がした。
「――いい加減にしろっ」
怒鳴り声はドーベルマンのものだ。
けれど声は窓がある方から聞こえた。つまり荒々しく開けられたのは窓ということだろうか。
「ああ、なんだ解けたのか」
「あんな性悪な魔法をかけておいて、解けたのかだとっ!?」
怒りを顕わにずんずんと近づいてくる気配がしたので、美生はボストンテリアがかざしている手をそっとどけた。
テラスへと続く大きな窓が開け放たれており、彼はそこからやって来たのだろうと察せられた。ドーベルマンの毛並みは乱れ、薄汚れている。それよりもなにより、なぜか体中に縄を巻きつけているのが不思議だ。
さぞや特殊な魔法をかけられたのだろう。
朝からなんとも愉快な趣味だなと美生は目を瞬かせたのだった。
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